窓から 外の景色をながめている
人が、生きていて当然だ、自分の意思をもって、目的地をもって、今日、街を歩いているなんて、そんなこと、当然だ
なんて、思っている? これは単なるプログラムなんだ。自分たちでかってにうまくやってくれる自動制御装置がいいんだ。そういうのが、すきなんだ。昔から。だから、できるだけそういうのを造ろうとした。それで、これなんだ。クリックしただけで、たとえPCの最初の開発者がそれを監視していなくても、かってにウィンドウが開いたり閉じたり、ページをめくったりする。
それで、だんだん、もっと根本のほうも自動制御になってくれたら、と考えてAIなんだ。ページを開いたり閉じたりするのも、どんなときにそうすればいいか自分で考えて、かってにやってくれる。その考えの出どころも、自分でなにかで聴いて、それを真似しただけなんだ。
そのうち、もっと自動化が進む。いまじゃまったく考えられないような内容の自動化。人生そのものの進路とか。この遺伝子の人には、こんな学校行ってこんな職業について、結婚相手はおうし座のAB型で、子供は2人がいいんじゃないですかね、とか。
探査するなら火星より木星がいいですよ。時間も費用もかかるけど、火星じゃリターンするものなんかなにもありゃしないし。それにくらべ、木星のエネルギーが供給されるようになったら100世代の人類が遊んで暮らせますよ。でもそのためには、戦争につかう予定の全世界分の核エネルギーをすべて一度に消費する必要がありますけど、どうします? じゃあそっちにしましょ。
自動制御には、こちらが口を挟む余地がない。
体力エネルギーが減ってくれば自動的に眠くなるし、たべものを食べればかってに消化するし、暑ければ汗をかくし、寒ければ震えるし、子供だって、なにも知らないと思っていても、知らなくたってなんでも自動でする。知識として持つ持たないの問題ではないのだ、自動制御というのは。
そうやってプログラムは、目まぐるしく変化する、おそらくは前進している世界を見つめ、そのうちに目が回ってきて、目をつぶる。自分ひとりが停止しても、ちょっと逃げても、世界からきれいさっぱり消えてしまっても、この自動制御の世界には、なんのダメージもないし、なんの影響もない。誰も、なにも言わない。ちょっとは言われても、それは相手のプログラムがそういう反応を返しているだけであって、私のプログラムを書き換えて今度は消えないようにしてあげようだとか、それとは逆に、私のプログラムに転用できそうな便利な部分があったから、自分のプログラムにうまく組み込もうとか、そういう作用の応酬はまったくない。
自動制御の建造物たちが、べつべつに建って、相手の様子を目にして、渡り廊下もアーケードもないくせに、自分で勝手に、影響されたとか、影響を与えただとか、感じているだけなのだ。
そんなときに、わたしは腕というものを見た。その腕は白く、太く、血管のすじが浮いてみえている。美しく、しなやかに動く筋肉と、それにともなって製作される、その腕が生みだすあらゆる存在。物、音、言葉、動作。物となったものは存在感を増し、その腕の遺伝子を受け取って、確固たる物となった。
それは、プログラムではない。存在としての、物。
それから、その腕につづくからだを見つけた。肩、背、首、頭。胴、足、歩み。
確固たる存在が、確固たる物を、つくりだす。
ああ、どうして私の腕は、こんなにも細いのだろう? どうして同体は薄弱で、存在は薄っぺらいのだろう? そのまま、なにをつくることもなく、なにに影響を与えることもなく、また、なにに影響される柔軟さをも持ちあわせず、ひとつの個として、自分へ証明する程度の存在感をもって、世界に存在し、そうして消えていくのだ。
消えていくときには、なにをも残さず、また、なにか少しは言われるだろうが、それはプログラムの反応の返す言葉でしかないのだ。
そして、腕から連なる一連の物のそのさきには、視線があった。視線は、わたしを捉えたと、わたしは感じた。
逃げようのない力だ。プログラムは、自分のしたいように勝手に行動をし、視線をさまよわせ、私へ帰着する。そのとき否応なしに、わたしは影響を受けたと思いこまされる。プログラムは、影響を与えたと、意識することもなしにその効果を味わっている。その味が、他のプログラムから無理やり押し付けられたものであることもまた、意識せずに。
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そうなのだ。
人と人とは、そういうものなのだ。
そこにそういう人がいるということ。たしかな、息づく人型があるということ。それに気づいて初めて、自分の存在に気づくことができる。視線がこちらへ向いて初めて、自分の存在があったことを思い出す。