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RYUTistの卒業、ド正面から引き受けようじゃないか アルバム『二十九歳』より『カナリア』
RYUTist、卒業しちゃいましたね。いやもうラストライブから1か月以上経過してるんですけども。前回のマテクラⅡの鑑賞から、私が大好きな新潟の地方アイドルRYUTistのことに言及してまして、今回はありがとねほんとにねnoteその①的な感じで、RYUTistのことばっか書こうと思います。これを書き始めているのは、2025年1月16日、ひとりで佐渡旅行に来て美味しいご飯を食べまくって寝る前の私です。
ただ一応このnote、Base Ball Bearというバンドの曲を聴いてその時その時で思ったことを書くというヤツでして、まあ別に何でもない30歳サラリーマン男性が好きでやってるだけだからそのルールに無理にこじつける必要は無いのだけど、Base Ball Bearのアルバム『二十九歳』に収録されている『カナリア』を手がかりに色んなこと考えてみるってことをしたいと思います。
この記事で引用する楽曲等一覧
Base Ball Bear - カナリア
material club - Curtain part.2
RYUTist - WOOT!
マテリアルクラブ - 00文法
卒業&活動休止という別れというか喪失というか 存在?不在?
思えばこれほどの熱量で好きになったアーティストがリアルタイムで解散したり活動休止したりするのを目の当たりにしたこと、僕はこれまでほとんどなかったです。とっくの昔に解散しているバンドを好きになるとかはもちろんありますけど、リアルタイムでっていうのはね。いやまあBase Ball Bear湯浅氏の突然の脱退はそれに近い部分はあったか。でもバンドやグループの活動自体が終わるっていう、「これまで見に行っていたようなライブはもうこの先ありません!」「楽しみにしていた新しいリリースはもう終了しました!」っていうのはやっぱり初めての経験な気がします。大好きなRYUTistが決めたこと、我々ファンは潔く快く明るく送り出すまでなんですが、それでも素直につらいし寂しいし泣いちゃうもんですね。
ちょっと拡大して捉えてみますけど、行きたくてももう行けない場所だとか、一緒に居たくてももう居られない人物だとか、やりたくてももう出来ないことだとか、そういう喪失みたいなもんって人生にめちゃくちゃあるじゃないですか。卒業とか活動休止とか解散とかに直面するのって、めちゃくちゃ一般化して言えばそういった喪失の一つで、存在が不在に変わってしまうというね。
で、それの何が厄介かって、不在に変わってしまったのにも関わらず、存在してたときの楽しかった時間の記録や過去の幸せだったときの記憶、まだまだ自分の中にガッツリ存在しちゃってるってことですよね。まさに『まだ全然好き』ってヤツ。iPhoneのカメラロールは唐突に懐かしの写真のスライドショーを勝手に作ってきやがるし、思い出したらつらい気持ちにもなるんだけど器用にそこだけ記憶から取り外すことなんてできないですし。そこにある現実とのギャップにやられてしまうということなんですかね。
ただですよ、寂しい気持ちになりたくないからといってなるべく思い出さないようにしたり、記録を消そうとしたり、飾っていたものをしまったり、前まではたくさん聴いていた曲を流すことを避けたり、みたいなことは全然すべきじゃないな、というかそんなこと全然できないなって思いましたね。だって卒業したという現実が確かな事実なのと同じように、俺は変わらず君を愛しているんだああというのも全くの事実ですからね。
…っていう話を、Base Ball Bearの『カナリア』と関連付けて、インターネッツに垂れ流したくなったんですよ。
「失ったものなのに 失ったものなのとしてここにある」
この歌詞は『カナリア』じゃなくてmaterial clubの『Curtain part.2』の歌詞ですが。『カナリア』でも同じテーマを歌ってるし、最近のこんプロラジオで、こいちゃんはこのことについてガッツリ喋ってくれました。24分あたりからです。
改めて、少なくとも私にとってはRYUTistの卒業はなかなかにデカい出来事でして。僕なんかはまだ現場歴の浅い方なのでもしかしたら長年のファンの方にはもっと深い傷を負った人もいるのかもしれませんね。ですし、我々にとってのRYUTist卒業に限らず、色んな形で何かが不在になることによって傷を負うことはあって、ただそこで思うんですが、浅かろうが深かろうが傷があるということを絶対にちゃんと引き受けて生きていきたいものなんですよね。失ったあとでも、そこにあってほしいものがかつてあったときの記憶をぼやかしたりしたりしないで、失われてしまった現実とのギャップとうまく付き合って生きていくのが、より自分でいられるような、情緒豊かな営みだろうなあと私も思います。
聴くと何かを思い出して泣きそうになるような曲も聴いたら良いと思います。行くと喪失の実感を突きつけられて虚しくなるようなところにも時々行ったらよいと思います。そういう悲しみというかエレジー的なものとうまく付き合いながら人生ってのはやってくべきなんじゃないですかね。情緒的な意味でもそうですし、あえて言うのは大変野暮ですが、いつまた集まろうという話が上がるときの布石みたいなね。来るかも分からない、いつかに向けた土台のごく一部くらいにはなるかもしれない、という実際的な意味でもです。私がひとりで佐渡に来てみたのもそういうとこある気がしてきました。いや実際は完全に理由後付けですけど。
