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脳内にたまった記憶を解放するためにつけた日記(2/14~2/16)
2025.2.14
前回の日記、なんで掃除したくなる話から、本をチラ見した話にいったのか、自分でも忘れていたけれど、それはこういうことだ。
チラ見した本のひとつ、自分を整える系の本に「床を拭き掃除しましょう」というのがあった。
私は今のアパートに去年の秋に引っ越してきた。だから感覚としては冬のひと季節をやっと越えたという感じでいる。
前回、去年の春まで4年間住んでいたアパートは、けっこう新築に近くて、掃除も完璧に行っていた。毎週休みには掃き掃除、雑巾がけ、棚などの水拭きもした。綺麗なところを綺麗にするので、お坊さんみたいな感じだ。
ところが今の住居はぜんぜん掃除をしていなかったことに、はたと気づいた。拭き掃除をした。そうしたら、引き戸のサンのところが、じつは木材に手作業でレーンを彫ってあることに気がついた。
古くて入居前の清掃も行き届かない(行き届けない)場所があったりして、断熱性能は低くて家賃は抑えめだけど光熱費できっちり取り返してきたこの住まいではあるが、この引き戸はこの先もたぶんずっと劣化せず使い続けることができるだろう。最近流行りの石油製品でできた小綺麗な建材とちがって。
床拭き掃除って、世界を緻密にとらえられるようになるんだよな、なんか、脳がそうセットアップされなおす。
***
指先のあかぎれが痛すぎる。爪の左右が割れては修復してを繰り返しているさなか、親指のセンターが今度は裂けてきた。両手じゅんじゅんに。
ラジオで69歳の投稿者が「自分もあかぎれができる歳になって、なくなった母の手を思い出しました」と言っていた。私まだ69の半分くらいなのに。69になったら手が裂けてくるんじゃないだろうか。
手の乾燥は食器洗剤を使うからが主な理由で、カフェという業務をしていることと、お菓子を焼いてたべてもらって日銭を稼いでいることの宿命である。そう思ったら、全然それでもいいかという感じになる。あとは、体内が全体的に乾燥していて、その症状が指先という末端に顕在しているだけかもしれない。腸に難をかかえているということは、体じゅうの粘膜がじつは弱っているのかもしれない、ということが危惧される。それは整体の先生が言っていたことで、たしかにお腹が調子わるいときは、鼻のなかが痛かったり目がかゆくなったりもしている。
(これはトイレ日記ですよ)
そんな私も驚く勿れ、今日はふつうに通便があった。数回に分けてだが、十分な量で、最後は10センチを越えてつながっていた。先週もとても調子がよかった日があったが、なぜか偶然、そのときも今日も金曜の朝だ。
金曜といえば、土日休みの労働者は一週間の仕事の最終日で、開放的な気持ちになって体調も上がるというのは、わかる。しかしサービス業に従事する私は、金曜が月曜みたいな働き方なのだ。
腸、もとい、自律神経のうごきは本当に読めない。読めないが読めないなりに、意識をしたら調子がよくなってきたのは、自律神経との和解の日も近いということか。
喜ばしい、非常に喜ばしい。
体調が改善されて思ったことは、社会で働くというのは、自分の体調との折り合いをつけてからでないと、頓挫するということだ。今の会社は体調(ちょっとした日常のすぐれない感じなど)にも寛容で、遅刻することを許可してもらえた。そのおかげで、私は自律神経と向きあうことができたし、腸のために十分な時間をとれた。
もしこれができなかったら、つまり会社にあわせて、自分のトイレの時間や体調の都合を押し殺して生きていたとしたら、ぐっと体調が崩れたときに、それを働き方のせいにすると思う。「これだからうちの会社は」とか「いまの社会は勤務を優先させて、ひどい時代だ」とか、結局は愚痴にいきつく。
「それであとになって、人のせいにしたり、愚痴を言ったりする。そういう人間を何人も見てきた。おれはそういうのを見るのがあまり好きじゃない」
『ねじまき鳥』の叔父さんは、そう前置きして、「うまくやるコツ」を主人公に教える。上から、こうしたらいいああしたらいい(こんなことも知らないのか)、なんていうふうに自慢げじゃぜんぜんない。こうやって前置きをして、「だからおまえにアドバイスするんだけど…」と、本当は人にアドバイスすることなんて、全アドバイスおこがましい、とわかっている人物なのだ。
2025.2.15
便秘症の人間は、ときどき快便の日があったりすると、翌日はもうあきらめモードになるという癖がある。そんな毎日順調に消化物が流れていってくれるわけがない、今日通りがよいということは明日や明後日はぜったい溜まるはず、と考えるのだ。
