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第54葉, 助ける側とか 助けられる側とか

本当に 紙一重だ、と思う。
禍福は糾える縄の如し と言うけれど、それと同じで 助ける時と、助けられる時は当の本人が意識すら及ばないところで きっと入れ替わっていたりするのだろう。

どうも、yasu59 です。「もしかしたら、日本語には お手軽に助けを求められるような言葉がないのかもしれないな…」と、最近 思っております。助ける や 手伝う という言葉には、なかなか厄介なニュアンスが含まれている気がする。切っても切れないそれらと、どう向き合ってゆくか?

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今は、長田弘さんの「知恵の悲しみの時代」(みすず書房)を読んでいます。これまた 良書です。プルーラル アイデンティティという言葉を知り、そのアイデンティティのたもち方の如何が大切であると学びました。

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the people をどう訳すか?
国民や人民ではなく、人びと つまり、複数の「わたし」
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歴史には ファスト・ヒストリー と スロー・ヒストリー の2つがあって、わたし達の日々をつくっているもの、つくってゆくものは「スロー・ヒストリー」であり、まず問われるべきは " 一人一人の日々にとって一番大切なのは何か " という問いただしである と。

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自律、自立、自助、セルフヘルプ、セルフコントロール、、、
一人きりでは生きていけないのはわかっているつもりだし、しっかりした人になりたいけれど、何だかんだで しがらみをふっかけてくるではないか… と愚痴がましくも 思ってしまう、今日この頃。

” どうしても じぶんでじぶん自身を手に入れるんだという若者にこそ、祝福あれよ " とうたう、ビリー・ホリデイの「God Bless' The Child」
お願いだから、自分は 自分のアイデンティティを保たせてくれ。自分にとっては殺傷能力のある価値観や看板広告を、徒に流布しないでくれ。

そういった一々が 誰かの何かをかき乱すような「呪い」になり得る、どこかの誰かの日々を、生活を、暮らしを成り立たなくさせるだけの可能性があるという話だ。ただ、それだけ。

以下、「知恵の悲しみの時代」のプロローグより 引用させてもらう。

かつてのホロコーストの時代を生き延びた作家のエリ・ウィーゼルは、9・11直後のニューヨークで、問われてこう語ったと言われています。「私が感じたのは怒りより悲哀だ。精神は強い。だが暴力には無力だ。一丁の機関銃をもったテロリストは100人の詩人、100人の哲学者より強い」と( 外岡秀俊, 朝日新聞 2001年12月5日付 )。ウィーゼルの言うのは正しいとも言えるし、正しくないとも言えます。暴力というのは、他者を排除すること、言葉を放棄するということです。ウィーゼルの言葉は反語です。なぜなら、機関銃は殺せても蘇らせるちからはもたず、言葉はつねに蘇るちから、蘇らせるちからをもちつづけるからです。みずから他者をつくりだすのが、言葉です。

長田弘, 「知恵の悲しみの時代」(2006), p.9 「2001年、秋の朝 ー プロローグ」より

最後、自戒を込めて プロローグの締めの言葉から引用。

考えるとは、二分法で考えない、ということです。二分法からはじめない。それは読むことのはじまりです。

同上, p.10 より

耳が痛いですが…
否定は やさし

ー筆おきー

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