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2024.04 とりあえず、第一章閉幕。

4月。

2度目の大学二年生が始まった。



4月10日

新年度早々、寝坊をかまして初回授業に出席しそびれた。原因はただひとつ。サッカーヨーロッパチャンピオンズリーグ事実上の決勝、マンチェスターシティ対レアルマドリードを観戦後の挙動。試合終了のホイッスルが鳴ったのが確か朝の6時過ぎ。あとは書くまでもない。


(再び)起きてカーテンを開けると昨日の嵐が嘘みたいに晴れていて、でも当然のように太陽は高い位置にあって。

ここ数日は、例年より遅めの開花の知らせに合わせて、インスタのストーリーが桜で溢れかえっていた。

「自分も、形式だけでも、"お花見"とやらを遂行しておこう」

そう思って、朝を無駄にしてしまった罪悪感を打ち消すべく、窓から一直線に差し込んでくる陽の光に唆されるようにして、カメラを持って近所の桜を撮りに出かけた。

雨風ですっかり落ちてしまったと思われた桜も案外健在で、良さげな樹木を見つけては自転車を止めてシャッターを切った。



「パシャパシャ パシャパシャパシャ」

とある脇道で桜の花にカメラを向けていると、背後から女の子の声が聞こえる。

振り向くと、すぐそこにあった学童保育園のウッドデッキから、一人の女の子が柵に寄りかかりながらこちらを見ている。多分、小学一年生とかそれくらいの子。

何も言わずじーっとこちらを見つめてくるので、そちらにカメラを向けてみる。

すると彼女は初めましてとは思えないほどにひどくリラックスした様子で、顔の横に控えめなピースを添えてくれた。

一度だけ、シャッターを切る。

愛おしすぎるその空間に、リテイクなんて行為は相応しくないと、直感的に感じた。

僕はカメラを下ろして彼女に向けて親指を立てた。

それに対して少しだけ微笑んだ彼女は「バイバイ!」と手を振った後、施設の中へと入っていった。

受けて私はカメラをしまい、自転車にまたぎ、いつもの道へと戻った。

彼女が友達を連れて再び表に出てくる様子を端目にとらえたが、引き返すのもなんか違うと思ってそのまま坂を下った。


その場を離れて初めて、平和すぎるあの空間にずっといたかったし、あの時間がずっと続けばよかったのに、と素直に思った。

あまりにも自然な流れの中で行われたその"撮影"という行為には、インスタに載せたいだとか好きなアイドルの真似事だとかいったいつものエゴは一切介在せず、普段は幾重にも取り繕った心も、邪気のかけらもない少女に見事に浄化されて、自然と自分の「ありのまま」が曝け出されていたように思えた。




蛹な渚です。


過去をちょっとだけ振り返りつつ、今年度の自分の展望を軽く語りたい。




「脱・現状維持」

2023年の頭に自分の中で掲げた、一年の目標。

「新たな一歩を踏み出した…!」

そう思っていた行為の大半は結局、自己陶酔に溺れた現実逃避へと、目的を無意識のうちに書き換えてしまっていた。



コロナ禍を経て深夜ラジオをきっかけに色々なエンタメにのめり込み、支えられる(依存する)ようになって、中高とずーっと、周りに迎合するために外に向きっぱなしだった矢印が良くも悪くも段々と内を向くようになってきて、なんとなく自分の特性を客観視できるようになっていたつもりだったのだけれど。

考えてみれば、妥協を重ねて向き合うべき問題から目を逸らす逃避癖は、大学受験以降拭うどころか加速してばかりだった。

その逃避癖の中でも、昨年満を持して始めたこのnoteにおいても頻繁に現れてしまうほどに中核を担っていたのが、好きなアイドルやアーティスト、そして自分の年齢(若さ)や性格診断など、社会に広く共有されている偶像や記号を安心材料とすることだった。


キラキラした世界にいる人たちやフィクションに救いや答えを求めること、INFJという便利な肩書きに縋ることは決して悪いことだとは思わない。

しかし、私の場合は、自分の中の問題を解決する、というよりかは諸問題から目を逸らす方法、がそれしかなかった。根本的な解決なんてもってのほか。

好きなお笑い芸人やアイドルのどこか薄暗い過去。
自分の理想と現実のギャップに葛藤し、もがく様を綴ったJ-POPの歌詞。
表ではうまく振る舞っていてもどこかで生きづらさを抱える人間を描いたドラマ、小説、映画。

