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第11回六枚道場

「ワルハラ探題」田中目八

ワルハラはヴァルハラと同義のことだろうけれども、北欧を北窓としてあるところが面白い。北欧神話は詳しくないので、童子と子供が登場するところはよくわからない部分もあったけれども、「夜を孕み……」の前半と後半の食い違いのおもしろさ、なぜそこで鯛焼きの生殺しがつながるんだというギャップ(僕はそう感じました)が面白い。あとは最後の二つがかっこいいな。

「ピンクちゃんのだいぼうけん」夏川大空

ほぼ完ぺきに児童文学作家に擬態しているんじゃないかと思った。最近の児童文学には疎いので一概に比較はできないけれども、僕がイメージする普遍的な児童向け小説はこういうものなので、あえてここでは擬態という言葉を使うことにする。

「迎春奉祝能「清経」」元阿弥

原典を知っていればもっと楽しめたかもしれない。多分、原典をうまく換骨奪胎しているのだろう。ビックリマークを横に四つ並べることができるということは知りませんでした。

「ふたり」草野理恵子

おお、草野さんの必勝パターンだ。全然飽きる気配もしませんが、違うパターンでもOKなので無理しないでください。

「肺とミステリアス」白金麩水

タイトル通りなんともミステリアスな作品ですが、「界を海の字に置換して溺れるあの子を助け出し」という部分が気に入りました。ただ、溺れているのであれば海->界ではないのだろうかという気もします。
しかしそれはともかくとして、言語によって世界を改変するという発想にSF的なセンスオブワンダーを感じたのは確かです。

「歴史眼」人造茉莉花

雰囲気は抜群に良いのだけれどもわかるようでわからないところがもどかしさを感じさせてしまう。たぶん、巨視的な視点からミクロの視点を描いているかのような錯覚を起こさせているせいなのだろうか。

「ミナコちゃんの不倫」椎名雁子

冒頭の、音に関する考察の部分が面白い。そこから、主人公たちが問題としているドサッという音の謎が明らかにされる部分まではスリリングなんだけれども、そこが描きたかったのではなく、そのあとの部分が作者は描きたかったんだよなあ。特にミナコの最後のセリフはよくわかると言いたくなるけれども、残念ながらそこの部分に既視感がありすぎて、思い出すことができないのだけれども過去に読んだ作品で同等のものがあって、それゆえに最後の最後で乗り切れなくなってしまった。

「秋月国小伝妙『最後で最初の1日』」今村広樹

もはやなんでもありと化している秋月国ですが、今回はストレートな話で、いや実際はそれでもひねくれているのですが、作中作の詩の部分がとても気に入りました。

「太閤黄金伝」乙野二郎

タイトルからして伝奇ものかなとおもったのですが、そうではありませんでした。そういう意味ではちょっと拍子抜けしたのですが、しかしそれは作者が書きたかったことではないので無いものねだりですね。読んでいて気になったのは「今をときめく」という言葉で、この時代にこの言葉使いがあったのかなと思ってしまいました。もちろん、時代物を書くから当時の言葉使いを使わなければならないというわけでありません。会話ならまだしも、地の部分では現代の言葉を使っても構わないとは思うのですが、しかし、時代物で地の文にカタカナ英語を使うというのは勇気のいることで、そのあたり、今の時点ではぼくは時代物を書く予定はないのですが、書くとしたらそういう部分をどうするかを考えてから書き始めるのだろうなと思いました。

「wives」坂崎かおる

「アジャイル」というとソフトウェア開発の手法の一つ、アジャイル開発を思い出すのは僕がシステムエンジニアだからで、だから作中でアジャイルという言葉が登場してもそれほど不思議だとは思わない。しかしこの物語ではアジャイルという言葉が謎の言葉、主人公と読者だけは知らないけれどもそれ以外のひとは当然のごとく知っている。 千早とわさんの「暴れゴリラ」がこれと同じで、暴れゴリラという言葉に翻弄される主人公、と読者のコメディだった。一方で本作はコメディではなくシリアスに書いているけれど、どこかR・A・ラファティっぽさを感じた。
最初はそのまま母を母として読んでしまったが、再読して、ああ、母は妻なのかと理解した。だからwivesなのかと。しかしそうなると確かに作者のやりたいことは理解できるのだが、妻を母と呼ぶ主人公の感覚がどうにも理解できない部分があるのは僕が男だからなのだろうか。夫が妻に母性を求めてしまうという感覚は理解できるのだが、そこを描くのであれば主人公に母と呼ばせるのではなくもう少し別の方法のほうが効果的だったような気もする。

