見出し画像

脳内にたまった記憶を解放するためにつけた日記(2/8~2/10)

2025.2.8
夕飯をスーパーのお惣菜にしてしまった。う〜ん、本当は自分で作ったほうが添加物もないし、おいしいんだけど……寒いからしょうがないね。イタリアン風チャーシューと、鯉の洗いを買った。あと蕪も買った。青菜系の野菜が本当に少ないし、高いしで、蕪の葉に何度助けられているだろうこの冬。

けど貧乏くさいというより、蕪の葉って元気でまっさおで、生でも火を通してもおいしくて、とてもいい。蕪の部分も食べでがあるし。
鯉は、じつは美味しい。佐久鯉なんかは井戸水で育てていて、泥のくさみはまったくない。酢味噌で食べるっていうところが、どうも信州っぽい。

今日は少し職場で立ち読みをした。本屋は立ち読みし放題なんだけど、そううまくはいかない。「あっ、これ読みたい!」と思う回数が、休憩時間に対して多すぎるのだ。今日アンテナにひっかかってきたのは、ジュリアン・ジェインズ『神々の沈黙』。人間に「意識」が生じはじめたのはたった3000年くらいまえのことで、それまでは「神の声」にしたがって人間は行動していた。意識が生まれたことで「神は沈黙」した。多くの古代文明は、この神の声に突き動かされた人間たちが築き上げた、となんともこういう話、好きだ。

意識。

私はお腹の調子がほんとうにつらくて、それを改善すべく、つよく意識して目標をたてて実行してきた。その結果、下痢をしていない期間はもう1ヶ月半になる。前は月に2回くらい激烈な下痢をしていたので、これはすごい成果だ。
けれどこれは本当に「意識した成果」なのか? 意識ができるようになれば、人はほんとうに進歩するのか。そうしたら『神々の沈黙』で主張されるような、人間の意識がうまれる前の時代の文明というのは、いったい誰が創造したというのだろう。
まだ前書きしか読んでいないこの本、買ってしまおうか。部屋にある既存の積読たちが、うらめしそうな顔を向けてくる。


2025.2.9
サブレを焼いた。はとサブレやこいぬサブレのような、厚みがある生地で、てろっとした表面で、こんがり焼けていて、中はさっくさくの、そして片手でつまめて読書の邪魔にならない形状をめざしたのだけれど、家にある『フランス菓子図鑑〜お菓子の名前と由来〜』を引いてみると、サブレ=バターの濃厚なリッチなクッキー(簡単にいうと)とあった。

お菓子の名称というのはおもしろい。日本ではサブレといえば、多くの人がはとサブレ的食感を想像すると思うが、発祥地フランスでは別のお菓子感が想起される。国をまたいでも、また国内で地域をまたぐだけでも、へたな伝言ゲームのようにお菓子は形状を変えていく。

そうしたら、どんな名前をつけたっていいんじゃないか、という話になる。私の焼いたサブレは中央までさっくさくにはならなくて、内部はすこしマドレーヌ状にふわふわしていた。これを「ソフトサブレ」と名付けるのはどうかな、と思った。「ソフト」とあれば、見た目がさくさくでも、見ただけの人は「カントリーマアム的な内部があるのかも」と予想するし、サブレときけば「はとサブレみたいなのか」と予想する。そしてその予想は的中する。この名付けは真実を射ている。

それに対して「生キャラメル」はどうかといえば、キャラメルが火を通していないなんてありえないから、あれは嘘だと思う。キャラメルは糖分を加熱して焦がしてキャラメル色にしているのだから、と私は思うのだけれど。
「キャラメル」といわれるより「生キャラメル」と言われた方がおいしそうな気がする。とくに世の中に「キャラメル」しかなかった時代に「生キャラメル」が突如出現すれば、その期待はマックスだ。そして口にいれた瞬間「これはキャラメルなのか、それとも生なのか」という疑念なんかどっかにふっとんでいって「おいしい〜」と感じるだけなのだから。そして「じつは生じゃありません〜」と種明かししたところで、それに文句をいう人も稀だろう。

名付けって、大事だなあ。名前をつけた人がどうというよりは、名前をつけられた物や人の、その後の成り行き、人生を左右するファクターだなあと思う。


2025.2.10
昨夜は昔会ったことのあるアーティストのライブに、ひさびさに足を運んだ。アーティストその人の歌声を楽しみにはしていた反面、怖い部分もあった。アーティストに出会った当時のことを思い出し、その当時の学生という恵まれた環境や、気の合う同級生や、可愛がってくれた先輩たちのことや、喜びとか葛藤とか恐れとか、それに加えて、かならず訪れると当時は信じていた自分自身の輝かしき未来が、いま実は来ていないということに思いを馳せて、すごく沈むんじゃないかという怖さ。

ここから先は

1,159字
この記事のみ ¥ 300

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?