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自分のための備忘録⑥ー小川未明『野ばら』ー

本文は青空文庫より全文を一字一句変えずそのまま掲載しています。

 大おおきな国くにと、それよりはすこし小ちいさな国くにとが隣となり合あっていました。当座とうざ、その二つの国くにの間あいだには、なにごとも起おこらず平和へいわでありました。

 ここは都みやこから遠とおい、国境こっきょうであります。そこには両方りょうほうの国くにから、ただ一人ひとりずつの兵隊へいたいが派遣はけんされて、国境こっきょうを定さだめた石碑せきひを守まもっていました。大おおきな国くにの兵士へいしは老人ろうじんでありました。そうして、小ちいさな国くにの兵士へいしは青年せいねんでありました。

 二人ふたりは、石碑せきひの建たっている右みぎと左ひだりに番ばんをしていました。いたってさびしい山やまでありました。そして、まれにしかその辺へんを旅たびする人影ひとかげは見みられなかったのです。

 初はじめ、たがいに顔かおを知しり合あわない間あいだは、二人ふたりは敵てきか味方みかたかというような感かんじがして、ろくろくものもいいませんでしたけれど、いつしか二人ふたりは仲なかよしになってしまいました。二人ふたりは、ほかに話はなしをする相手あいてもなく退屈たいくつであったからであります。そして、春はるの日ひは長ながく、うららかに、頭あたまの上うえに照てり輝かがやいているからでありました。

 ちょうど、国境こっきょうのところには、だれが植うえたということもなく、一株ひとかぶの野のばらがしげっていました。その花はなには、朝早あさはやくからみつばちが飛とんできて集あつまっていました。その快こころよい羽音はおとが、まだ二人ふたりの眠ねむっているうちから、夢心地ゆめごこちに耳みみに聞きこえました。

「どれ、もう起おきようか。あんなにみつばちがきている。」と、二人ふたりは申もうし合あわせたように起おきました。そして外そとへ出でると、はたして、太陽たいようは木きのこずえの上うえに元気げんきよく輝かがやいていました。

 二人ふたりは、岩間いわまからわき出でる清水しみずで口くちをすすぎ、顔かおを洗あらいにまいりますと、顔かおを合あわせました。

「やあ、おはよう。いい天気てんきでございますな。」

「ほんとうにいい天気てんきです。天気てんきがいいと、気持きもちがせいせいします。」

 二人ふたりは、そこでこんな立たち話ばなしをしました。たがいに、頭あたまを上あげて、あたりの景色けしきをながめました。毎日まいにち見みている景色けしきでも、新あたらしい感かんじを見みる度たびに心こころに与あたえるものです。

 青年せいねんは最初さいしょ将棋しょうぎの歩あゆみ方かたを知しりませんでした。けれど老人ろうじんについて、それを教おそわりましてから、このごろはのどかな昼ひるごろには、二人ふたりは毎日まいにち向むかい合あって将棋しょうぎを差さしていました。

 初はじめのうちは、老人ろうじんのほうがずっと強つよくて、駒こまを落おとして差さしていましたが、しまいにはあたりまえに差さして、老人ろうじんが負まかされることもありました。

 この青年せいねんも、老人ろうじんも、いたっていい人々ひとびとでありました。二人ふたりとも正直しょうじきで、しんせつでありました。二人ふたりはいっしょうけんめいで、将棋盤しょうぎばんの上うえで争あらそっても、心こころは打うち解とけていました。

「やあ、これは俺おれの負まけかいな。こう逃にげつづけでは苦くるしくてかなわない。ほんとうの戦争せんそうだったら、どんなだかしれん。」と、老人ろうじんはいって、大おおきな口くちを開あけて笑わらいました。

