見えてるのの逆 嘘が真実 世界を「裂く」という行為
中世、「子供」という人種は、ヨーロッパ人によって突如として「発見」された―――
いまでは、当然のように、子供は子供として扱われる。大人としては、扱われない。扱ってもらえないし、扱われずにすむ。
それが、かつては、子供も大人もおなじ、一種類の「人」だった。
信じがたいことだが、「発見」以前の人々にしてみたら、「どうして、おなじ人なのに、別ものとして扱うのか?」疑問は絶えないだろう。
人には、大人と、子供、2種類がある――
その発見は、世界を「裂いた」瞬間だった。
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見分ける、という行為が、重要だ。
一見、似たようなもの同士でも、それらは別ものであると、はっきり認識すること。どこが、どのように違う、と、差異を言いあてること。
食べられるキノコと、毒のあるキノコ。雨雲と、雪雲。在来種と外来種の、タンポポ。
その人の得意分野というのは、見わける力が優れているかどうか、で決まるように、私は思う。似顔絵が得意な人は、ふたりの人の顔が、どのパーツがどのように違うか、しっかりとらえている。
ひとりの人に注目すると、見わけるのが得意な対象と、苦手な対象とが、かならずある。
そして、見わけるのが苦手な対象については、ほかの人が、これとこれは別、と教えてくれても、その違いがわからない。世界にあるその対象物は、すべてが、一緒くたなのだ。その部分について、世界が一色に塗られている。
猫を飼っていない人が、猫の顔のちがいに気づけないのに、似ているかもしれない。
人に興味のない猫もまた、人という種はみなおなじ顔をしている、と思っているだろう。
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それぞれの人が、自分の得意な分野において、世界を「裂く」。そして、周囲の人が、裂かれたあとの世界に、複数の「種類」があったことを知る。
裂くまで、世界は一色だ。それまで、種類は存在しない。
種類は、発見されるのではない。発明されるのだ。
そのあとで、種類ごとに、よりよい使い道を見つけたり、よりよい対応のしかたを考えたりする。
子供に重労働をさせたって、大の大人と比べれば、生産高はしれている。しかし、ものを記憶したり、発想させるなら、大人よりも力を発揮する。
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世界は、日々、裂かれている。
世界が一色であれ、裂いたあとで多彩になるにしろ、その対象物の総量は、あきらかに、不変だ。
世界は、その大きさを変えぬまま、質量を増しているかのよう。
その豊かな海に、人々は浮き沈み、さらに裂こう、どこが裂けるか、と世界を見つめている。