第10回六枚道場(前半)
「身につけるもの」草野理恵子
草野さんはひょっとして必勝パターンを見つけてしまったのではないだろうか。前作といい今作といい、一つのテーマで四つの詩をつなげて書くというのは僕にとっては秘孔を突かれたかのごとくうれしくて悶絶してしまいます。この先、草野無双が始まるんじゃないかとワクワクしています。
「王水」田中目八
詩と比べると俳句は僕には難しすぎます。
王水というと濃塩酸と濃硝酸を混ぜた液体で、金を溶かすことのできる唯一の液体。中盤以降、金という言葉が含まれた単語が使われていること、あるいは溶かすことを意味する腐食という言葉。溶けるということ、腐食するということ。それによって隠されていた存在が顔を表す。そんなモチーフを感じさせるのですが、どうも僕にはそこまででした。
「ことば」星野いのり
今回はまったく手も足もでなかった。
テーマは事前に知っていたけれども、じゃあそれがこれにどう結びついているのかという部分に考えがよらないというかテーマが興味なかったという部分も多分にあります。
「幻肢痛」いみず
「ボロンちゃん」馬死
まるでげんなりさんが書くような下ネタかよ、と思っていたら意外とシリアスな方向に進んでいくので驚いた。悲惨な話なのにジメッとした湿度がないおかげでそれほど引っかかることなく読みすすめることができるのだが、じゃあ心地よいかといえばやっぱりそんなことはない。登場人物はみな、名前にひたすらこだわっていて、たしかに名前は親が一番最初にくれるプレゼントだということをいう人もいるくらいで親から子へ最初のプレゼントなのだが、まだ出生していないのにもう届け? とか怨念を込めて名前を書くとか細かな疑問はある。もちろんそんな部分は些細な事柄で、病魔に襲われて意識も混濁しかけている主人公の行動なのだと思えばそれも納得できるのかもしれない。
「ノン(ノン)フィクション」紙文
紙文さんの話しなので身構えて読んだら、少なくとも表面上はストレートな話だったので、新しい手を繰り出してきたのかと驚きました。読み落とした裏があるんじゃないのかと今でも疑っています。
こんなの紙文さんの作品じゃない。と拒否したくなるのは単なる私の嫉妬です。
「石像」一徳元就
僕の誘いに乗って一徳さんもピュアな純愛の話を書いてくれました。一徳さんの底力を見せてくれる作品で、なんでも器用にこなせる人なんだなあと思いました。逆に言えばこの器用さが仇となっている部分がある気もします。
それはさておき、呪われた二人の男女の会合が一つに結びつくという構図はちょっとうますぎるんじゃないのと言いたくもなり、いやそこは褒めているんですけど、気になるのは一点。目を傷つけることができない彼女は捕まりながらも生き延びているということでその身体ですら傷つけることはできない。その彼女をどうやって殺すことができたのか、そして覚者はなぜ石になったのか。という部分なのですが、これはまあ重箱の角を突っつくような些細な疑問で、そういうものだと捉えたほうがいいのでしょう。次回もこんな感じでお願いします。
「秋月国興亡史序章」今村広樹
いよいよ秋月国の全貌、あるいはその一部が明らかになるのかと思いきや思いっきりすかされました。今まではまがなりにも表層的にはシリアスで真面目に描かれていた秋月国ですが、今回はいままでの設定をちゃぶ台返しするようなギャグをぶち込んで、唖然とさせてくれました。本来は秋月国など些細な問題のはずなのに回を重ねて読んでいくごとに読者の頭には秋月国しか残らない。秋月国とはなんなのだ、それしか頭が向かない。まるでお釈迦様の手の上でイキがっている孫悟空のようでもある。
もっとも最後のセリフを見ると、今まで読まされていたのは最弱の秋月国のようですから、次なる秋月国の登場が待ち遠しい限りです。
「肉汁公の優雅な偽装生活の終わり」ビスケット・オクバ