「中毒症状」USIK

これまた抽選神の采配か、坂崎さんとある種、同趣向の作品がならんだ。こちらは薬だ。なんの薬なのかわからない。主人公でさえそれがなんの薬なのかもどうでもよいような状況になっていき、そもそもこの世界が薬があることによってのみ安堵を得ることのできる世界と化しているようで、そこが面白い。

「一月十四日」閏現人

閏現人さんの作品は実は好きで、今回、閏現人という文字を見つけて小躍りしました。正直言って、読むことができただけでもう満足です。

「見知らぬ獣」佐藤相平

この獣はなにかのメタファーなのだろうか。今までの佐藤相平さんの作品の傾向からしてその可能性を排除しきれないのだけれど、しかしこの獣に獣以上のなにかを見出すことができなかった。物語を素直に読むとすると、正体不明だけれど人や生き物を襲う気配のなかった生き物にも獣性があって食べるために生き物を捕食していた。そしてそのことに気が付いた主人公はショックを受ける。ということになる。ここではこの生き物の恐ろしさというよりも飼い主である主人公の、無邪気すぎる感情のほうに焦点を当てるべきで、恐ろしいのは危機感を感じようともしなかった主人公のその感覚のほうなんじゃないだろうか。

「カルラ様」海棠咲

このカルラ様に関してはいくつか解釈の余地がありそうで、そのあたりの解釈の余地を残したまま物語るというところが面白い。
一つは作中どおり、何らかの神様。もちろんこの神様が何をもたらすのかは定かではない。幸福を授けるとはなっているけれども。もう一つは溺死体という解釈も成り立つのではないだろうか。服を着ていないとか、歯がないという部分で不整合が生じているが、一方で、暴力団に拷問を受けて海に流された死体という解釈も成立しそうだ。歯を全部抜かれて、素っ裸で海に捨てられる。
しかし、カルラ様がなにであろうが村人は神様として祭り立てる。

「いたことだけはおぼえてて」宮月中

このグループは抽選神の思し召しか、得体のしれない何かにまつわる話でまとまりました。
これは理屈で物語を作ろうとする僕には書くのが困難な話で、時系列を考えると20年前の話でありながら最後に登場する老婆が40年と言っているところで矛盾が生じる。もちろん謎解き小説ではないだろうからどちらも正しいとする解釈もできるのだが、僕の中での合理的な解釈を求めるのであれば老婆が錯誤していたのではないかという解釈だ。
しかしながらそういった解釈は蛇足に過ぎず、やはりここはタイトルからもとめるべきなんじゃないだろうか。つまり佐原チエという少女が存在していたということだけ覚えていればよい。

「冬列車」化野夕陽

好きな話なんだけれども、頭でっかちになっている印象が強い。この頭でっかちというのは前半部と後半部でわけたとき、前半部が重く感じたという意味です。もうすこし前半部の描写を削れば後半部に費やすことができて、そうすればバランスがよくなったかなという気持ちもするのですがそれはあくまで僕がこの話を書くとすればという意味ですね。それは今回の自分の作品にも言えることで、自作で言えばとにかく説明が多くなってしまったという部分です。化野さんの作品のように描写を増やしたかったし、描写で物語を駆動させて描きたかったのですが今の僕には無理で、冒頭の部分に描写を入れただけが限界でした。
野呂邦暢の小説を彷彿させるところがあって、先端恐怖症とその謎が幻想的なイメージという形を借りて解かれるという構図にもうすこしうまく収束することができたならという思いがあります。それは多分に僕がミステリ的な文法で小説を書くせいです。

