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第65葉, 生きている証とか 顔つきとか

こんにちは、yasu59 です。

1年ぶりくらいにお会いした方から、「精悍な顔つきになったね。」と言われました。顔つき / 顔立ち 似てはいるけれど、全然違うイメージがあると思う。顔立ちは 生来のものというニュアンスが強い気がするが、顔つきは その人の生き様や経験、信条や考え方が反映されてくる印象がある。

少し前にも、「何気なく、 と さりげなく の違いってわかる?」と訊かれた。すぐには答えられなかったが、漢字にしてみると判るかもしれない。「然り気なく」、そうだ / そのようである と ”相手” に悟られるような様子がなく… と解釈すれば、、、大きな違いは 行為の対象者の有無ではないだろうか。

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日々は " 然り気なく " ではなく、何気なく / 何とは無しに 過ぎていく。その、一見 忙しないような毎日に… 生きている証とは、一体 なんだろうか?

ふと見かけた、折坂悠太さんの動画での 赤い耳が印象的だった。前の記事でも 折坂さんについては触れたが、その見え方の違い / 感慨 というのは 「生活の匂いの色濃さ」だったように思う。それと共に、その人の思想性というか その人の血の通った言葉や表現、身振りや手振りも大事だと思う。

どちらかというと… 前者は 生きて ”いる” 証だが、後者は 生きて ”きた” 証かもしれないけれど。

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人から薦められて、イリナ・グレゴリ著 『優しい地獄』(亜紀書房, 第1版)を読んでいる。いい本です、印象的なフレーズを 本書より以下に引用する。

きっと新しい言葉を覚えたら、身体が強くなる。日本語は、私の免疫を高めるための言語なのだ。

p.124 より

日本になぜ来たのかの答えを見つけた気がする。それは同時に「違う角度から世界を見るため」だった。

p.130 より

人間の一人一人の身体は島であると感じる。各島の環境と植物、動物、細かいところ、細胞まで解釈も翻訳もできない、言葉で押しつけることのできない生き物の本質の現れを探る。

p.141 より

人が町に固まって住んで本当にいいのかと疑うぐらい森は広く、季節ごとに色が変わって綺麗だった。人の身体というものは、大勢の人々と町というところに住むようにできていないのかもしれない。
(中略)
 あの時の私は、統合失調症になる寸前だったと思う。自分の身体を少しずつ失っていた。不思議な暗いベールに囲まれていた。週末が終わるとまた列車で町に戻る。もう二度と戻れないと毎回思っていたのに。あの町の工場は部品と機械ではなく今で言えば巨大資本主義のミルクの工房のようだった。

p.163-164 より

なんでもかんでも 言葉で表現できる、とは 思わない方がいい。あくまでも、言葉は後付けで 伝えたり表現したりするための一手段に過ぎない。しかしながら、誰かの免疫を高めうる言語や表現、言い回しもきっと 存在する。

その事を、いつ何時も 忘れないようにしたい。

ー筆おきー

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