仕事だいすき? まあまあ? やめたい?
大好きなことを仕事にする人は少数派としても、けっこう好き、ふつうに好き、まあまあ好き、程度の好きレベルで、仕事をしている人は、いると思う。また、好きになれない仕事について、まあ、続けていくしかないか、と妥協している人も、まま多いと思う。
仕事についての好き嫌いを「好きな人」と「きらいな人」に2分割することは、なかなかむずかしい。自分という存在と、仕事という存在を、どれだけ近づけたいか。あるいは遠ざけたいか。その距離は、人によってさまざまだから。
けれど、その距離が、仕事へのモチベーションにたいしてプラスに働くか、マイナスに働くか、という問いなら、すぐに答えが出せる。
「本来的な、理想的な、自分らしい生きかたが、ほかにあるんだけどな」と、葛藤をかかえながら、朝おきて会社に向かう。その葛藤、妥当なのかどうか。
*
仕事に対するスタンスの、理想レベルは、以下5段階に分けられる
・楽しくて仕方がない
・仕事は好きだが、今の環境はよくない
・仕事は好きではないが、環境はいい
・仕事は好きではなく、環境もあまりよくない
・辞めることしか考えられない
上であればあるほど続けたい仕事であり、反対に下へ向かうほど葛藤は大きくなる。あなたの今の仕事は、どの段階だろうか。
*
仕事(職場)をえらぶときの難しさは、仕事に必要な「作業」は調べたり想像したりして、予測することができるけれど、それ以外の要素は予測することができない、という点にある。
その最たる要素は、人間関係。学生時代までは、ある程度、おなじような学力、環境、思考形態をもった人間があつまる。ところが、職場には、多種多様な人間があつまる。人を集めるときの尺度もちがえば、出身地域もまちまち。
そのような中で、大多数が気のあう人物ならまだいいけれど、そうでない場合もある。
仕事以外の要素で問題がしょうじたとき、どうするか。
「楽しくて仕方がない」「仕事は好きだが、今の環境はよくない」の上位2レベルであれば、こう考える。「仕事をつづけるために、環境をどう変えればいいか、考えていこう」
「仕事は好きではないが、環境はいい」場合、プレッシャは、作業そのものと人間関係の2点となり、かなり重い。そのほかの要素が、判断材料になる。たとえば、給料がいいとか、立地がいい、となれば、それを頼みとして仕事を続けようと考える。人間関係をよくしていこう、と努力するかというと、微妙。その問題をどんなに改善しても、仕事自体はきらいなのだから、意味がない。
「仕事は好きではなく、環境もあまりよくない」上に、人間関係ものしかかってきたら、転職のみちを考えるかもしれない。周囲を改革していく気力はなく、自分自身を動かして、問題を解決しようとする。
「辞めることしか考えられない」なら、転職へ向かうスピードはさらに速くなるだろう。
こう見ていくと、仕事が好きだと感じながら働く人が多い職場ほど、様々な問題が解決へと導かれていく可能性が高いことがわかる。職場として、理想的だ。
*
大事なのは、「好きなことを仕事にしている」の言葉の、意味を取りちがえないようにすること。
べつに、芸術家や小説家、俳優やタレントになる、という大層なことを意味しているのではないのだ。その仕事にはどんな「作業」が必要なのかを知り、その作業を自分が愛せるか、そこで満足度がきまる。作業以外の要素は、仕事に就くまで不明確だが、作業が好きなら、その不明確部分に問題があっても、解決力を持っている。
このことは、できるなら早い時期、学生時代から、ちゃんと理解することが望ましい。
小学校からの教育の継続のなかで、わたしたちは習う。「学校・仕事はつらいもので、その労働があってこその楽しい余暇だ」ということ。
ときどき、進路選びにも、その思想は挟みこまれる。大学での専攻授業よりも、一般教養でならう畑ちがいの授業のほうが楽しい、という状況。わたしもそうだった。
本当をいったら、学部をえらぶときはまさに、「いちばん好きな科目」をえらぶべきだ。「生物学が好きだけど、将来は弁護士になりたいから、法学部にいく」では、本末転倒。「弁護士になりたい」というのと「弁護士の仕事をしたい」というのとでは、まったくちがう。弁護士になれても、そこから先は、弁護士の仕事をしつづけなくてはならない。ずっと、その作業が続くのだ。
「本当に好きなもの」を、人生のうちで、一度だって見失うべきではなかった。けれど、過ぎたことを言ってもしかたない。いま、どんなものを、見失わずに、この身のなかに保っているか。
それを、失わずに、生きたい。
*
「仕事とは、つらいもの」という思想を教えてくれた大人たちを、責めることは、できない。彼らもまた「つらい」環境を抱えながら、仕事をしていた。労働環境に納得がいかないなら、自分から変えていけばいい、と言うのはかんたんだが、現実にその仕事を軸にして生活している人に、それを強いることはできない。