とうてつ

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最近の記事

山尾悠子/山の人魚と虚ろの王

幻想小説、幻想文学とは何か、と考えたとき、幻想的であると答えるとのは全く意味がなさない、トートロジーに陥っている。 幻想小説の中では非日常が起こるわけだ、不条理である必要はなくてどこか非現実的な出来事が。 となるとSFに関しても、ファンタジーに関しても現代では再現することができない事象が起こるけど、それらを指して幻想小説だとはいわない。 なぜならSFなら科学的に不可思議が、ファンタジーなら魔法で不可思議が説明できるからである。 実際にはどれも実現不能であるとしてもそれ

    • 上田秋成/雨月物語

      大学生の頃に読んだものの再読。 怖い話を読んでいると必ず引き合いに出てくるのがこの雨月物語。 なんとなく古典というイメージがあったけど、作者の上田秋成は江戸の人で、この本が出版されたのも1776年のことだった。 概ね日本、中国の古典を元ネタとし、時には複数の物語を下敷きに上田が書き換えた、いわゆる翻案小説である。 鵜月洋によるあとがきを読むとなぜこの雨月物語が、日本の怪異譚では異彩を放っているのかというと、 一つ、翻案小説であり(いわゆるパクリではなく)元ネタが各所

      • クッツェー/夷狄を待ちながら

        争いは作られる この物語の舞台になるのは帝国に属する国境沿いの町である。 そこにきな臭い事態が出来し主人公含め町全体が巻き込まれることになる。 夷狄が帝国を攻めるに当たり、まずこの町を第一の目標とするらしい。 クッツェーはこの争いというのは不可避的にどうしても起こってしまうというよりは、むしろ企図されていると説く。 戦争状態、もっというと不和、さらに言えば敵というのは作られている。 夷狄というのは概念であって、その実別の生活基盤や文化をもっている自分たちとは異なる人々のことだ

        • 沼野充義編/東欧怪談集

          怪談というのは為政者によって正しく整備されるもの(歴史)ではない。 市民の市民のための物語であり、それ故地方特性や市井の文化が非常に色濃く反映される。 おおよそ超自然のものを扱う事が多いので、宗教観そして死生観、彼らが何を信じ何を恐れているのかをうかがい知ることができる。 河出文庫のこの一連のシリーズは怪談を地域ごとにまとめて編集したもので、今回は東欧、ヨーロッパの東の方。 具体的には下記の国の怪談、奇妙な話が収められている。 ポーランド チェコ スロヴァキア

          コルソン・ホワイトヘッド「地下鉄道」感想

          奴隷として生まれた黒人の少女、コーラは自分を搾取し、殺す農園から脱走する。 生きることが戦いなら、生き延びるために命がけで逃走することはまさしく闘争だ。 多くの黒人が生命を搾取されているのに脱走しないのはその成功率が単に低いからである。 捕まれば持ち主のもとに戻され、見せしめのために拷問されて殺される。 逃げなければ少なくともすぐに殺されることは(そんなに)ないから、いずれ殺される農園で働く。 すぐ殺されるか、じっくり殺されるか、ほとんどの人は後者を選ぶだろう。 華々

          コルソン・ホワイトヘッド「地下鉄道」感想

          異端の鳥

          地獄めぐり、というジャンルがある。 いちばん有名なのはダンテの「神曲」でダンテがウェルギリウスとベアトリーチェに導かれ地獄(と天国やその周辺)をめぐる。 またジョセフ・ヘラーの「キャッチ=22」でも主人公ヨッサリアンが地獄と化した現世(=戦場となった市街地)をめぐることになった。 キリスト教的な世界観では地獄とはここではないどこかであるが、ヘラーは明らかに現世こそが地獄になりうると考え、戦争の愚かさと残酷さを書くことで警鐘を鳴らした。 この映画「異端の鳥」では更に過酷

          永遠のソール・ライター

          ソール・ライターというのはNYの写真を取り続けた写真家の人である。 この人の写真を見るとたしかにNYという街を取り続けているように思える。 ところが実際目にしていると「街が主役」というような陳腐な言葉では説明できない写真だと思った。 ピントとは文字通り写真を取る際に合わせる焦点のことだが、ライターの作品ではこれが人物から外されていたり、わかりやすく作品の中央に配置されているわけではないから、どうしても人が主人公の普通の作品とは異なって見える。 ところが展示品の中にも名

          永遠のソール・ライター

          テッド・バンディ感想

          非常に肉体的な映画で、そういった意味では非常にアメリカ的だ。 私はアメリカ文学が好きだ。マッカーシーがきっかけで何冊か読んでみると、ヘミングウェイが象徴的だがアメリカでは徹底的に内面的な描写を排し、肉体の動きのみを描いて物語を紡ごうとする一派がいる。 批判されることもあるが私はこれが好きで、というのも人の気持ちをこちらで汲み取り考えて物語が完結するからだ。心理描写を細かく書かれるとなんだかつまらないのである。 だって人の気持ちなんてわかるわけはないからだ。 テッド・バ

          テッド・バンディ感想

          映画「ドクター・スリープ」感想

          ※※※壮大にネタバレあります。※※※ これはもうすでに終わっている物語。 開始30分でダニーがビリーに言う 「助けが必要だ」 ダニーは40歳を超えて家族はいない、職もなければ金もない、友人もいない。孤独なアル中だった。ただそれが自分の力だけで(ハロランがそばにいるけど、決めたのはダニーだ)そこから抜け出すことを決意し、また実際に抜け出すために新しい街に来た。 会って間もない人に「助けてくれ」というのは非常に難しい。 さらに幼いときに心に深い傷をおい、生涯人を信用す

          映画「ドクター・スリープ」感想

          全感覚祭について思うところ

          全感覚祭というのは日本のバンドGEZANが提唱し、実践しているいわゆる都市型の音楽フェスだ。今までもいくつかの場所で開催して気になっているのでこの三連休で行ってきた。結局入れなかったんだけど…。色々思うところがあったので書いてみる。 まず全感覚祭が特徴的なのは投げ銭形式だろう。ドリンク代を支払えばあとは基本的に支払の義務がない。無料のイベントと言うよりは協賛を募る形で、受け手がドリンク代(今回は600円)だけしか支払わないことも可能。(公式では入場無料だがタダのイベントでは

          全感覚祭について思うところ