「然り、揺らぎ」Takeman

「prey and pray」を書き終えて、原稿用紙6枚という分量ではもうこれ以上のものは書くことはできないだろうなと思いました。6枚という分量で自分のやろうとしたことを投入することができたので、もう6枚という分量にこだわる必要もないんじゃないかと思ったわけです。
しばらくは書くことをやめようと思ったのですがBFC2に応募して落選した「Nothing to kill or die for」に対するいくつかの感想を読んでいて、まだ書くべきことが残っているような思いがありました。「prey and pray」は「Nothing to kill or die for」を受けて書いたものですが、「prey and pray」での「祈り」の部分について、その先を書くべきじゃないかという気持ちです。
そこで祈りとは何かと考えて、それは信仰だろうと思い、信仰について書いてみようと思ったわけです。
しかしながら僕自身は特定の宗教を信仰しているわけでもなく宗教に詳しいわけでもありません。そもそも信仰というものを6枚という分量で書くことができるのかといえば無理でしょう。
どうしたものかと考えあぐねていたところで、ネタ帳を見ていたら「異星の神が降臨されて三年がたちました」というフレーズを見つけました。ふだん、なにか気になるフレーズを思いついた時にメモしておくのですが、このフレーズが使えるんじゃないかと思ったのです。
そこから今までの宗教がいったんリセットされてしまう状況が起こって、そこから新たな信仰につながる、そんなイメージが浮かんできました。
神が滅ぼされてしまい、その結果、奇跡がまったく起こらなくなってしまう。ここでいう奇跡が起こらなくなるというのは、作中の世界で神が消滅してしまったということを確実にさせるための手段に過ぎず、それ以上の意味はありません。神主は何らかの神の存在を認識できる力を持っているようですが、一般人はそうではありませんので、神が消滅してしまったということをどうすれば物語内の人物全員が認識できるかと考えたときに、奇跡をなくせばどうだろうかと考えたわけです。で、奇跡が無くなったという設定ができたおかげで物語の着地地点が見えました。
神を滅ぼしてしまったのは異星の神。異星の神は人類に福音をもたらしてくれるのかはさだかではない。そもそもコミュニケーションすらできない存在です。そんな状況下、主人公は奇跡を求めて異星の神を信仰しようとする。
それは愚かな行為なのでしょうか。
言い換えれば、それは得体のしれない新興宗教に救いを求めてはまり込んでしまう人々と同義でもあります。そんな人々を愚かだと、あるいは愚かな行為であると僕たちは言うことができるのでしょうか。安易な言葉で断定してしまう前に、もう一歩踏み込まなければいけないのではないのだろうか。
そんなことをあれこれ考えてもらえたらうれしいです。

「Soup.」こい瀬 伊音

主人公が作っているスープの中身が判明したとき、新井素子の「あなたの為に チャイニーズスープ」を思い出しました。こちらも狂気の話で、人類最後の日が近づいたとき、自分を捨てて浮気相手のもとに行こうとした夫を殺してスープにして食べてしまう妻の話です。こちらは狂気でありながらその狂気が理にかなっていて読者に理解できる狂気でそれを新井素子文体で描くので衝撃的でした。
本作では何が起こったのか明確には語られておりません。
しろいねこは駿の浮気相手で、そして駿は主人公によって罰を受けている。ではその罰とはスープに入れられた五本のウィンナーでウィンナーが示唆しているのは指。ではその指は誰の指なのか。初読では駿の物だと読んだのですが、指を切り取られてその痛みに耐えることができるのかという疑問がありました。それ以前にどうやって指を切り落とすことができたのかという方法もわかりません。
再読して、その指は駿のものではなく、しろいねこの指なのかという考えもよぎったのですが、しろいねこは中盤で外に出て行ったようです。のこる結論としてはその指は主人公の指なのか。それだったら痛みさえ何とかすれば切り落とす手段も解決できます。問題は自分の指がなぜ駿の汚れた指になるのかという部分でもあるのですが、あとは主人公は身ごもっているみたいで、そんな状態で自己(母体)を傷つけるという感情が僕には理解できないのです。
というわけで、作者による解題を期待したいところですが、いずれにせよこの狂気は僕には逆立ちしても描くことのできないタイプのものでした。

「青空に分身の憤死」苦草堅一

難解だったこい瀬さんの作品の後だとすごくありがたい。砂漠でオアシスを見つけた時のようなありがたさ。
最初の一文ですべてが決まって、やはり一行目は大切だなあと改めて実感するのですが、どうしてそうなるという理由を求めたくなる感情をまったく起こさせない展開がすばらしい。
しかしながら物語は終わらなければなりません。この物語がどんな場所に着地するのか。もちろんどんな場所に着地しても構わないのですが、この話の場合はきれいに着地しなければいけないタイプの話ではないでしょうか。
中盤すぎて「言葉って、要るか?」が出ておっと、思いました。言葉で語る物語の中で言葉を否定する。たしかにそれまでで描かれたエピソードは言葉を必要としない。でもそれは感情表現だけであって、すべてのコミュニケーションではありません。そんなことを言いたいんじゃないんだよという作者の声が聞こえてきそうなんですが、終盤に向けての論理展開に齟齬が起こっている感じがしました。自分が書くとしたら多分ここから少し違うところへと着地させたのですが、しかし、その齟齬含めて、暴走した感情が落下していくというラストは自分だったらこういうラストにはしなかったという思いも含めて、きれいに着地、いやこの場合はきれいに落下したというべきでしょう。

