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大学生のときに書いた映画レポートが秀逸だから見てくれ(番外編)

なんで学生時代の映画レポートをネットに見せたいと思ったりすんだてめえは、という前提

 ここただの長い前置きなんで飛ばして読んでも大丈夫です。普段はBase Ball Bearの曲の鑑賞をしますっていうnoteやってるんですけど、いや普段というか今や年1回書くかどうかになっちゃってますけど、なんかちょっと違う枠組みの文章をインターネッツ太平洋に放流したくなっちゃいましたので、(番外編)ってことで投稿に至りました。
 まあ経緯をお伝えします。まず最近、小出祐介と南波一海のこんプロラジオをめっちゃ聞いていまして、その中に小出氏と南波氏が今公開してる映画を観てそれについてなんだかんだ喋る「映画やじうま」っていうコーナーがあるんですけど、なんかそれきっかけもあり映画よく観るサイクルを取り戻しているという今日この頃だったりします。

 僕は大学生のときに授業の課題で映画とかの評論レポートみたいなのをたくさん書くみたいなことをやっていて、映画はそりゃ好きですし、誰にも興味を示されなくても文章書くこともまあ好きだったりします。それでたまたまその大学生のときに書いたレポートをちょっと見てみたら、けっこう良いこと書いてんじゃんとか思うわけです。タイトルに書いたように誰かちょっとでも読んでやってくれみたいな自己顕示欲があるというのも完全に確かなことです。あと同じくらい、これ自分で読み返してなんか色んなこと考えてる時の己の脳髄の活動具合が好きだなってのもあります。なので今回はそのうちの一つを、多少体裁とか整えてここに投稿して、己の脳髄に心地よい活動をさせてあげてみようという試みです。

 あとそもそもこのnote全体や、以下に続くこの映画レポートに関して、そしてこれはこんプロでもたびたび言われていることではありますが、いわゆる考察系ブログみたいな「この表現はこういう意味なんじゃないか」みたいなことの当てっこゲームに終始する文章、クソしょうもないとは思ってますからね。鑑賞手法のひとつとしてそういった考察は用いるけど、それに終始しないように心がけてはいるんでその前提で読んでくださると大変ありがたいですね。
 というのも、元々はブログじゃなく芸術系学科3~4年くらいの授業課題のレポートとして出したものなんで、考察終始系の当てっこ論考が無意味だってことなんてみんな分かってるわけです。そうじゃなくて、その論考を自分や人間や社会や世界に照らし合わせたときに新しいおもしろみやらグロさやらという何かが動き出すみたいなのが、意味のある豊かな営みだと思うんですけど、そんなのは当たり前じゃんという前提で、課題としてやってます。
 だからレポートの結びでは最終的なその本来の意味みたいなものに多少触れながらも、ブログじゃないんでそのエモさや豊かさが話題の軸というわけでもないのです。だから考察成分多いんですけど、でもそれに終始してるつもりじゃないからねよろぴよ、といったところであらため、曲の幕開け…

 ※ぜひヴェンダースの映画みてねおもろいよ↓ あとマテクラタノシミッ

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パリ、テキサス

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誰のせいでもない

ヴィム・ヴェンダースの映画を取り上げて、「映像」と「物語」の関係について語っているよ

 ヴェンダースの映画において示される、「映像」と「物語」の関係性について、《パリ、テキサス》(1984)、《誰のせいでもない》(2015)を題材にして考察する。
 まずはヴェンダースの作品に共通して見られる、登場人物の内的な精神世界の描写という特徴について考えたい。上記の2作品において主人公が抱える観念的な問題や、作品全体の表面上のテーマをあえて端的に述べるとするならば、《パリ、テキサス》では家族の在り方、《誰のせいでもない》では創作活動とその源について、であるといえる。ただし、ここには「映像と物語の間の対立関係」という、ヴェンダースが考えていた映画という表現の重要な構造についての苦悩が投影されているのではないかと考えられる。

