『雨の慕情』を歌ったはなし
乾杯といえばビールで、ビールといえば父なのだった。商売をしていて落ち着かないし家族的一体感もない、義務感満載の陰気な食卓。浮かれる要素はひとつもなかった子ども時代ではあったけど、夢か幻かたまに両親の機嫌がいいと、わたしのコップにもビールがつがれた。
苦味さえがまんすれば飲めない代物ではないな、と子ども心に感じて注がれれば飲んでいた。ここだけの話にしてください。
商売がうまく回らなかったせいか、嫁姑のいさかいに疲れたのか、陰気な食卓に嫌気がさしたのか、はたまたその全部か、父は飲まないではいられないという飲み方をし続けたあげく、肝臓を壊して亡くなった。わたしが二十歳の時。急逝だった。
急逝といっても一か月くらいは闘病したはずだけど、看病に通い詰める母からは病院に行かなくていいと言われていて、精神的に幼かったわたしはそれを律儀に守り、症状すらよくわからないでいた。それに父は、じっとしている姿を見たこともないくらい動く人だったし、病気になるなど想像もしていなかったし、ましてや亡くなるとは思いもよらなかったので、瞬時に消滅してしまったような感覚だった。
それは母以外の全員がそうだったらしく、こんな言い方はふさわしくないだろうけれど、実際お葬式もその後の弔問もずいぶんと派手に盛り上がった。「なぜ急に!?」「具合が悪いなんて気づかなかった! 」など、激昂し号泣する人が相次いだ。なにせ44歳の若さだったし、とにかくずっと配達という名の回遊を続けてたくさんの人に会い続けていた人だったからだ。
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わたしには亡き父との思い出がほとんどない。父との間には母の鉄壁のガードが張り巡らされていて、直接会話した記憶がほとんどない。おそろしいことにここ数年は父の名前を間違えていたり、命日や誕生日を思い出せなかったことすらある。いかんいかんそれはいかん。
時が経つほど「父という人」を知らないことを「もったいない」と感じるようになってきた。酒に逃げた父。強気な母の前で憔悴していた気弱な父。他人には誰彼となく陽気に声をかけ人気者だった父。困っている人を助けてお礼の手紙を受け取っていた優しい父。今ならフォローしてあげられるのに。
父とは関係を築けなかった。つくづく残念に思う今日この頃です。
一度だけ、父と二人で呑みに出かけたことがある。たぶん。父もわたしも酒飲みだったから、もしかすると一度ではないかもしれないけど記憶がそうなっているのだからまあそれでいい。
※前述で父とは二十歳で死別したと書いたのにその時点ですでに「酒飲み」だったことを懺悔したい。しかも実は入院したときわたしはまだ19だっ
……ん?んんんんん????
あああっ、ヤバイっ、亡くなったときも19だった!! ほらあもう間違えてる。えーでも昭和の話だから!
というわけで19のときの飲酒の話(子どものころから飲んでたとすでに白状しているのでジタバタするのはやめます、はい)。
家は商売をしていたので付き合いもあり、とにかく父は喫茶店やら居酒屋さんやらの飲食店には朝から晩まで行き倒していた(配達の仕事がてら)。
わたしもまた短大に入った途端にせきを切ったように大量の飲酒をするようになっていて、しかもいくら呑んでも平気だったので、自分も友人も驚いていた。(20代半ば頃までリアルに※『平成よっぱらい研究所』だった) ※文末にリンク貼りました)
「父と二人で飲みに行く」という貴重な体験をしたのはその頃だ。父から誘われたのか、いつものように母がお膳立てをしてわたしを見張りとして付き添わせた(※)のか、いっさい定かではないけど、とにかく二人で出かけた。あとから考えたら体の具合もよくなかったであろう頃なので、虫の知らせもあったのかもしれない。知らせてくれた虫よありがとうと、わたしはこれまで何度となく心で手を合わせている。虫に?
※父は飲み屋をはしごし、最後はスナックでべろんべろんになって深夜帰宅することがあった。深夜というほど遅くもなかった気もするけどとにかくそんなとき母はブチ切れまくっていた。そんなときというよりたいていいつも母は怒りまくっていた。そんな母をもフォローできなかったあの頃の自分を思うとまた哀しい。
二人並んで腰かけたのは、小料理屋さんのカウンターだった。父もわたしもお店のママとか常連さんとか、父の顔なじみの人相手に会話をして、二人での対話はしていない気がする。不思議と気まずいということでもなくて、それは家にいるときと同じ状態だったからであろうと想像される。ママさんも他のお客さんも、父が初めて連れてきた娘のわたしを気にして話しかけてくれるし、なによりいくらでも飲んでいられる二人だから、お互いビールを注ぎ合うだけで間が保っていた、ような気がする。
ビールを飲もうと顔を上げるたび、真正面の小型のブラウン管テレビが目に入っていた。カラオケ用だ。ママさんから「どう? 」と言われてわたしはすんなり歌うことを了解した。不思議だ。躊躇せず『雨の慕情』を選んで歌った。それまでにカラオケの経験はあっただろうか? よく覚えていないけど『雨の慕情』を歌ったのは初めてだった気がする。お店の年齢層に合わせて演歌を歌わなければと思って選んだことだけは覚えているから。
父の前で歌った最初で最後の歌。あめあめふれふれもっとふれ。ちゃんとフリもつけたんじゃなかろうか。歌ってよかった。
一度きりだったけどお店で一緒に吞めて良かった。ぎこちなかったけどこれが最初なのだから、と思っていた。二人でお酒を飲んだら徐々に距離を縮めることができると感じていた。また一緒に来れると信じていた。
父もあの夜のことを最期まで覚えてくれていたような気がする。
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あれから数えきれないくらいの乾杯をしてきた。わたしのビール好きは変わらず、「こんなにうまそうにビールを飲む女を見たことがない」とか「ビールのCMに出れるよ」といった賞賛(?)も、若い頃は数多く頂戴してきた。イベントにかこつけたいわけでもないが、子どものころから一押しはキリンラガービールだし、麒麟の絵柄と文字をこよなく愛している。
死ぬまでこのままビール好きでいたいわたしの原点は間違いなく父だ。父と杯を合わせた記憶はないけれど、瓶ビールを注ぐときはラベルを上に向けるのだということを、あの日確かにわたしは父から教わった。注ぎ注がれ、きっと乾杯をしたはずだ。
お父さん、乾杯。いつかまた二人で飲もう。