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分からないことは分からなくていいのだ【エッセイ】

はじめに

 東京大学の入学式が4月12日に行われて、映画監督の河瀬直美さんが祝辞のスピーチを行いました。その内容にかんして一部批判があるという記事を見つけて興味をもち、スピーチ全文を読んでみました。読んだところ、批判されていたのはごく一部であり、スピーチは全体として素晴らしいものだったという印象を受けました。

 以下は、令和4年度の東京大学入学祝辞スピーチを引用しつつ、スピーチの意図を読み解いたものです。それ以上の意図や主張はありません。

理解しやすいスピーチ

 時間にして約19分、文字にすると4059文字のスピーチでは、河瀨監督自身の生い立ちから、映画との出会い、そして映画と出会ったことで自身のものの見方を会得していったことなどが、経験を交えて語られています。情景が浮かぶような体験談を随所にはさみ、「おばぁちゃん」や「空」「犬」など身近な言葉を散りばめ、情感を込めて語られたスピーチは、まさに祝辞にふさわしいものだったと思います。

主張とは

ある映画人が私にこんなことを教えてくれました。たった一つの窓をずっと見つめ続けてください。若い世代には特にそのことがとても大切であることを忘れないでください。そのたった一つの窓から見える光景を深く考察してみてください。そうすればその窓の向こうにある「世界」とつながることができる。私はその言葉を頂いたときにとてもハッとしたことをよく覚えています。なぜなら、自分の部屋から見える窓の向こうの景色には「真理」が隠されているのです。そしてその「真理」を知ることで、結果的に世界中の人との出会いを豊かにします。それは他でもない自らの言葉でその真理を伝えることのできる自分でいられるからです。これこそがオリジナリティであり、他の人には真似のできない唯一無二のものとなります。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)


 スピーチの中盤、ある映画人に河瀬監督が教わったことを述べた部分です。この主張が、スピーチの要旨といえます。スピーチはこう続きます。

私の地元奈良の東大寺は華厳宗のお寺ですが、華厳の思想はこうした小さいものの中に無限の宇宙を見ることを説いています。一つの窓を見つめ続け生み出された一滴が、私の「世界の切り撮り方」として他の人たちの目に触れます。逆にいうと、それ以外のことから誰も判断してはくれません。だからこそ、小さくても自らのまなざしを獲得することはとても大切なのです。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

 
 すなわち監督は、自分なりのものの見方を持ってほしいと言っているのです。そしてそれがその人の個性となる、と主張しています。

監督自身のものの見方とは

私があなたと同じ歳の頃、養母である「おばあちゃん」を撮っているとどうしようもなく彼女に触れてみたくなりました。8ミリをまわしながら私は彼女の頬に触れてみました。その時、私の中に2人の自分が存在していました。冷静に世界を見つめる客観的な私と、おばあちゃんの肌触りを直接感じている主観的な私です。このふたつの存在、主観と客観を持つことこそが、表現者たる資質を獲得することに他ならないと感じていました。その感覚を手に入れた私は、そのあとファインダーを覗いてフィルムカメラのシャッターを押しながら見えるものの固有名詞を叫び始めます。「空」「雲」「犬」「えんどう豆」「おばあちゃん!」こうして私は世界を存在させてゆきました。名前をつけるということは、世界にそれらを存在させるということだったのです。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

 河瀬監督自身のものの見方についても語られています。それは、幼いころに預けられた養母にカメラを向けているときに得られたといいます。

  「名前」はキーワードです。一般にものを区別するためのものですが、ここでの名前とは、自身で獲得したものの見方をとおして見られたもののことを指し、監督は自身の見方によって世界を理解していく行為を「名付ける」と表現しています。

管長さんの引用

また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。

「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

 「おばぁちゃん」の話のすぐ後です。管長さんはどうしてあれらの国の名前を言わないようにしていたのでしょうか。
 ここでも名前がキーワードになります。名前というのは、”自身のものの見方”を通して見られたものに付けるものでした。とすると、管長さんが名前を言わないようにしている理由は、この物事に関しての彼なりのものの見方を持ち得ていないからだ、と考えることが出来ます。

 この後、スピーチはこう続きます。

(中略)管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。

令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)

 この部分を問題視する批判が多かったように見えました。ロシアのしたことを悪と見なさないいわば”どっちもどっち論(ある批判より)”的であるという批判です。

批判は本題とは関係がない

 このスピーチの趣旨はあくまで、ものの見方にあります。監督がスピーチで管長さんの話を引用して伝えたかったのは、手元にある一般論や借り物の主張を用いて張りぼての意見を持つことの危険性です。管長さんの発言は、自分の視点では理解できない現象に対しての「理解できない」という表明であり、それは、ソクラテスの言う無知の知ともつながる姿勢です。つまり、知らないと自覚することが、知ることへの意欲を掻き立て、結果的に知ることにつながるということです。その点入学式の祝辞として適切だと思います。
  批判は、スピーチの中のごく一部に対してなされています。よって、スピーチの本題とは関係がないといえるでしょう。ただし、強いて言えば、あえて此度の戦争に触れた意義はそれほど大きくないかもしれません。ほかの例でも十分趣旨を伝えることは可能だったのではないでしょうか。慎重になるべきテーマにおいて、慎重さが少し足りなかったとは言えるかもしれません。


参考

スピーチ全文はこちら↓
令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様) | 東京大学 (u-tokyo.ac.jp)
  


 


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