最近「がんばらなくていいよ」で溢れているんじゃないかという話
はじめまして。今日から思ったことを適当に書き連ねていこうと思います。
インターネットはその匿名性が故に、内に隠している本音が表出しやすかったり、SNSの台頭によって「欲しい情報」が広く届きやすかったりするものだと思います。私はインターネットというフィルターで自己顕示欲という本音に気づいたし、欲しい情報しか得ていないので、ゴールデンボンバーの歌広場淳さんが結構ガッツリとした不倫をしていたことを友人との雑談で知りました。
そういったインターネットについて最近思うのが「がんばらなくていいよで溢れすぎじゃないか?」ということです。ここでいう"がんばらなくていいよ"というのは「みんな(時にはお前)は十分頑張っている。えらいので休め。」というニュアンスです。
がんばらなくていい、という言葉は非常に耳触りがいいです。やりたくもないマラソン大会で「もういいよ!終わりにしよ!」と言われたら皆コースを外れて休憩し始めるでしょう。午後の気だるい時間の業務中「給料は1日分出すから後は帰宅していいよ」と囁かれれば疑問を抱きつつ帰路につくやもしれません。いや、ここで例に挙げていること以上かもしれません。インターネットの匿名は、あなたががんばっていることを認めた上で休ませようとしているのですから。努力を認め、休息を促す甘い言葉はいともたやすく人々の間に受け入れられます。
私はこれを前時代の揺り戻しによるものだと考えています。前時代は怠惰を許さず、勤勉を良しとし、社会に沿わない生き方を社会そのものが排除します。そういった前時代を親として見てきた今の時代は、社会という巨大な組織に属さない生き方を生み出しつつあるし、結果の有無を問わず努力を評価し「みんな(お前は)がんばっている」と声をかけてあげているように見えます。
私は以前までそんな優しい声にただ身をゆだねていました。大学生の頃、人間関係に悩んで友達に職務を全て投げつけた上で連絡を全て絶って雲隠れした委員会に対して「あんなところ辞めて当然だ。俺は十分にがんばったんだ。」と自分に言い聞かせていました。こうやって書いてみると自分のした行為がいかに自己中心的で迷惑な行為かわかりますが、物事は俯瞰しないとよくわからないものですね。
インターネットの問題としてよく挙げられることの一つに「エコーチェンバー現象」があります。自分に都合のいい情報だけを他者と共有することで主観が凝り固まる現象のことです。声の響く部屋で独り言を言うと自分の声が返ってくることに起因します。私は「がんばらなくていいよ」がこれなんじゃないかな~と思っています。事実私は自分を正当化しそうになっていましたし。「がんばらなくていいよ」は心の弱い人間にするりと入り込み、"自分って十分がんばってるのかな"と錯覚させるように思えます。ちなみにこの話を、特に大きな夢を追っているわけでもない就職浪人を1年していた友達に話したら「俺はがんばらなくていいよという意見の方に賛成だけど...」と語っていました。お前はもっとがんばれという言葉を飲み込みました。
なにが言いたいのかというと「もっとがんばらなきゃいけない人に届くと危ない言葉だよね」ということです。ただ勿論世の中には明らかにがんばりすぎている人もいますので、そういう人には正しくかけてあげるべき言葉だと思います。しかし人間とは基本的に怠惰な生き物です。多くの場合がんばった方がいい人がほとんどだと思います(といっても本人が現状からの脱却・向上を目指していない場合もあるし、人間むずすぎる、死神も面白がるわな)。
インターネットというものの性質上届けたい人にピンポイントに届けるのは無理なことなので、自分ががんばった方がいいのか、マジでがんばりすぎなので休むべきなのかは自分で判断しましょう。お前のオールを他の人に任せるのはやめようねって話です。かくいう自分は、まあ、がんばって1600字近く書いたし昼間から寝ます。それでは。