「何者か」という呪縛
近頃、自分が何者なのか、どういう人物なのか、つまりアイデンティティについて考え込んでしまうことが多くなった。誰かが誰かを指すときに「あの人は〇〇だよ」と紹介するような、自分を客観視した際に表現出来る内面がないように感じるのだ。例えば偉大な発明をした人、スポーツで偉大な成績を残す人、もしくは面白くて人を笑わせられる人、そういった人達はアイデンティティの獲得が比較的容易かもしれない。だが自分にはそういった材料がない。発明は出来ないし、抜群の運動神経もなければ笑いで評価されたこともない。人と比べて突出した"何か"がない私は「何者か」を証明することに駆られているのだ。
「何者か」を証明することは現代人類にとって不変のテーマになりつつあるように感じる。ブラッドピッド主演の映画『ファイト・クラブ』は自己の内面へ感じる空虚さと、"なりたい自分"への強烈な羨望から狂っていく男を描いているし、実際の図書館強盗事件を基にした映画『アメリカン・アニマルズ』では「何者かにならなければいけない」という思いに囚われた青年の葛藤、失敗を目の当たりにさせられる。
しかし、そういった思いは内から沸々と、あるいは自然と湧いてきたものなのだろうか。不謹慎だが、アイデンティティを獲得しようと動くだけなら先程紹介した映画で主人公達がそうしたように、事件を企てて実行すればいい。事件が凄惨、凶悪であればあるほど"稀代の大悪党"というアイデンティティが得られるだろう。しかしそうしないのはなぜか、それは当然望まないものだからだ。自己を確立できなかったから最後に大暴れして死んでやろう、そう考える人は一握りなのだ。つまり、「アイデンティティの獲得」は内側から現れる本能的なものではなく、外的な要因によって与えられるものと考えられる。
有名な心理学者のマズローは人間の欲求として「欲求5段階説」を提唱した。ピラミッドで表した5段階の人間の欲求を目にしたことがある人も多いはずだ。
簡単に説明すると、ピラミッドの下から順に欲求を満たしていくと、次の段階の欲求が生じる、というものだ。これをもって何が言いたいのかというと、「人間の生活レベルが上昇した影響で欲求の階層も上がってきている」ということだ。全世界的に見れば、外部要因に住処と安全を脅かされることはなくなりつつあるし、"家族"というものが、働き手で回していく社会の最小単位から癒しの場に意味が変わっている。そうして、人類の欲求が「承認の欲求」まで昇りつつあるのだ。更に今やインターネットという、今まで持つ者が限られていた"発信"が身近になっている。つまり、表現する自己がない者にまで、表現する手段とそのモチベーションだけが与えられている、そういう状況になっているのだ。
私はこれを書いている今も「自己が何者か」という呪縛に囚われている。誰かに賞賛されたいし、眠っているだけで群を抜いた才能があると信じ続けていたい。ただ、それは本当なのだろうか、そうしなければいけないという、ある種の強迫観念に駆られているのではないだろうか。今一度、自身の本懐と、どうすれば自分にとって幸福なのかを見つめなおさなければいけないのかもしれない。