 青年せいねんは、また勝かちみがあるのでうれしそうな顔かおつきをして、いっしょうけんめいに目めを輝かがやかしながら、相手あいての王おうさまを追おっていました。

 小鳥ことりはこずえの上うえで、おもしろそうに唄うたっていました。白しろいばらの花はなからは、よい香かおりを送おくってきました。

 冬ふゆは、やはりその国くににもあったのです。寒さむくなると老人ろうじんは、南みなみの方ほうを恋こいしがりました。

 その方ほうには、せがれや、孫まごが住すんでいました。

「早はやく、暇ひまをもらって帰かえりたいものだ。」と、老人ろうじんはいいました。

「あなたがお帰かえりになれば、知しらぬ人ひとがかわりにくるでしょう。やはりしんせつな、やさしい人ひとならいいが、敵てき、味方みかたというような考かんがえをもった人ひとだと困こまります。どうか、もうしばらくいてください。そのうちには、春はるがきます。」と、青年せいねんはいいました。

 やがて冬ふゆが去さって、また春はるとなりました。ちょうどそのころ、この二つの国くには、なにかの利益りえき問題もんだいから、戦争せんそうを始はじめました。そうしますと、これまで毎日まいにち、仲なかむつまじく、暮くらしていた二人ふたりは、敵てき、味方みかたの間柄あいだがらになったのです。それがいかにも、不思議ふしぎなことに思おもわれました。
「さあ、おまえさんと私わたしは今日きょうから敵かたきどうしになったのだ。私わたしはこんなに老おいぼれていても少佐しょうさだから、私わたしの首くびを持もってゆけば、あなたは出世しゅっせができる。だから殺ころしてください。」と、老人ろうじんはいいました。

 これを聞きくと、青年せいねんは、あきれた顔かおをして、
「なにをいわれますか。どうして私わたしとあなたとが敵かたきどうしでしょう。私わたしの敵てきは、ほかになければなりません。戦争せんそうはずっと北きたの方ほうで開ひらかれています。私わたしは、そこへいって戦たたかいます。」と、青年せいねんはいい残のこして、去さってしまいました。

 国境こっきょうには、ただ一人ひとり老人ろうじんだけが残のこされました。青年せいねんのいなくなった日ひから、老人ろうじんは、茫然ぼうぜんとして日ひを送おくりました。野のばらの花はなが咲さいて、みつばちは、日ひが上あがると、暮くれるころまで群むらがっています。いま戦争せんそうは、ずっと遠とおくでしているので、たとえ耳みみを澄すましても、空そらをながめても、鉄砲てっぽうの音おとも聞きこえなければ、黒くろい煙けむりの影かげすら見みられなかったのであります。老人ろうじんはその日ひから、青年せいねんの身みの上うえを案あんじていました。日ひはこうしてたちました。

 ある日ひのこと、そこを旅人たびびとが通とおりました。老人ろうじんは戦争せんそうについて、どうなったかとたずねました。すると、旅人たびびとは、小ちいさな国くにが負まけて、その国くにの兵士へいしはみなごろしになって、戦争せんそうは終おわったということを告つげました。

 老人ろうじんは、そんなら青年せいねんも死しんだのではないかと思おもいました。そんなことを気きにかけながら石碑せきひの礎いしずえに腰こしをかけて、うつむいていますと、いつか知しらず、うとうとと居眠いねむりをしました。かなたから、おおぜいの人ひとのくるけはいがしました。見みると、一列れつの軍隊ぐんたいでありました。そして馬うまに乗のってそれを指揮しきするのは、かの青年せいねんでありました。その軍隊ぐんたいはきわめて静粛せいしゅくで声こえひとつたてません。やがて老人ろうじんの前まえを通とおるときに、青年せいねんは黙礼もくれいをして、ばらの花はなをかいだのでありました。

 老人ろうじんは、なにかものをいおうとすると目めがさめました。それはまったく夢ゆめであったのです。それから一月ひとつきばかりしますと、野のばらが枯かれてしまいました。その年としの秋あき、老人ろうじんは南みなみの方ほうへ暇ひまをもらって帰かえりました。

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