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貝楼諸島訪島記 後半

『貝楼諸島より』をガイドブックに貝楼諸島の島々を訪れた。

※結末まで触れているものもあります。

巻頭詩 波間の羽根/こい瀬伊音
悲しさと思慕。それは文字通り、この巻が貝楼諸島に向かう話ではなく貝楼諸島から語られる話を集めたものだからであり、それに対する読み手の気持ちも表している。だからこい瀬さんの巻頭詩は貝楼諸島へのいざないでもあるが『貝楼諸島へ』から『貝楼諸島より』へのつなぎの幕間詩としても十分に機能している。

Ⅰ わたしが島ならことばは海

Direction /めろんそーだ
めろんそーださんの作品はめろんそーだという筆名に一致するさわやかで微笑ましくてほっこりとする物語。そして気持ちいい人たち。筆名は関係ないんじゃないかと思うかもしれないが筆名も作者の創作物の一つというのは僕の持論です。
主人公と同じく羅針盤を手に持ち、貝楼諸島の島々を訪れたくなる。最初に読むのがベストな作品。

わたしが島ならことばは海/虫太
これはとても優しいお話。貝楼諸島の物語群のなかにおいてもっとも不思議なことが起こらない話なのだが、それゆえに、唯一起こる出来事が際立っている。サイコロと島をすごろくに見立てたエピソードが素敵だ。

神鳴島とナツとフユ/和倉稜
電気に意識が宿るという設定が面白く、ファンタジーっぽい内容でありながら作品内で論理的な整合性を保っているのでSFらしさもある。悪人が登場せず、気持ちの良い人たちの話なので読んでいてさわやかな気分になる。

永遠のクラゲたち/松樹凛
永遠に続く夏の物語。主人公は夏がずっと続けば良いと思っている。そして本作で登場するナキクラゲは寿命が近づくとその身体を脱ぎ捨てて幼体となり生まれ変わる。つまり不老不死であり永遠に生き続ける。主人公は自分の夏が続くためにナキクラゲの永遠を終わらせようとする。個人の願いと引き換えに一つの種族を全滅させるという話は嫌いじゃない。

つないだ瞳に空を映して/糸川乃衣
本作も「神鳴島とナツとフユ」「永遠のクラゲたち」と同系統の話。貝楼諸島は舞台装置でしかなく、そこに存在する不思議な存在と主人公の生き方が重なって、そして主人公は一歩進み出す。本作では飛べないと思われていた鳥が飛ぶことと主人公がその飛ぶ行為と同化することによって主人公自身も自分を許してそして飛躍するという構図がうまい。

僕だけの島/亜済公
めずらしく貝楼諸島が舞台でありながら奇妙な生物は登場しない。かわりにナメクジがモチーフとして使われる。なにやら怪しげな実験が行われているらしき島というとウェルズの『モロ―博士の島』を彷彿させる。特に徐々に明らかになっていくその内容はおぞましくもあり、かといってそれがなにか悪いことでもなくカラッとしているところがおもしろい。

遠背島展望室手引/紅坂紫
歌うべき時がくるまで絶対に歌ってはいけない歌を何世代にもわたって引き継ぐ島の人々。外の世界からやってきた主人公はその歌を教えてはもらえない。しかし島のすべてを受けいれる覚悟を決めた主人公はその歌を教えてもらう。展望室で一人っきりとなった主人公はその歌を歌う。展望室は部屋の中になるのだろうか、それとも外になるのであろうか。

「Ⅰ わたしが島ならことばは海」は『貝楼諸島へ』と比べると驚くほど明るい。

Ⅱ しほかぜさえわたる

神の息吹~貝楼諸島より~/サトウジン
貝楼諸島のちょっと変わった風土とか生き物とか、生態系とかそんなものが読んでいて目に浮かんでくる。これらを一つにまとめて不思議な島の話を書いてみたくもなります。

記憶の彼/古月玲
貝楼諸島のとある島に調査に来て、廃墟で一人の男に出会う。男は記憶を研究しているという。島の様々な記憶を。しかしこの島にいるのは主人公と教授だけで、その男はいないはずだった。謎は謎のままあきらかにされることなく物語は終わるのだが、主人公の最後のセリフが優しくて好きだ。

シテとシテツレの島/エハガキ華
シテとシテツレは能や狂言で使われる言葉らしい。主役と脇役。本作は「記憶の彼」と似ていて、「記憶の彼」の主人公はひょっとしたら本作の主人公と同じような運命を辿ったのかもしれないと考えると、こうして一冊の本となり、隣り合う配置でならべられることによって新たな読み方ができるようになったというのは楽しい。

