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脳内にたまった記憶を解放するためにつけた日記(1/24~1/26)

2025.1.24
野菜が高い。冬はたしかに物寂しさのある季節だが、例年これほどの価格変動があったものだったかと訝る。キャベツ一玉400円越え、高くなるほど消費税課税後の額に汗がでる。
そのせいかはわからないが、おからは売り切れているし。

少しこわいなと思った。
おなかいっぱい食べることなら、まだできる。外食とお菓子をやめて、お米や豆腐や納豆やもやしに置き換えれば、美味しくたべることはまだまだできる。けれどそれは私一個人の話であって、いままで置き換えていたお米や豆腐ですら手に入りにくくなって、食べる種類のみならず食べる量もへらして、光熱費をへらして暗く寒い部屋にくらして、そのうちに仕事も少なくなってきて、さらに我慢をしいられて……そういうちょっとした、ちょっとずつ各人が担う変化の波は、大きな連鎖の津波みたいになっていっきにこの国を押しさるのではないか、と思ったのだ。

まあまあな今の生活も、もしかしたら一気に崩れさるあやういものなのかもしれないと思ったのだ。

***

今日は特別な日だ。日記をつけ始めてから一ヶ月がたった。つまり、過敏性腸症候群についてマジになんとしてもやってやろうと決意してから、一ヶ月。
なんと、あれから下痢をいちどもしていない結果にあいなった。

意識していることは毎度の紹介になるが、こんな感じ。
【毎日の目標】
・ぬるめのお風呂に浸かる
・寝る前に腹式呼吸で瞑想
・日記をつけて、脳内の思考を解放する
【ちょっとしたおまけの心がけ】
・毎日酢をおちょこ半分飲む
・トイレの時間を悠然ととる
・起きてストレッチ、寝る前ストレッチ
・心を焦らせない

便秘はあいかわらずなのでもうすこし改善したいとは思うが、まあまあ上出来だ。
「心を焦らせない」は、去年の春に転職してからずいぶんとコツを掴んだ。「こう思われたかもしれない」「こう思われているかもしれない」と、相手の表情や態度にふと予感がしたときも、いったん思考を止めるのだ。息を止めるかのようにふっと。そうすると脳内の血流が緊張をとかれて、小川のような流れ方になるような感覚がする。世界が平和になる。


2025.1.25
洗面所で顔をあらってメイクをする。それだけのたった15分で無数の思考が去来する。やらなきゃいけないと前から思っていたことと、昨日言われたひとことと、冷蔵庫にあるものと作る料理と、まいにち夜すこしワインを飲んだだけであとの大抵の時間はまじめにやってきたはずなのに、どうしてかギリギリになってじゃないとできなかった事の無力の自覚と、もっとあるけれどとにかく無数だ。鏡に向かってメイクをしているだけで、脳はどうしてかってに、今関係ないことを次々投げてよこすのだろう? 今の瞬間、寒い、と感じていることを少しでも忘れさせるためだろうか。おかげで洗面所を出るころにはあたまの中がジリジリと疲れている。

ただ窓から景色をながめている。ながめるくらいしか私には、この世界にたいして手を加えることができないのに、脳はまたかってに感想を述べようとする。景色の細部を詳述しようとする。大きな橋が、東から当たる朝日に、赤くかがやいている。それとおなじ方角を向いている家々の壁も、三角や四角や台形や家形に赤くかがやいて、それがだんだん黄色から白っぽい陽光色へと変化する。朝はまっくらだった山のシルエットは、それにつられてだんだん峰だけを光らせて、峰と峰のあいだの鞍部の影が増す。枯れた森で覆われた山は、細い枝がたくさん集まった風情の肌あいで、さわればさらさらふかふかしていそうだ。

今朝は結露がなかった。冬のただなかにいると暖かい季節や暑い季節があるなんて信じられない。冬にとって季節は存在しない、冬がただあるだけで、それが続いていくだけ。寂しい思いとか、つらい過去の想起をしているときとかと同じで。
結露がないというのだって、いまは一月なのだから春の予兆ではない。厳しい性格な冬のいっときのやさしさか、意地のわるい気まぐれだ。暗闇を歩くような人生で、そういういっときの春の幻想は、何度もあって、それがあたまのなかで終わるたびに「なんでそんなこと信じたんだろう、なんで楽しかったんだろう、現実は暗闇の道だって知っていたのに」という気持ちになる。そういう若い頃もあった。

人に言われたことを信用しすぎたのが、その原因だと思う。
現実は怖いものばかりで、信用できない人ばかりで、たいしたことない言論ばかりで、その波を渡りあるくうまい方法を学生時代でみつけていくのが子供の使命だ。その事実を提示するのが親のやさしさなんだ、と私は思っていた。
パンデミックが起きても死ななかった。海外旅行をしても物を盗られたりしなかった。たいしたことない言論はテレビを持たなくなったころからぱったり姿を消した。

大変な世界を、よく知らないまま、鎧を着て歩きまわらなきゃならないとなれば、息はひっそり、重いからだをいつもいからせて、顔の中央には力が入って、あたまの中は次くるトラブルに備えるために自動で対策案を出せる状態にセットしておくのが理想だ。私はうまくそれに適応したと思う。
そして副交感神経の存在をどんどん忘れていって、それが適応だったと思う。

頭のなかで考えていたな、とメイクのたびに思う。今はこれを考える必要はない、とふと思いなおす。肩が上がってからだをいからせているとき、家で椅子に座って景色をながめているだけのときにからだがなんでいかっているのだろう、と家で毎日思う。今ここに力を入れている必要はなかったんだよな、と力を抜く。それと同時に呼吸のことをだいたい思い出して、いったん息を吐いてみる。すると新しい空気がたくさんたくさん、肺のなかに自然に吸い込まれて、からだに酸素が巡った感じがする。

そんなふうに生きてもいいんだよね? そんなふうに生きても、明日エボラ熱で世界が混乱することも、第三次世界大戦が始まることも、世界恐慌でトイレットペーパーを買いに走らなきゃいけなくなることも、ないよね?
そんなふうに力を抜いて、オーブンの前でお菓子が焼けるのを待っていても、それが人生の形になっていくよね?

***

今日は安心した。水菜の大きな株がふたつで150円だった。直売所。ここはあいかわらず長野県だ。昨日スーパー行ったときは夜で、いい値段のものは売れてしまっていたのかもしれない。トマト400、キャベツ450、ブロッコリ500、的な。

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