均質化したいのと、抜きん出たいのと

ある、盗癖のある人の言葉で、「万引きをしてその商品を得ることで、周囲の人とおなじスタートラインにやっと立てた気持ちになれる」というのを読んだ。

中世ヨーロッパの物乞いといっしょにできない所もあるけど、

「自分が人より損をしている」

と思うと、平等になるべきだ、と考える。そして、合法あるいは、非合法な手段で、それを実現しようとする。

「自分が人より得をしている」

と思っても、その気持ちからなにか行動しようとする人は、少ないかもしれない。でも、恵まれている私は、困っている人をたすけなきゃ、という気概をもつ人もいて。

中世の教会のボランティアと現代の状況をいっしょにするわけにもいかないけど、貴族が衣服を寄付したり、炊き出ししたりする習慣があった。それで、均質化を実現しようとする。

「同胞をたすける」

と表現すれば、恵まれている人が困っている人をたすけるのは、とても温情厚く、人として自然な行い、みたいに見える。人の道、っていうやつ。

しかし、物乞いや盗人のように、自分は恵まれていないから、恵まれているやつから盗っていい、というのも、おなじ均質化にむかう動き。

ところで、貧困と犯罪に密接な関連がある、という研究データはないらしい。

均質化、といえば日本人はとくに得意分野なんじゃないだろうか。世にいう「空気をよむ」のだって、意見の均質化をめざす行為だ。

空気をよむことそれ自体がひきおこす結果はどうあれ、少なくとも、衝突をさけることができる、というのは事実なのではないか。友達のあいだで「それはちがうよ」と反論して、孤独にならず議論ができるようになるには、年齢をかさねる必要がある。

大人だって、空気を読んでいる? 大学で、会社で、家庭で、社会で。

それはちょっとマズイ。昔の人はよくこれを「論議」と言うけれど、ま、議論でも論議でもどっちでもいいんだけど、ようするに「話し合って、よりよき結論をだすこと」は、建設的なことをしていくうえで、とても大切。

つまり、建設的な議論が大切、ってこと。

衝突をさけてエネルギーを温存するか、それとも、衝突してでもなにか有意なものを建設するか。

一見、空気を読んだほうが、まわりの意見を尊重していて、それは利他的とみえる。自分の意見があっても主張しないんだから。

けれど、その結果として自分自身のエネルギーを温存するのだったら、社会のために何かを建設するより、よほど利己的だ。もっとやっかいなのは、日本人のほとんどはそれに気づいておらず、自分は利他的で善良だ、と信じている点だ。

ところで、利他的に生きることのどこが善なのだろう? あるいは逆に、利己的に生きることの罪とは?

利他的に生きている人は、いいなと思う、あの気持ちは、もしかしたら、自分のためにもなにか意味のあることをしてくれるかもしれない、という期待なのでは? そうしたら、自分こそが利己的で、「利他的な人はいいな」と思う人は利己的だということになる。

反対に、利己的な人っていやだなと思うのは……いや、これは反対じゃなくて同じじゃないか。利己的な人は自分になにもしてくれなさそうだから「いやだな」と感じる。

どっちにしても、均質化を飛びだして、自分だけ抜きん出たい。うーん。

自分を疑ったことのある人は、強い。

「そんなこと、ドラマの世界の話だと思ってた」

と思ったことのある人は、強い。世界中のほとんどの人は、強欲だ。映画の悪役だけではなかった。わたしたちは、基本的に強欲だ。なんでも食べたい、なんでもやりたい、なんでも欲しい。そのためなら、他人を蹴落としてもかまわない。

「自分を疑う」というのは、「自分が正しい人間だということを、疑う」という意味。その人は、両面を見ることができる。善としての自分と、悪としての自分。

そして、人間によって作られた法律などに構いもせず、世界は自然のまま回っていることに気づく。

強欲であることを、なにも恥じることはない。強欲でなかった生命は、自然淘汰にあったのだろう。

均質化したい動向もまた、悔いることもない。あまりに利己的な種もまた、熱帯雨林の伐採や、マグロの乱獲をしつくして(人類でいえば、の話であって、単なる喩え)、最終的に自分たちにエネルギーが回ってこなくなったのだろう。

わたしたちは……というより、繁栄している種族は、かぎりなく中道にたっている。イワシの群れの真ん中にいれば、敵に食べられにくいのさ。


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