うわさのエレベータ、宇宙へと向かう
たいせつな思い出は、肝心なときに出てこない。
たいせつな思い出が、ある。 思い出は大抵、一人のときの記憶じゃない。だれかと一緒にいる。その相手が一人きりだったら、今だってちょっとは実現可能なんじゃない? 会えればいいわけだし。それが、大勢となると、その同じメンバーなんか絶対集められないし、そもそも、その故意的な感じ、最初に集まったときとはもう動機がちがって、再現不可。人だって、変わっていないわけじゃない。
つまり、もう記憶の奥底にしか存在しない、いつかどこかで見た、四方を古びた壁に囲われた花園みたいなものなんだ。
そんな記憶の話。
***
記憶は、陰でわたしを支える。けれどそれは陰すぎて、その本人を見ることはかなわないのだ。
なにをやっていても、虚無的なきもちになるときがある。誰かを見たり、なにかを聞いたり、物事を知っていくなかで。
なんで自分の人生は、こんなんなのだろう? なんでこうなっちゃったかなあ。
日々、ボロボロになった影みたいに、なんとなく引きずって歩いていた、思い出したくないけど、大切なこと。なぜ、達成できないのだろう? なぜ、人よりできない人間なのだろう。
そんなはずなかったのに。
その責任はすべて自分にある。責任を自分のものとすることで、打開もできるし、解決もできるし、代替案も出てくる。それは、わかっている。そのうえで思うのだ。もっと楽しいはずなのに。
***
楽しくない心の状態のときに、思い出は必要なのに、出てきてくれない。虚脱で全身がつつまれているせいで、それに関連する以外の記憶も気持ちも湧いてこなくなっている。
それで、その谷を乗りこえた翌日の月曜日。悦びも苦しさもなにも感じず、あたまの片隅で今日の仕事の手順をたどりながら、信号まちに、青空に見える光の線みたいなものをぼーっと細目で眺めているうちに、つぎの曲が始まって
そういう人生の一場面もあったのに、なぜ私は今日をここで過ごしているのだろうか
まぶしくなって、車のサンバイザーをおろす。
***
もっと楽しいはずなのに。
そんなこと微塵も考えないで、毎日を必死で生きている人だっているし、それでも生きられなかった人もいるし、その人の家族も、この地上で生きている。
それはもしかしたら、会社のとなりの机の人かもしれない。
そうではないかもしれない。そんな人は本当はひとりもいなくて、みんな「自分の人生がいちばん楽しくなくっちゃ意味ない」と信念をもって、多少ならば周囲の弱い人間を蹴落としてでも、理想の人生を達成するつもりでいるかもしれない。現にそうして生きているかもしれない。
それは、どちらかはわからないし、たぶん心をすべてオープンにしてみたところで不明なのだと思う。わたしにもある。世界一不幸なんじゃないかと思う日と、世界一幸福だと感じる日と、両方が。
ただ、自分のなかでの平均的テンションに入りこんだとき、冷静な目でどちらを目指すか、なのだと思う。「人生は楽しいものであるはずだし、今よりよくする方法が、思いついていないだけで、存在しているはず」と思っている人が一人でも多いほうが、
そっちに生きていたい、とわたしは考えるだろう。
おおげさなことではないのだ。ただ、「人生はこういうもんだ」と、その言葉を諦念とともに使うのは、エレベーターの下ボタンを押すようなもので、ボタンを押すだけの動作だったら、上をえらんだって、いい。