 ヴェンダースは「物語は、面白さや刺激や気晴らし以上の何か、まるで、人々が途方もない願望として欲しているものを与えてくれるかのよう」(1992:134)と譲歩した上で「自分の周りのあらゆる出来事が作り上げている説明不可能な錯綜の方を信じます」(1992:135)と述べている。はっきりとした意味付けができないものばかりの現実を生きる我々は、その混沌とした環境によってもたらされる不安に打ち勝つために、普遍的に物語を求めるものであるということだ。しかし、その物語に対しての欲求を、存在しない神を信じることで不安を打ち消すようなことだとも述べている。つまり我々人間はそのような物語を欲する一方で、それでもヴェンダースは混沌としたリアルな現実を、映画によって描こうとしていた。

 さて、元々画家を志していたヴェンダースは、映画は絵画とは異なり、映像の繋がりによって強制的に物語が形成されるということに注目していた。虚構の物語をなるべく提示せずに、映像を映像そのものとして用いて現実を映し出せれば簡単だが、「映像というものは—編集されるやいなや—既に何らかの物語を語ろうとしてしまう」(1992:130)と述べている。これがヴェンダースにとっての「映像と物語の間の対立関係」であり、映画表現についての大きな問題であるとしている。この問題について、取り上げた2作品においてどのように描かれているかを考えたい。

 《パリ、テキサス》では主人公のトラヴィスの姿に上記の問題が込められている。トラヴィスは家族で暮らすことに限界を感じ、妻子を捨てて放浪したが、4年後に帰ってきて息子のハンターと再会する。そして妻のジェーンを探し出して再会もするが、妻と息子を引き会わせてしまうとトラヴィス自身は再び2人から離れ、そこで映画は終わる。この一連のトラヴィスの行動自体が「映像と物語の間の対立関係」に関する苦悩を表していると私は考えている。
 ここでの家族生活は物語の象徴で、放浪生活は映像の象徴だと捉えてみよう。家族生活というものにはきちんとしたルールが存在し、そして一定の価値を持った幸福が存在している。よくできた物語もそれと同様に、一つひとつの現象に意味が与えられ、秩序に沿って組み立てられ、そこで紡がれたエモーションには現実に対しての不安を打ち消す力がある。
 それに対して、放浪生活にはルールや普遍的に成立する幸福はない。それは混沌とした現実を映し出す、純粋な映像と共通するといえる。そしてトラヴィスは最終的に、息子と妻には物語という安心を与える一方で、その仕組まれたような安心に身を置くことに耐えられない自分自身を、再び無秩序な世界に放り込んでしまう、という結末となっている。
 さて、トラヴィスは4年間の放浪生活時代にほとんど言葉を使わなかったということになっている。ヴェンダースはまた、物語について言葉というものを手掛かりにした考えも述べている。

言葉には、たいていの場合文脈の中へ、さらには物語の中へ収まっていこうとする習性があるのに対して、映像はむしろ映像自体の他に何にも帰属していない

ヴィム・ヴェンダース,1992,『映像(イメージ)の論理』河出書房.131頁)

 放浪生活時代に言葉を捨てたトラヴィス(ひいてはヴェンダース自身)は、「物語」という何か1つの固定化した意味性に、自分という存在が収束していかないようにしていた、そこに収束してしまうことの閉塞感を振り切りたかった、と考えられるのではないだろうか。

