まえのめり

なにをしても、どんなに達成しても、それでいい、ってできない。

自分のことを、自分が、認めない。

もっとできる、って言ってばかりいる。それは、期待、それとも、ただただ認めたくない心?

ほんとうの自分は、理想の自分は、こんなんじゃないって。

こんなんじゃない、はずだったのに、って。

いままでの人生の、どこかで、

いちど、そんな期待を描いた。

こんな自分、そんな自分、思いえがいた人生。

すべての未来が虹色だったころ、その絵が完成し、あとは追いかけるだけでよくなった。

追いかけはじめたとたん、それが、たんなる絵だったと、気づく。

絵なんか、追いかけても、追いついても、意味ないぞ、と周囲に諭されるようになる。おなじように絵を追いかけている若いひとに、意味ないよ、とへいきな顔でいったりする。

歩みを、とめる。

呼吸をするだけになる。

苦も、楽も、おおきなうねりにならないよう、注意をはらいながら、生きるようになる。

死ぬ瞬間、もっと好きに生きればよかった、と思う。でも、まあ、これでいいか、と思う。

すべてを庇護者にゆだねている頃、できるようになることは、無上のよろこびだった。歩くこと、声をだすこと、手をたたくこと。

次第に、複雑なこともできるようになる。むずかしい計算、むずかしい漢字、鶴を折る、さかあがり、工作、ピアノ、すきな人と手をつなぐこと。

人が順当に成長していけば、なんでもできるようになるはず。どうして、とまってしまうのだろう。どうして、諦めるのだろう。どうして、挫折するのだろう?

自転車の練習だって、転んだことが、ないはずないのに。

達成してきた。

いくつものことを達成してきた。その事実があるから、こころの隅に、そのころの思考の癖がついている。

次は、あれをできるように、次は、これをできるように、なろう。

それで、こころはいつでも、まえのめり。まっすぐ立っていられない。

まっすぐ立っていられないのが、地球が回っているせいでなくて、よかった。地球の回転をとめることは、人にはできない。

ほら、進む電車のなかでは、うごきはじめは、進行方向と逆に転びそうになる。けれど、順調にすすむにつれて、進行方向がわにからだを傾けたほうが、姿勢が安定するでしょ。

そんな原理でなくて、よかった。

前のめりになるのは、達成をかさねてきた、証。

まだいける、と自分のことを、信じている。

まだいける、と信じるから、できることがある。挫折は、たった1回の失敗でしかない。くりかえしても、たったその回数の失敗でしかない。挫折なんて名前をつけるから、大袈裟になるんだ。

失敗は、死ではない。まだ、くりかえせることがある。まだ、やりかたを考えられる。考えられること、あるんじゃない?

まずは、大地にまっすぐ立って、空をみあげて。そこから、一から考えてみよう。

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