自意識過剰な思考に身を任せ、共感を求め、見出し、「自分と一緒かも!」なんて思ってどこでも解消することのない寂しさを一時的にかき消し…のサイクルをただひたすら繰り返していた。

でもある時、自覚した。そんな風に他者を一切介在せずに自己完結で済ませてしまうような策は、物事を自分の中で都合の良いように解釈して本質的な思考を放棄する”逃げ”でしかなくて、一人の人間として得るものは何もないし、進展しない。

もちろん、そういう「共感」から今のままの自分に安心できて、さらにそこから前を向いたり、何らかのアクションを起こすことができるなら、それこそが健康で理想的な問題解決だと思う。これが俗に言われる、歌や著名人に"救われる"ということなんじゃないかと思っている。


「脱・現状維持」を掲げて迎えた2023年度は、noteをはじめとして最初の一歩を踏み出すことはできても、その一歩を出すことがゴールになってしまってかえって盲目的になってしまうことが多かった。



ここで挟みたいのが、1月31日に投稿された、日向坂46平岡海月さんのブログ。

結局、またまた答えをアイドルに見出してしまった。とも言えるだろう。

”共感に縋って思考放棄”と、今こうして後に公にする自分のための文章を書いているその行為の間に、明確に境界線を引くことはまだできそうにない。

そうは言っても。

言ってしまえばこれも平岡さんのブログの内容を受けてのもので、俯瞰の堂々巡りになってしまいそうだけど、思考もアクションも安易でワンパターンな"引用"ではなく、吸い込んだもの、飲み込んだものを自分の胃できちんと消化するなり、消化不良を起こしているならその状態そのものを観察してあげるなりして、自分のありのままの感情を、自分の言葉で、表現で、行動で何らかの形に変換する。そして最終的に、周囲や不特定多数の人間を巻き込んで「アウトプット」することこそが、今とこれからの自分にとっての最重要事項な気がしている。


自分よりはるかに多くの教養を蓄えている方の鋭い考察記事。

現場の第一線で活躍されている、れっきとした肩書きを持った著名人の感想。

自分は知り得なかった膨大な知識や社会的地位、はたまた自分には到底手に届くことのない数字によって裏付けられた"濃い"文章を読み漁り、そこでインプットした言葉たちがまるで自分のものであるかのような錯覚に陥ってわかった気になって考えることをやめてしまう悪癖からは、少しずつでいいから足を洗うべきだ。


まずは今、こうして平岡さんのブログを受けての「アウトプット」が自分の定義通りにできていることを信じたい。



余談

いつぞや公開された櫻坂46小田倉麗奈さんのブログ冒頭のことば。

私たちは歌詞の中に自分をみつけて
簡単に同意してしまいがちだけれど
自分で紡ぐ言葉の方が
生々しくて痛々しくて
自分を生きてるって感じがする

小田倉麗奈 公式ブログ 『君だけの』

まるでここ最近の自分の頭の中を見透かされているような文章で、前までの自分であれば安易に共感して浮かれているに違いないのに、さほど昂らなかった自分に少しだけ成長を感じました。

いまだに憧れを自分の中に、それも即座に求めすぎるところがあるのだけれども。

当然ながら、たとえ共通点が多かろうと自分は決して小田倉麗奈になることはできないし、小田倉麗奈さんは決して私の中のイメージや期待通りに振る舞ってくれるわけではない。といった良い意味での諦めを少しだけ手に入れられたような気がしています。



ところで、今さっき平岡さんのブログを受けて長々と書いた一文の中に、「ありのままの感情」という文言が出てきた。


今までSNSで発信するということを、インスタのリア垢ですら一切やってこなかった私が、noteを始めて、ついでにTwitterも始めて、自分の書く文章を公にする、という行為に手を出してからもうすぐ一年が経とうとしている。

