異端の鳥
地獄めぐり、というジャンルがある。
いちばん有名なのはダンテの「神曲」でダンテがウェルギリウスとベアトリーチェに導かれ地獄(と天国やその周辺)をめぐる。
またジョセフ・ヘラーの「キャッチ=22」でも主人公ヨッサリアンが地獄と化した現世(=戦場となった市街地)をめぐることになった。
キリスト教的な世界観では地獄とはここではないどこかであるが、ヘラーは明らかに現世こそが地獄になりうると考え、戦争の愚かさと残酷さを書くことで警鐘を鳴らした。
この映画「異端の鳥」では更に過酷で生々しい地獄が映像になって展開されている。
主人公のユダヤ系の少年は父母から離され田舎でおばあちゃんと暮らすことで差別や暴力からある程度保護されていた。
しかしその環境から追いやられることになり、父母を求めてなんの庇護もない土地をさまようことになる。
この少年はそのままユダヤの歴史の擬人化であり、どこにいても差別され、暴力を振るわれ、利用され、搾取される。
主人公が少年であるのはもちろん一番弱い立場であるからだ。
力も知恵も経験もなく、なんの後ろ盾もない。つまりこの時代の社会の最下層に位置する存在として主人公の存在がある。
彼は差別や暴力に対してほとんどなすすべなく強者の理論を受け入れることを強要され、常に何かを奪われながら流されていく。
この映画の背景には戦争が横たわっており、村が略奪されるシーンでは戦争の愚かさの最たるものが非常に効果的に収められているが、この映画の面白さは戦争批判映画ではないことだ。
いわば人間批判映画だろうか。
戦争というのは人間の愚かさと暴力性が一番開花する状態であって、この映画では戦争の有無関係なしに人間がこの地上で様々な地獄を展開する様子を描いている。
嫉妬、差別、性欲、暴力、死。戦争がなくたって人間は互いに憎しみ合い、殺し合っているのだ。
この映画の原題は「The Painted Bird」で、これは作中に登場する同じ鳥の羽根を白く塗ってから群れに返すと、鳥はその色違いを異種だと思って集団で殺してしまう、というエピソードに由来する。
同種殺しをするのは人だけだというが、これはそうではなく自然界は自然に異物を排除し殺す傾向があると明言しているわけだ。
この地獄みたいな世界でしかし、少年は少しずつ生き方を学んでいく。
彼はいつまでも純真な少年ではない。常に殴られる存在ではない。彼はこの世界で渡り合っていくすべを学んでしたたかになっていく。
彼の沈黙が受動的な緘黙から、能動的な無言に変わっていくさまが頼もしくも恐ろしい。
そう恐ろしい。この危険な世界では少年はいつまでも何も知らない少年でいることはできない。無垢なままでいるならクソにまみれて死ぬしかないからだ。
この少年はただの無垢な少年でない危険な存在であっても、三食昼寝付きでその隙間に携帯電話を片手に世界を呪うしかない現代の人々には彼を批判することはできない。
私はこの映画なんといっても最後の直前がとても良かった。
彼は今一度自分の放浪を振り返る。どこにでもいるのに、どこにもいない人々に交じることで自分の本質とそしてこれからの生き方を考えてみた。したたかになった今名前のない社会の底辺として、ただ搾取されることなく戦って生きることだってできる。それをあの世界で一番弱いが、一番強くて勇気のある人々に混じって少年は考えたのだ。
そして自分を取り戻すことにした。少年はこの先きっと喋れるようになるだろう。
繰り返しになってしまうが私はこの映画を単に戦争批判の作品だと思わない。戦争を言い訳にしない、もっと深い人間性に対する批判(否定ではない)をはらんだ映画だと思う。だからこんなに苦いのだ。