亡くなった人も成長する
「#また乾杯しよう」を知ったのは締め切り前日の夜。キナリ杯への参加をあきらめた時と同じタイミングでした。
でも! 乾杯だし! キリンビールさんだし! で、どうしてもなんとかしてみたくてがんばってみた結果、締め切り2分前に投稿できました。やっとやっとnoteさんのメンバーになれた気分です。ほっ。
で、乾杯ネタにした亡き父のはなしはもろもろあって、続きのような感じでもう少し書いておきます。
「成長」する 父の思い出
2020年4月3日 朝日新聞朝刊 生活面「ひととき」より
素通りしそうになってから、立ち止まった。「成長」かあ、なるほどなあ、とゆっくりと腑に落ちていく感じがした記事で、切り取っておきました。
亡き父との思い出は本当にほとんどない。なにしろ会話らしい会話をしたことがなかったし、コミュニケーションが取れない間柄(?)だった。なんなんだ、といつも思う。
だから年月が経てば立つほど亡くなったことを痛切に残念に思うようになってきている。亡くなった父の年齢を超えてからは特に痛切だ。
で「成長」のこと。
こんなに思い出がないままでは、彼とていくらなんでも浮かばれまい!とばかりにやっきになって思い出し始めているわけなんですが。
少ない記憶を掘り起こす作業には、そのときの父の気持ちを想像するという作業が伴う。すると確かに、実際には会話もコミュニケーションもなかった父との間に、対話のようなものが生まれてくる気がする。
父を生きさせてあげたい。そしてきちんと供養したい。そんな気持ちで思い出していると、実際には家族との対話が出来ずにいた父から言葉を引き出してあげられている気がする。俯いてばかりの気弱な父が、少しずつ本来の明るさを取り戻して、家族との対話を楽しめるようになっていく。そんなイメージ。
これを「成長」と呼ぶということでいいのだろうか。
まだすっきりと理解できるところまではいかないけど、そういうことにしておけばいいなあと思える。いまのところはそれだけでいい。