替魂島/笹帽子
ここにきて珍しくちょっと不穏な話。罪を犯した人々がその罪を償うために訪れる島。たった半日ほど滞在するだけでその罪を償うことができるという設定は謎として面白い。そしてその謎はきれいに解明されるのだが、解明されると同時に主人公は罪を犯してしまう。どことなくタイムパラドックスにも似た様相で分岐によって世界が分裂したと考えることもできるのではないだろうか。

吸血鬼と子山羊/探偵とホットケーキ
吸血鬼探訪/ Redvelvetcake
この二作は明確にコラボして書かれたものなので続けて読んだほうがいい。貝楼諸島に作られた遊園地。今は寂れてしまっている。アンソロジーに収録された作品のなかでは異彩を放っていて、貝楼諸島というテーマに対してのアプローチのしかたが面白い。構成としては前編、後編的な内容だが設定が同じというだけで読後感は異なる。貝楼諸島というテーマに対して、さらに独自の設定を設けて書かれた連作という構図はやられました。

俳人の島/うっかり
俳句SFと言ってしまってよいものだろうか。AIに俳句を詠ませるという題材は興味深く、人ではない存在が作り出した創作物に感動することができるのだろうかという問題にも通じる。その一方で、俳句は人の部品にならないのだろうかという命題が提示され、本作では俳句に焦点が当てられているが、俳句以外の創作物も人の部品、あるいは構成要素になるのではという新しい視点を与えてくれる。

しほかぜさえわたる/貞久萬
自作。
増改築を繰り返す島という設定の話に対して、その小説の構成そのものも類似させるために、別の小説をくっつけているということをしてみました。

ル々の花/星野いのり
サトウジンさんの短歌と同様、貝楼諸島の風土や生き物のことを詠んでいるが、どことなくユーモアに満ちている。なんかちょっと可笑しいなと思っていると次第に大きく、不思議な世界が見えてきて、唖然とさせられる。

ひゃくじま/北野勇作
北野さんのマイクロノベル15連作。それぞれの話のタイトルと思われる一文字の漢字が話と話の区切りとなっているけれども、なぜか最初の話だけはタイトルの漢字がない。のだが、最後の話を読み終えるとそこに一文字の漢字が残る。それが最初の話のタイトルで、ここで強引に最初の話に引き戻されてしまう。おもしろいなあ。

「Ⅱ しほかぜさえわたる」はコラボしたことにより明確に繋がりのある作品もある一方で、こうしてひとかたまりになったことで繋がってみえる作品もあったりするが、どちらかといえば他者を寄せ付けない個性的なものが多い。

Ⅲ ハナシマばなし

貝楼裂異聞/磯崎愛
島がメインではなく貝楼裂という織物の話として始まり、その様子が端正に描かれていくのだが突如として立ち上がるSFの風景に驚かされた。海への広がりなどはあったが、宇宙規模への広がりを見せてくれたのは本作で、ガツンとやられました。

ハナシマばなし/玄川透
書物から抜き出した三つの話から貝楼諸島を浮かび上がらせる話。なのだが、この3つの話は相互に微妙に食い違っていて、芥川龍之介の「羅生門」をちょっぴりと彷彿させる。見るものによってその姿が変わる貝楼諸島そのものだ。

象渡りの島/野咲タラ
海を泳いで渡るワタリゾウにまつわるお話。まず、象がいつ渡り始めるのかということを予測するという部分がおもしろい。ちょうど梅雨入りがいつなのかと同じようにだ。予測するという行為を描くことによってワタリゾウというものを相手のほうにその視線を寄せるのではなく現実に生きている読者の方に引き寄せて結びつけさせていく。このエピソードがあるがためにそれ以降の展開がリアルに感じられていく。

屋敷ヤドカリの島と、届いたあるいは届かなかった便りについて/阿蒙瞭
こい瀬さんの巻頭詩が効果的に使われているのだが、巻頭詩との結びつきというよりも、詩そのものを自身の作品に取り入れてしまう力強さがある。そういった点では三章に納められた作品は各々の物語としての強度が強く、単体としての完成度が高いともいえる。

枯れ井戸の星/鵜川龍史
島というとどうしてもその世界の広さが狭まってしまって広がりを感じさせることが難しい。もちろん島は海にあるので海に目を向けさせればその広がりを感じさせることは可能だけれども、そうしたくない場合はどうするか。本作を読んでおもったのはこのことだった。本作では井戸という装置を使って横の広がりではなく縦の広がりに視点を誘導させている。と同時に縦の広がりは時間の流れにも通じ、そこをうまく絡ませているところが良かった。

女神の夜/ Yoh クモハ
細部まで丁寧に世界を構築している。密度の高い文章で、そして時として息苦しささえ感じさせる文体で、悲劇で終わるメインの物語によくマッチしているのだが、なによりも、エピローグの優しさが、それまでの息苦しさをそっと開放させていて、読後感はいい。

