クッツェー/夷狄を待ちながら
争いは作られる
この物語の舞台になるのは帝国に属する国境沿いの町である。
そこにきな臭い事態が出来し主人公含め町全体が巻き込まれることになる。
夷狄が帝国を攻めるに当たり、まずこの町を第一の目標とするらしい。
クッツェーはこの争いというのは不可避的にどうしても起こってしまうというよりは、むしろ企図されていると説く。
戦争状態、もっというと不和、さらに言えば敵というのは作られている。
夷狄というのは概念であって、その実別の生活基盤や文化をもっている自分たちとは異なる人々のことだ。
鍵になるのは罪悪感
というのももともとこの帝国が作ったオアシスに面する辺境の町というのはもともと帝国の言うところの夷狄が暮らしていた土地を奪って(そのときに闘いがあったのかは不明)建築されたものだからだ。
誰も明言しないし、なんなら臆面なく帝国領であることをひけらかす住人もいるかも知れないが、もともとは夷狄の土地だったということはみんななんとなく知っているわけである。
苦い真実というか。あまり直面したくないが罪の意識がある。
主人公の初老の民政官は知識がある(帝国からこの辺境に派遣されている)エリートで、さらに余暇では夷狄の廃墟をあさっては彼らの生活の痕跡を発掘しているような男だから、この罪悪感という念が強い。
もともと彼らの土地を奪って、追い出したわけで、夷狄というのは元来被害者であって、もともと仇敵ではなかった。
帝国(主義)
帝国はその体制を維持するために積極的に敵を必要としていることが示唆されている。
辺境に拠点を築いて国境を押し広げることは彼らの国策であって、つまり食い扶持と敵を作るために争いを自ら生み出すという性質をもっている。
明確な敵を作れば民意がまとまるのでそれもまた狙いの一つ。
争いは帝国が自らの強欲と罪悪感から生み出している、と民政官は考える。
帝国の実態
夷狄を調査する名目で町に糊付け一通り拷問をしたあと、帝国の尖兵は去っていく。
その後本格的に夷狄と一線構えるための兵隊が派遣されてくる。
はじめは歓迎しなかった町民も自然に高まってくる夷狄との緊張の中で、兵隊を尊敬するようになり、彼らの狼藉にも目をつむるようになる。
ところが戦いにでかけた先で夷狄にいいようにやられて尻尾を巻いて帰ってしまう。
争いを自ら生み出し、さんざん敵の悪性と自らの正当性を喧伝し緊張感を高めたが、いざ戦争になると全く当てにならないわけだ。
兵隊が去ったあとで
金と物資、それから危機を感じて帝国に帰った民草、兵隊が去ったあとに町にはほとんど何も残っていない。
彼らはそんな中でこれから来るであろう夷狄をただ待っている。
夷狄をまつ、今まで来るぞ来るぞと煽られて待ち続けていた夷狄。
最後の最後で彼らを本当に待つことになる。
兵隊が帝国が見出した不和、戦争の種のツケは帝国ではなく、民衆が払うことになる。
戦争があるからと言う理由で散々搾取されたあとに実際の闘争のつけを何故か民衆が払うことになる。
夷狄が町民を皆殺しにしてオアシスを奪還するのか、あるいは平和交渉を改めてすすめるのかはわからない。
肉体
この物語で強調されるのは肉体である。
初老の民政官の豊かな腹は拷問でしぼんでいく。
拷問は夷狄と民政官に対して帝国の兵隊が行っていく。
この暴力は紛れもなく帝国の本質を表現していく。
意に沿わないものは暴力で排除するというのが帝国の本質である。
夷狄の少女
夷狄の少女は父親と一緒に帝国の兵士に囚われ拷問を受ける。
父親は死亡、本人は拷問の末に半ば盲目になっている。
いわゆる洗練された美女ではなく、ずんぐりした肉体を持ち、食欲は旺盛。
その真意は帝国に属する民政官からは全く推し量ることができない。
民政官は行き場のなくなった少女を明らかに罪悪感から引取、また民政官は性欲が旺盛なので愛人とも使用人とも取れる妙な関係を構築していく。
この少女はそのまま夷狄の象徴で、民政官を生まれた部族に返すため危険な旅を敢行するが、それでも最後まで彼女のことが理解できなかった。
夢に見るまで彼女のことを知りたかったのだが、ついぞ彼女をわかるということができなかった。
面白いのは物語の最後に、夷狄の少女も民政官の真意を測りかねていたという事実が明らかにされることだろう。
彼らは出自が異なっても帝国という暴力的なシステムにその人生を肉体に影響が出るまで徹底的に破壊されるという同じ経験をする。
作中ではおそらく意図的に描かれていないが一見へこたれない(精神的な影響は軽微に見えるが実はそうでないはず)二人だが、それでもわかり合うことができなかった。
違うこととわかり合うことの難しさ
この物語はもちろん帝国主義への痛烈な批判性を持っていることは確かだが、それならなぜ老人の性愛を生々しく書くのだろう?
エンタメ的な側面もあるだろうが、やはりここは被害者同士であっても理解し合うことの困難さを書いているように思う。
帝国が例えなかったとしても立場、肌の色、文化がことなる人々が一緒に生活したり、上下主従のない関係でわかり合うことがいかに難しいか、それがクッツェーが書きたかったこと。
つまり帝国に批判的で洗練された知的階級である民政官の高邁な精神でも、文化が異なる人と肉体レベルで(単に性愛の話でなく)融和するということの困難さ。
まとめ
人類が誕生して諸説あるが何十万年。
死の病のいくつかは根絶され、寿命は長くなり、世界の裏側でも動画でリアルタイムで会話でき、仮想空間は一生かけても読めない情報で溢れている。
しかし相変わらず国境はあり、肌の色や文化の違いで争いは連綿と続き、銃弾が大量に生産され続け、人が人を殺し続けている。
帝国は名前と形を続けて存在し、搾取され続けているはずの民衆が煽られて気がつけば闘いの最前線に立っている。
それらのしがらみを脱したとて果たしてぜんぜん立場の違う私達が共存できるのか、というところ。
そんな普遍的な人間世界を描いた今作、是非どうぞ。