一冊の本がある。
いや正確にいえば、かつては一冊の本だったものの一部だ。
わたしの手元にあるのは引き裂かれた一冊の本の、終わりの部分。
そこにあるのは物語の最後のページとその後に続く注釈。
わたしの人生もこの本と同じく残りわずかであることは理解している。
この本と同じく最後のページを迎えようとしている。
だから、わたしもこの本と同じだ。
でも、この本には私の人生には存在しない注釈が残されている。
物語が終わったあとの……
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ユーリがこの本を携えてわたしのもとに訪れてくれた日のことはあまり覚えていない。
以前はもう少し覚えていた気もする。
ミラーナが書いた本だといって手渡してくれたのだ。
郵送でもよかったのにと思うのだがわざわざ飛行機でこの国まで来てそして手渡ししてくれた。
わたしと離婚してからしばらくしてミラーナはユーリを引き取って、母国に帰っていった。
そしてあれほど好きだったこの国のことを忘れていった。だからこの本もミラーナは彼女の母国の言葉で書いたものだった。一方でわたしはこの国に残り続けて母国の言葉を忘れていった。
ユーリはそんな私のためにミラーナの書いた物語を翻訳して一冊の本にしてくれたのだ。
どんなことが書かれているのか楽しみにしながら読み始めたわたしにとって、そこに書かれた物語はあまりにも辛い物語だった。それはわたしたち家族の間に塞ぎようのない亀裂が入ることとなった出来事に関することで、そしてミラーナがあえてこんな物語を書いて私に送りつけたことにひどく腹が立ち、最後のページまで読み進めてそこでわたしはこの本を引き裂いてアパートの窓から外に投げ捨ててしまった。
夜になってようやく怒りも静まってきた。つまるところはわたしが悪かったことでミラーナに非があったわけではないのだ。
そして投げ捨てた本を取り戻そうと外に出て探したのだが、見つけることができたのは半分だけ、そう、いまわたしの手のもとにあるものだけだった。
ミラーナの物語の最後の部分。唯一わたしの手元に残っている物語の部分。その部分だけは実際に起ったことと違っていた。
わたしとユーリが緑の丘を求めて旅行に出かけているあいだにミラーナはお腹の子を流産してしまった。
旅行など出かけずにいつもと同じくミラーナのそばにいてあげたとしても、それは防ぎようのないことだっただろう。とはいえども苦しむミラーナのそばにいてあげることはできた。ミラーナの苦しみを少しでも引き受けることはできた。緑の丘が緑の丘ではなかったという失意とともに帰宅したわたしを待っていたのは感情を押し殺したミラーナの顔だった。
ミラーナは何も言わなかったのだが、わたしは彼女のその表情を見た瞬間、ミラーナになにが起こったのか理解した。そして私の口から出た言葉はミラーナに対する非難の言葉だった。
「どうして連絡をしなかったんだ」
その時はわからなかったが、今ならわかる。
連絡をすればわたしもユーリも旅行を止めて引き返して戻ってくる。
ミラーナはユーリのために黙っていたのだ。悲しい出来事が起こってしまったけれども、せめて一つだけは楽しい出来事を。そのためにだ。
しかし、楽しい出来事は半分だけ。いや、偽りの楽しさ。
ユーリは偽物の緑の丘であっても喜んだが、いずれ真実を伝えなければならない。悲しい出来事を先延ばしにしただけに過ぎない。
ミラーナの言葉が残されている。
「愛しているわ、ミハイル。なにも言わないでいいのよ」
あのときミラーナが言えなくて、だけれども彼女が言いたかった言葉だ。
この言葉のためにミラーナが作ってくれた私の物語は失われてしまった。
いまのわたしに残されたものはつらい真実だけだ。
「……ミラーナ、すまない」
いままで言えなかった言葉がようやく口から出た。
終わり