真珠腫/うさうらら
いさぎよいほど短い話。短いという点では北野さんのマイクロノベルのほうが短いのだが、マイクロノベルとは違う形での短さというかこの分量でも強い印象を残させるのは真珠腫というものを中心として卵、満月と球体につながるイメージの展開と、真珠という女性を飾る物としてのイメージをうまくつなぎ合わせているからだろう。

波を織る/化野夕陽
第三章は織物で始まり、織物で終わるというきれいな配置。うまくちょうどよい作品が揃ったものだと思うし、配置の妙でもある。登場人物のネーミングが気になるところで、それぞれの役割のイメージを想起させる役割を意識しているのだろう。と思うのだが、イサとユナギの双子、イサの名を継ぐ者とナギの名を継ぐ者という文章が出てくる。これはイザナギを意味しているのだろうか。もしそうだとすると本作もその視点で読みなおしてみるということもするべきなのだろう。

「Ⅲ ハナシマばなし」は個々の話の強度が高いので、若干、それぞれの話がお互いを食い合ってしまっているようにも感じた、もちろんそれは欠点というわけではない。

Ⅳ 海づく島

慕念島/水嶋いみず
こういう話も書かれるのかと思った。とはいえど、細部をみるとやはり根底の部分ではいみずさんらしいテーマが見えてくるので、本作ではそれをオブラートに包んで口当たりを柔らかくしてきたんだなと思った。

カムフラージュ/3月クララ
吉美さんの作品と同様に人魚が登場する。こういう不意に現れる他作品とのリンクはニヤリとさせられる。のだが、本作と次の「ルナリアンの恋」は僕にとって難度の高い話だった。
親切なことに冒頭でどういう話なのかという背景が書かれているのでおおよそは理解できるのだが、その一方であえて誤読をするとすれば、主人公たちは人魚にさせられて水族館の見世物として売り飛ばされた。そういう話としても読めるのではないのだろうか。

ルナリアンの恋/齋藤優
貝楼諸島アンソロジー参加作のなかでもっとも難度の高いのが本作だった。タイトルではルナリアンとされているが作中では月面人という表記。その月面人という言葉つかいとそれ以外の言葉の使い方から、読んでいて山尾悠子を彷彿させた。あえて言うならば軟質な山尾悠子というべきだろうか。読みこなせないというよりもこの文章に対する嫉妬心が、理解させることを拒んでいるのかもしれない。

怪物の夢に関する記録/児島成
ジーン・ウルフが書いた小説っぽい味わいがある。信用せざる語り手による語りから始まり、語り手自身は自分が何者なのか知らない。どこか高い建物の一室に閉じ込められているっぽい。一冊のノートブックがあり、それが唯一の手がかりであるけれども、そのノートブックの持ち主の名はJK。奇しくも作者のイニシャルと同じだ。ますますもってウルフっぽい。そして語り手はこのノートになにか書き始める。
のだが、そこから一転してこのノートが船の図書室で見つかったという状況に転調する。謎は明らかにされず物語は終わるのだが、僕が気が付かないだけでそこには真実が書かれているのかもしれない。

海づく島―みづくしま―/一福千遥
……タタ、パタタタタ……タタタ……タ……。映写機のオノマトペの使い方が心地良い。この音は常に鳴り響いていて、本作を小説としてではなく映像として頭の中のスクリーンに映し出してくれている。フイルムには終わりがあり、物語にも終りがある。オノマトペが終わるとそこには静寂が残る。

袂島の忘れもの/久乙矢
偏執的なまでに他の作品と関連付けている。WEB版では該当箇所がハイパーリンクで結ばれているのでその関連性がダイレクトに伝わってくるのだが、紙面ではそれがなく、せめて脚注という形でそれをすればよかったのにとそこが画竜点睛を欠くと感じてしまった。しかし膨大な手間ひまの苦労を見せず、気が付いた人だけが楽しんでくれればよいという大人としての余裕の態度なのかと思えば、たしかにそのとおりで、読み手に膨大な注釈でいらぬ苦労をさせないという配慮は正しい選択とも言える。
まさにこの貝楼諸島アンソロジーの集大成ともいえる作品で、実質的なトリを飾る。

島おじさんの哲学談義 ~島自我は海を越えて、メタ2021~/松尾模糊
「袂島の忘れもの」が実質的なトリを飾るはずなのに、本作が最後に位置するのはタイトルにもあるようにメタ構造をもっているからで、島おじさんという、島自体が語り手となる物語が最後に物語から現実へと戻る構造となっているからににほかならない。本作によって、それ以前の物語は一気に架空の存在に昇華されて、読者を現実へと引き戻していく。


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Takeman(貞久萬)
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