小出祐介氏が気づいた「失くす前の手触り」というやつ
失くしたもの 失くすくらいなら始めからいらなかったと思ってた
だけど最近 1引く1ほど単純じゃない気がしたんだよ
失くす前の手触りをまだ確かに覚えてるから
言うてますけどもね。ベボベさんにもかつてはバンドの代名詞になったような『十七歳』というアルバムがあって、良くも悪くもそこで植えつけられた青春ロックバンドみたいなイメージと向き合いながら、というか戦いながら音楽を作り続けてきたとこがあり、『二十九歳』も多少なりともその文脈にありはすると思います。
その上で、じゃあそんなイメージが全く無かったあの頃に戻れたらベボベはもっと自由に音楽作れていたのか?と考えると、それは違う感じがします。懐かしくもなるようなまっさらな状態ですが、それをもう一度手に入れるなんてできないし、でもできないからこそ、そのギャップによる苦悩から生まれるのが表現ってもんだと思います。
いや正直、小出氏が考えた「失くしたもの」の具体例としてこれこそが正しいだろうなんてことは決してなく、むしろちょっと違うだろうなといった感覚です。解釈クイズで言ったら正直違う気はしてるんですが、『二十九歳』というアルバムはその当時のBase Ball Bearという生き物の在り方を描いたアルバムであり、私にはそんな風にも読み取れるなと思った次第です。
そんな風に、もう戻れないあの頃を思い続けてこそ、「自分を信じられることがあるから 救われるよな」な、状態も時折訪れるのだと思います。これまでは"存在"に支えられていたけど、今は"不在"に支えられるというところがあります。"不在"に支えられることで信じられる自分というのができてくると思います。特にみくちゃんが何度か言っている「RYUTistの音楽は残りますから」というのは、こういうことでもあると思いますね。
だから僕はこれからもRYUTistの音楽を聴いて、ライブ映像を観てウルっときて、既存曲にもまだまだ新しい発見がてきるように意識を向けて聴きこんで、ギターを弾いて、そしてときどき新潟に遊びに行こうといった次第ですね。それがいちファンなりのありがとね、ほんとにね、でございましょうかね。
ファン活動は好きなだけやろうぜ
Thee RYUTist -WOOT!
と言ったところで今回考えてたことはだいたい以上なんですけど、どちらかというと主張したいのはむしろこっちです。ファンきっかけの発信とか、広く言えば同人活動っていうんですかね、本人たちや運営に迷惑かけるものじゃなければどんどんやっていったら良いと思うんですよね。そう思って、RYUTist現場歴の浅い私もそんなのは気にせずにやってみたのが、柴田聡子さん作詞作曲の『WOOT!』のひとりカバーです。
Thee RYUTistと勝手に名乗ったらコピバンやりたいですねと言ってくださった方もいました。メンバー集めやバンド運営ってちょっと得意ではないんですけど、でも頑張りますよ。折を見てしっかり動いていって、いつか新潟でライブをやる日を夢見ています。
今後ちゃんと情報発信していきたいんですがThee RYUTistはボーカル・ベース・ドラムを募集しています(私がギターで、あと鍵盤やりたいですと言ってくださった方がいます)。興味があれば「とおりすがりのあなただって」楽器の技術なんかは気にせずお声掛けをば。最初はネットでやる感じかなと思っているので居住地も不問です。
わーありがとうー!
— 横山 実郁 RYUTist (@MIKU_RYUTist) January 5, 2025
それぞれのグッズあるの愛感じる🥹🥹 https://t.co/m5BbtLEhvK
(みくちゃんに見つけてもらっちゃいました。嬉しすぎる。)
「とおりすがりのあなただって」の精神で
この『WOOT!』という曲、卒業発表前では最後にリリースされた曲でした。それがこの底抜けの明るさですよ。
RYUTistは9月の卒業発表から12月の卒業までの期間を「ありがとねほんとにねseason」と名付けて、それまでのRYUTistを総括するような、それでいて常に新しいことにチャレンジし続ける「これぞRYUTist」な姿をたくさん見せてくれました。思わず涙が出る瞬間が何度もありました。
ただ、どんなに涙腺のディフェンスラインを崩されまくるライブでも、この『WOOT!』が歌われているその時間には純度100%の絶対的なハッピーがありました。どんな孤独もブチ破ってくれるような、大好きな曲です。ありがとうRYUTist。ありがとうさとねえ。そんな『WOOT!』の特に好きな歌詞がこちら。
見てるばかりのあなただって
とおりすがりのあなただって
無理無理踊り出さないのは それは無理
この「とおりすがりのあなただって」な精神、最近のちょっとした生きるテーマみたいなとこあります。はじめはみんな通りすがりですからね。「見てるばかり」だろうと「とおりすがり」だろうと、踊り出してしまったのなら「それが本当のダンスだ」ってことですよ。だとしたら何でもやってみたら良いと思います。最後はマテリアルクラブの『00文法』の歌詞でした。
そのまま動くな 音の波に抗いな
我慢できなかったら それが本当のダンスだ
私の短い現場歴でもまだまだ書きたいRYUTistの思い出は山ほどあるので、また勝手にBase Ball Bearの曲を関連づけてnote書きたいと思います。以上。