タイトルで一番気になっていました。こんなタイトルなのですからふざけた話かと思いきや意外とシリアス。文芸部の部長と部員の二人の会話は面白く、こういう内容は嫌いじゃないけれども、その後に続く2つのエピソードが謎でした。作中作である「肉汁公の優雅な偽装生活の終わり」の抜粋なのか、そうであってもそうでなくてもどっちでも構わなそうだし、3つのエピソードのうち2つは呼応するかたちで登場人物が消えて、そして残りの一つのエピソードも「無い」で終わる。意味があるようでなにもない。意味をもたせようとする行為そのものが無意味である。そんなことを感じました。
「オーバーフロー/A」至乙矢
心、あるいは感情を何らかの形にして可視化させる技術というのは面白い。さらにそれをファスナーと名付けるのはうまいなあ。
しかしながら、そんな魅力的なガジェットでありながら、そこから展開する物語は、一通りのうまさでもってうまく着地しているけれども、このガジェットを使わなくっても語ることができるんじゃないのか、そんなことを思ってしまった。せっかくの魅力的なガジェットですので、もっと知らないレベルの社会の変化という部分をついつい期待してしまいました。
それはともかくとしてこの話に救いはあるのだろうか。
「雲上都市の少女」ミガキ
前作と対になる話。基本的な設定は前作で語られているので物語にだけ文字を費やすことができている分、伸びやかで、予想外の展開とか会っと驚く展開というものは無いものの、安定感が抜群にある。
ただし、その安定感が前作が存在しているからという点で、前作なしでの六枚の単独として成立しているのだろうかという部分となると疑問も浮かぶ。しかし、それを考慮して再読してみても単独でも楽しめるじゃないかと思ったが、それでも単体で読んだ時の重厚感は減るだろうから、と文句をつけたくなるのはミガキさんへの期待値が高いからだろう。
「浅香さんと私」海棠咲
適度に肩の力が抜けて、心地よい隙間がある話でした。第一話と第二話と話が二つ存在していながら相互に物語としての絡み合いがあるわけでもなく、裏表という構図でもなく、いや本当はそうなのかもしれないけれども、そういう部分はたいして主張していなくって、そういう心地よい隙間のある物語はゆるやかに読みたいものです。
「ひとりぼっちのアンサーソング」本條七瀬
ところどころの表現はうまく、物語の展開も着地もそつなくこなしていて、うまい。だけど、六枚という枚数だと窮屈を感じてしまう。いや、読んでいて実際に窮屈な感じを受けるというわけではなく、個々の要素がもう少し文字数を費やして描いてよとつぶやいている。そんな物語そのものからのつぶやきが漏れ聞こえてきた。
脳裏では活字というよりも漫画化されて読んだ。須藤佑実でもいいけど『水野と茶山』を描いた西尾雄太あたりにコミカライズしてもらったものを読みたい。「る」だけで歌うというのはちょっとやられたなと思いました。
「明るい」伊川佐保子
こういう何気ない日常の一部を切り取るということは僕にはできない。いや、ここで語られるのは何気ない日常ではないのだけれども、でも多分、これは僕がはるか昔に置き去りにしてきた世界だ。もう一度記憶を掘り起こして取りに行けば掴むことができるだろうけれども、じゃあそれを書くことができるのか、といえば無理かもしれない。
こういう話を書いてみたいという気持ちにさせられるのだが、自分が書くよりも伊川さんの書いた話を読むほうがいいんじゃないか。
「prey and pray」Takeman
断片的にですがtwitter上であちらこちらで書いてしまったので改めて書く必要もないのですが、端的にまとめておくと本作で試みたのは、作中の主人公と同じような感情を読者に与えるということでした。絶望的な状況で絶望的な決断をせざるを得ない状況になった時、救いはあるのだろうか。
これを読者に対して、辛さという感情を与えてなおかつその感情の矛先を曖昧にさせることで同様の効果を与えることになるのではないかと考えて、そしてそこに救いの手段を提示する。
犠牲者はそして祈れ
たとえば、SNSだけのつながりしかない人が悲しむような状況にあったとき、よくなることを願っていますと祈りを伝えることがあります。
祈るという行為は最後に残された救いの手段ではないかと思っています。