「形而上学としての野球」小林猫太

まず、のっけからマサチューセッツ州アーカムシティと、わかる人にはわかるくすぐりが入っていてこの物語がいつラブクラフトの世界に結びつくのか、いや野球とラブクラフトの世界と結びつけるという大技に期待感は高まるけれども、執拗なジャブは繰り広げられているのに一向に結びつく気配はない。
じゃあ肩透かしのまま終わるのかといえば、そうかもしれないけれども、執拗に語られる野球という競技に対する御託がすごく面白くて、そうか、ラブクラフトはあくまで、ここにいざなうためだけの祝詞にすぎなかったのかと気づかされる。つまりこの物語はラブクラフトの神話でさえ単なる導入でしかないという大いなる物語だったのだ。

「信太山」元実

小説を書く際にあらかじめ登場人物の生い立ちや性格といったものをきちんと書き記してから小説を書く、という話を目にしたことがあった。僕はどうかというとある程度は決めるけれどもそれはどういう思考の人物かという程度で生い立ちとかまでは決めない。そこまできっちり設定してしまうと飽きてしまうというのもあるけれど、長編ならまだしも短編ではそこまでしなくてもいいだろうと思っている。
この小説を読んで思い出したのがこの事柄で、読みながら、この主人公はどんな人物なのだろうかということが気になったのだ。とりわけ終盤の五行。物語でいえばこのラストが肝だといえる、あるいは子のラストがあるからこの物語が引き立つのだけれども、ここにきてそれまでの主人公の言動や行動から、どうしてこんなセリフがこの主人公から登場することができるのだろうか、そこが引っかかってしまった。

「オーバーフロー/B」至乙矢

六枚道場に応募する作品にはただ一つ厳密なルールがあって、それは原稿用紙六枚以内の作品でなければいけないということだ。ほかにもフィクションでなければならないというルールもあるけれどもそれは今回は触れないでおくこととして、六枚という制限の中でなにを語るかというのは参加者が一番苦心する点だ。
至乙矢さんのは前回の作品と表裏一体をなす作品で、これが六枚道場に応募したものでなければ問題にはならない部分であっても、六枚道場に応募した以上は問題視しなければいけない部分というものが発生してくる。
必要な事項はすべて書かれていて、それらを組み合わせれば今回の物語はきれいに解題されるのだけれども、それでも時系列を追っていくとマリカがサチにファスナーを勧めた経緯やその後のサチの人気に対する嫉妬の感情の表れ具合が前作があるから効果をあげているのではないかという気持ちがぬぐい切れない。その点でいえば六枚という枚数では少なすぎた内容のような気がする。
しかしそこはさておきて、一番重要なのは、ファスナーの裏技の存在で、これは感情を伝達するファスナーという仕組みを根底から揺るがす大きな問題ではないだろうか。感情を伝達させる仕組みでありながらその感情を偽ることができるというのはこのシステムにおける信頼関係を一気に消失させてしまう重大なバグだと思う。
ということを踏まえると、このバグに対してシステム運営側がどのように対応をとるのかという「オーバーフロー/C」が書かれるべきなのではないだろうか。
同時に、前作で僕が発したこの物語のどこに救いがあるのだろうかという問いに対する答えがこの物語だったとするのなら。たしかに前作の主人公は生き延びたのでその点では救いかもしれないが、犯人がマリカだったことでより一層、救いのない地獄に落ちたんじゃないのかと突っ込みを入れておくことにしよう。

「新年あけ迷路」一徳元就

紙文さんが一徳元就の最高傑作じゃないかというツイートを見て期待をしていました。もちろんそれは紙文さんの個人的な主観にすぎないのでしょうけれども。しかしそんな前印象を抜きにしていざ、作品と対峙したとき、紙文さんと同じ感情が湧きあがりました。
これは一徳元就さんの最高傑作だと。
事前に一徳元就さんのツイートで、今回は駄目ですという発言を目にしていたのです、その発言が逆にこの作品が最高傑作であることを裏付けています。
今回はゲームブックを模した形態で、それ自体は目新しいことではないのですが、ひとつひとつのパラグラフの文章がすばらしい。よくこんな文章が書けるものだと感心する以前に嫉妬に狂うのですが、同時に往年のゲームブックの文体もこんな感じだった記憶があり、再現度の高さも感心します。
しかしながらこの文章をどのようにして生かすかというとやはりこのようなゲームブックという形でしか生かしようがないのではないだろうか。一徳さんがうまくいかなかったと言われている部分がここにあるのではないかと思うのだ。つまり作者自身も自分の持っているポテンシャルの高さをもてあそばしている。
ブレーキをうまくかけなければこの文章を使いこなすことができないというところが現時点での限界で、だからこそこの作品が現時点での最高傑作になる。


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Takeman(貞久萬)
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