他者の視線を気にしすぎる私は、自分の書いた文章を何度も読み返す。

記事を投稿したあとに読み返す過程で、自分の書いた文章が気持ち悪くて書き換えたり、削除したりを何度も繰り返す中、自分の下した決断を正当化するために「ありのままの感情」を何重にも上書きした形で何度書いてしまったことか。

そんな文章を書いて、後から一歩引いて観察しては自分に失望した。

ネットとか現実のコミュニケーションだとか場所関係なく、同調圧力だとか、逆張りだとか、SNSでの自分の見せ方だとか、、(全然並列になってる気がしないけど、)高いプライドが故に自分が決して傷つかないために素直な気持ちをひん曲げてくる要素が、今の世の中には多すぎる。わざとでも、無意識的にでも。

そんな風に自分の中で巻き起こる本心とプライドの駆け引きを通して自分の醜さがここ一年で見事に露呈したことで、「ありのままの感情」との付き合い方がちょっとだけわかった気がしている。

実際、『夜明けのすべて』と『櫻坂46 4thアリーナツアー』を受けてそれぞれ書いた直近の二つの記事は、割と「ありのまま」に感想を書けたことで、後から読み返してもむしろ自己肯定感が高まるくらいに良いアウトプットができたと信じている。

「スキの数やアクセス数など、他者評価に依存しているのではないか」という疑惑を素直に否定することはできないけれど。


どんな精神状態にあろうと、好きなアイドルにはエネルギーをもらうし、好きなラジオ番組は精神安定剤になるし、映画館まで足を運んでみる映画は気づきを与えてくれる。

自意識過剰だからこそ、そういういろんなエンタメを通して、その時その時のメンタルや自分を取り巻く状況が、感想という形で「ありのまま」に鏡のように見えてくることは確実に救いにつながる。


藤吉夏鈴さん、芦田太郎さん、今泉監督、、、挙げ出したらキリがないけれど、多分これからも、勝手に憧れている著名人の言葉や表現を都合よく解釈してアクションを起こす原動力にしていくのだろうし、その都度自分の現状を納得させるためにこうやって主語が作品じゃなく私な文章ばかり書くのだろう。

でも、背伸びも卑下もなるべくせずに、できるだけ自然体で言葉を紡ぐことができれば、それは自分にとって代わりのない心の拠り所になるし、自分の成長曲線を描く確固たる指標にもなる、、はず。


別に特別な何かを持ち合わせているわけでもないので、相変わらず頭を悩ませ続けながらも、大学生らしく、学んで、遊んで、人と会話して、好きなことをやって、っていう中に大好きなエンタメたちから頂いたものをなんらかの形で昇華することができたら。

まだかろうじて残っている人との繋がりを大切にしながら、自己完結ではどうしようもないとようやく気づけた今のこの自分の世界を、新たなつながりで更新できたら。


目標や理想を掲げるのは、現実とのギャップを定期的に目の当たりにして自己嫌悪に陥るいつもの流れへと落ち着いてしまうから、ここでは願望くらいで留めておくことにする。














あとがき(?)

外向きにはあれこれと取り繕い、一方内向きには何でもかんでも一人で抱え込みすぎてしまった結果、留年。

他にも原因はたくさんあるのだけれども、自分の悪い癖を見ないふりしているうちに行き着く先がこれだった。

今に至る具体的な過程はここでは書かないけれど、親に、友人に初めて素の弱さを曝け出して、人に頼るということを長い時間を隔て、思い出したことはほんとに大きい。

勇者ヒンメルの台詞じゃないけど、過去を振り返って後ろ向きになってばかりではそれも何にも進展しないので、これまで生きてきた20年間には一旦、第一章として区切りをつけることにする。

「これから第二章が始まる!」なんて向こう見ずな期待はそれも自らを縛りかねないので、今は開幕を宣言せず、後から見て「ここ、章の転換点だったな」くらいに思えればいいな、という意味でのタイトル。




もしこの記事が公開後しばらくして消えていたら。

やっぱり私はまだ、好きなものを介してしか派手に取り繕わずにアウトプットすることができないし、本当の意味での客観視ができない、とまた自分に失望するんでしょうね。

見栄を張っちゃう自分をも公に肯定できるほど、まだ自分に寛大にはなれそうにないから。


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