チェリオス効果 -1.0
のぞき込んだ冷凍庫のなかには色とりどりの便せん封筒の束が入っていた。
涼子は自分が開けたのは冷凍庫ではなくタンスの引き出しだったのかと思ったが、冷凍庫から漂ってくる冷気がその考えを打ち消してくれた。しかし目の前にある便せん封筒の謎は消えてはくれなかった。
「氷あるでしょ?」居間にいる真衣が聞いてきたところで我にかえった。
「あ、うん」涼子はうつろに返事をする冷凍庫の氷をグラスに入るだけ入れ、居間に戻っていった。
大学生活三ヶ月目、真衣とは入学初日に出会った。出会った瞬間に数千万もの未来の光景が走馬灯のように頭のなかに駆け巡った。死ぬのかと思ったが切っても切れない腐れ縁であることを凉子は悟った。
「ねえ、冷凍庫に便せんが入ってたけど、あれなに?」
涼子の質問に真衣は、なに訳のわからないこといってんだこいつという表情をしたが、やがて得心した表情で答えた。「ラブレターだよ」
この世界は誰かが得心すると誰かが困惑するらしい。涼子は困惑した。「冷凍庫に入れておく物なのか、あれって」
「そりゃそうでしょ」
「ちょっとまて、誰に貰ったんだ、いつ貰ったんだ、どこで貰ったんだ!」
こいつ、あたしよりも先に貰いやがって、あんなにも貰いやがって、そしてどうしてラブレターは冷凍庫に入れておく物なんだ。という複雑な感情に襲われながらも、かろうじて最後の感情が涼子の負の感情を相殺してくれた。少しだけだったが。
「あんたねえ、だれが貰ったなんていったのよ。あれは私が書いたもの」真衣がグラスを空にして答えた。
涼子の負の感情は行き場を失って失速した。
「誰に出すんだよ、てかラブレターって冷凍庫に入れておく物なのか」
「当然でしょ、まだ誰に出すのか決めてないんだから」
「相手がいないのに書くのか?」
「あたりまえじゃない、あんた馬鹿なの、それとも自分が十八歳だという自覚が無いの?」
「いや、十八だという自覚はあるけど、四六時中、自分は十八歳だなんて思い続けることはないな」
「馬鹿ねえ、そういう話じゃないよ。十八って歳は一生で一回限りなのよ。この十八歳という年代で誰かを好きという感情もいまこの瞬間にしか存在しない物なのよ。だからこの瞬間の、好きという感情を来るべき時のためにラブレターにして書いておいて、溶けて消えてしまわないように冷凍庫に保存してるの。わかる?」
「いや、わからん」
真衣はグラスを空にして、もう一本開けて注ぎながら額に手を置く。「はああ、凉子、そう言うと思ったわ」ため息をついた。
「ちょっとまて、さっきからお前なに飲んでるんだ?」
「ん? これ?」
「ああ、そうだ」
「これねえ、ノン……ノンアル」
「お前まだ未成年だろ」
「選挙権はあるよ」
「選挙権は関係ない」
「だから、ノン……ノンアルっていってるでしょ」真衣は言う。
「ノン……ノンで二回否定してないか?」
「嘘ついてないよ」
「ああ、嘘はついていないよな。あるんならあたしにも飲ませろ」涼子は自分のグラスのノンアルを空にした。
「へへ、やっぱ飲みたいじゃん、じぶんだって」
しばらくして真衣はすくっと立ち上がるとトイレに駆け込んだ。凉子は心を無にして空の一点を見つめる。その瞬間から涼子の堰合から音が消えた。
どれくらい経ったのだろうか、凉子の視野に真衣の姿が見えた。凉子の世界に音が戻った。
「ああ、すっきりした」そう言いながら真衣は冷凍庫を開けた。「これこれ、吐きながら思い出したんだけど、あんたの分も書いてあるから」と紫色の便せんを手渡す。
冷凍庫から取り出して、私のは溶けてしまってもいいのか? と言いそうになったところで凉子は首を振って自分の感情を振り飛ばした。危うく真衣の世界に取り込まれるところだった。
「勝手に人の黒歴史をねつ造するんじゃねえよ」凉子は真衣の手から奪い取る。
「せっかく書いてあげたのに」
凉子は便せん封筒を開いて中身を取り出した。
凉子は破り捨てた。
「あ! やぶることないじゃない」
「他のもよこせ、全部よこせ」
「じゃ、これ。これは自分で言うのもなんだけど傑作よ」
凉子は破り捨てた。
「どこの世界に、告白するときに座右の銘を教える奴がいるんだ」
「あんたさあ、座右の銘に謝りなさいよ。座右の銘はその人の人柄すべてが詰まってるのよ。いい? 例えば、あたしの座右の銘が『いざとなると たたねんだなあ ちんこ』だったらどう? あたしらしいでしょ?」
「いや、わからん」
「んー、それじゃ、誰かさんが誰それさんの座右の銘に感銘を受けてそれを座右の銘にしたとするでしょ。で、誰それさんも実は誰それさん-1の座右の銘に感銘を受けてそのまま座右の銘にしていた。で、誰それさん-1も誰それさん-2の座右の銘を……って座右の銘がそのまま使われっぱなしだったとするでしょ。そしたら、一番最初にその座右の銘を考えた人は誰なのってなるじゃない。いわば座右の銘創世の謎なわけ。わかる? 人類創世の謎に匹敵するロマンでしょ」
「いや、わからん」
「かああ、ダメよねえ。まあいいわ」
「で、何で第一座右の銘なんだ?」
「そりゃ、たくさんあるからよ。いい? 座右の銘がたくさんあるほどその人の人柄ってものがたくさんあるわけよ」
「大きなお世話だけどもいくつまであるんだ、お前の設定でわたしの座右の銘は」
「ふふ、苦労したわよ、第十三座右の銘までつくってあげたよ。でも安心して。ラブレターには全部は書かなかったから。だって会って間もない人間に身も心もさらけ出すなんてビッチみたいなことはさせないわ。第十二座右の銘までで止めておいたから」
「十分さらけ出しているじゃねえか」
「失礼ね、最後の貞操は守ってるじゃない」真衣はグラスを傾ける。「十二番目はちょっとすごいわよ、『いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。』だから」
「それって座右の銘なのか?」
「カフカが人妻に書いたラブレターの文章よ、ぴったりでしょ、あ、婚約者だったかな……」
凉子は目の前の便箋を次々と破り続けた。
真衣はその音を子守唄がわりにテーブルの上に突っ伏して寝息をたてていた。