 次に、《誰のせいでもない》について考えたい。主人公である作家のトマスは、不可抗力で子どもを車で轢き殺してしまう。その後、はじめは思い悩み自殺未遂も経験するが、そのプロセスや様々な苦悩により自分の創作に深みが出て、トマスは成功者としての人生を手にしてゆく。しかしそこには犠牲を糧にした成功という側面もあるため、遺された家族との軋轢も出てくるが、最後は互いに和解して完結する。
 この物語において注目すべき点のひとつが、トマスの周囲の人物たちは全ての出来事に意味を与えて、出来事と別の出来事を関連付けさせ、その流れにふさわしい振る舞いをトマスに求めてくる、という点である。これは物語というものの特性と似ていると考えられるだろう。その物語性を振り切ってあくまで現実的に生きるトマスの姿もまた、放浪するトラヴィスと同じく、ヴェンダースの思う「映像」というものの象徴ではないだろうか。
 このことを裏付ける最も分かりやすい場面は、トマスが共に暮らすサラとその連れ子である娘とテーマパークに行った場面である。テーマパークの乗り物が壊れて下敷きになった怪我人をトマスが冷静に対応して救出したことに対して、パートナーのサラは「なぜもっと狼狽しないのか」とトマスを責めた。これこそまさに物語がもつ安心感を皮肉を込めて表現している場面である。サラは非常事態という現象に対して、相応の意味や秩序を与え、それに合った狼狽という振る舞いをすべきだと言っている。その狼狽により、実際にはすぐ近くで起きている非常事態を物語として対象化し、まるで自分をそこから離れた所に置くようにして、不安を取り除こうとしている。しかし、そこに意味を与えるよりも、これを現実的に対処するトマスによって、ヴェンダースは物語に対する拒絶を表現していると考えられる。

 一方で留意すべきは、ヴェンダースは物語を拒絶していながらも、やはり人間にとって必要なものであると考えてもいるということだ。「私は物語を完全に拒絶します。何故なら、私にとって物語は唯一嘘しかもたらさないからです。(中略)しかしまた、物語なしに生きることも、私たちには不可能なのです。」(1992:146−147)とヴェンダースは述べている。
 《誰のせいでもない》の原題は《Every Thing Will Be Fine》である。作家として物語を生み出しながらも、現実世界では物語を拒絶し続けたトマスの結末を、原題と合わせて考えても、皮肉を込めて示していると思われる。物語を否定し続けた映画であるが、だからこそ逆説的な物語の必要性も、この結末に込められていると言えるだろう。

 以上のように、ヴェンダースはこれらの作品に「映像と物語の間の対立関係」についてのアンビバレントな問題を込めていたと考えられる。《パリ、テキサス》の公開が1984年、『映像(イメージ)の理論』の出版が1992年、そして《誰のせいでもない》の公開が2015年であることを考えると、この関係はヴェンダースにとって、ひいては映像というメディアに触れる現代の我々にとって、まだまだ考えを巡らせるべき議題である。そして同時に、不安感や閉塞感に苛まれることも多い現代社会を生きる我々にとって、誰もが自覚的になるべき現象でもあるのではないだろうか。

っていう文章をまだ社会に出てもいない22歳の俺が書いてんの草、でもアツいじゃん、という振り返り

 「不安感や閉塞感に苛まれることも多い現代社会」とか誰が言うてんねんとは思うけども、いやでも普通に良い文章だと思うぞ22歳の俺よ。映画だけじゃなくて世の中の色んな現象にも通じる興味深い観念を、映画鑑賞と著書の通読を通して導けていたと思いますわよ。別のこと考えてたはずなのに、これってあっちのことにも言えるよね、みたいな。
 「レポート」とか「評論」って、どれくらい学術的であるべきか、どれくらい読み物的であるべきかって、実は決まっていないと思うんですけども、こうして見るとだいぶ読み物寄りですね。しかしとはいえ、読み物と呼ぶにはまだ少しエモさに欠けるし、学術研究と呼ぶには厳密さに欠ける、曖昧な文章ではありますね。まあこれがまたヴェンダースの示す現実と映像みたいなとこあるんか。そうでもないか。
 逆に厳密さに欠けるポイントは挙げればキリないですね。「存在しない神を信じることで不安を打ち消すようなことだとも述べている」くらい断定しながら引用しないのヤバいとか、映画の原題《Every Thing Will Be Fine》は皮肉効いてんね、のところもう一段階説明してあげた方が丁寧じゃんとか、でも多分レポート書いてて普通に疲れてきたんだろうなって気もするし、全体で読んだらまあまあええやんって感じだからそれもまた良しって感じで。といったところでおしまい。

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