それがそれがそれが、なんだか連日で調子がよい。すごく喜ばしいことだ。痛々しい下痢をしない上に、便秘すら解消したら、これって健康というやつじゃないの。
今日もへとへとに疲れて帰ってきた。
退勤時に疲れていると、夕飯のことがぜんぜんうまく考えられない。家に帰ってあるもので済ますのも嫌、スーパー寄って買って帰宅して一から作るのも嫌、スーパーの惣菜だって嫌(っていうか時間的にもうあんまりない)、お店寄って帰るのも店員さんと話すのも嫌。職場の駐車場につくまでに、この思考を4周くらいする。
それで食いしん坊はどうするかというと、まず、手軽に済ますことを考えてスーパーの惣菜にいったん賭ける。ここに何もないとすると、魚肉ソーセージで妥協だ……!というところまで連想してスーパーの鮮魚コーナーにホタルイカが出ているのを見つける。春の妖精、蛍イカ。いいじゃないか風物詩。これと日本酒といきたいが開いている瓶はいま赤ワインだ、合うか?そんなこと気にしない。今夜はホタルイカのペペロンチーノだ。
ついでに菊芋も買う。これを生で食べると、体に染みわたるように美味しい。家にレタスが洗ってあるから見栄えのするサラダができるだろう……連想は楽しいのだがいかんせん、疲れているのである。思考が行動をおおきく引き離して進んでいることに気がつかない。菊芋の泥をしっかり洗うのも億劫になってちょっと土の味がするサラダができた。
でも美味しい。ちゃんとした野菜と、ちゃんとした風物詩。ペペロンチーノはもちろん美味しい。もちろん目はとらない。だって疲れてるんだもん。口に残るだけで毒ではない(はず)。
この疲れはなんだろう。
対処のしかたもよくわからないので(はよ寝ろ)、リビングの電気をつけずにランプだけつけてワインを少しあたためて、パスタとサラダを食べた。それから今日の売れ残りのスコーンも食べる。食いしん坊でよかった。
ラジオの聞き逃し配信をききながら。土曜の朝は「世界の快適音楽セレクション」と決まっている。そして毎週、終わりかけの時間に出勤して車のエンジンをかけて初めてそこで「はっ!今日は快適音楽セレクションの日だった!」と気づき、帰ってきて配信を聞くのである。
この日記は脳内に記憶を保持しないようにして、自分を整えることを目的としている。そのうちに「あれも書こう」「これも書こう」と、その出来事に出会っている最中に日記のことを考えるようになってしまった。そうすると日記を開いてこうして記述しているあいだに思い出せないこともちらほら出てくる。そしてブラウザを閉じたり投稿したあとだったりに「あのことも書こうと思ってたのに〜!」とまた思い出す。
これって脳内記憶保持しちゃってんじゃん。
まあとにかく、クリアに生きたいんだよなー。シンプルに生きたい。ものごとは、私の周囲のものごとは少なくとも、あまりに複雑に絡みあいすぎている。ひとつのことを見つめていられない。一人の人にフォーカスしていられない。本があって漫画があってYouTubeがあって。
そして「コンテンツは消費しきれない」ことに思い至る。私の能力で消費できるだけのちょうどよい分量を、世界は両手にすくって提示してくれたりしない。とにかく押し売りだ。押して押して押しまくる。几帳面な私は、優しい顔をして差し出されたそれらを端から確認していく。むりでしょ、全部見るなんて。ラジオききながら漫画読むなんて。私、マルチ人間じゃないもん全然。マルチといったら農家さんのビニールでしょ。
口のなかの金平糖を、まだ大きいうちに齧ってくだいてみた。こういうの、後生大事に口にとどめて、「味わいつくさねば〜」と強迫観念的に味わってしまうけれど、人間の義務じゃないよねそれって。がりがり食べるのだって、味わい方のひとつだよね。
うちの店長は一粒の金平糖だって、手を止めて丁寧に味わう。偉大な人なんだよな。
***
朝ごはんの記憶が、昔住んでいた街くらいに遠い記憶になっている。
今日すごく美味しい朝食を食べたんだった。いま研究中なのが「食事系マフィン」なのだが、それを知り合いの事業者に提案したら「辛めの挽肉のやつがいい」ということで、昨日もよなよな試作していた。結果とても美味しく、どっしり食べ応えのある、辛くて深みもあって、見た目もまあまあかわいいものが出来上がった。
その肉が残っていたので、ハンバーグにした。ハンバーグは、小麦が食べられなくなる前から、自分ではあまり作ってこなかった。ハンバーグにはパン粉が入っていることが多く、外では食べないようにしている。あのパン粉ってつなぎのためだと思うけど、片栗粉だけでも十分に肉たちはつながってくれた。蕪のスライスも一緒にステーキにしたら、肉汁もろともとろっとろになった。
それからマフィンそのものも食べようと魚焼きグリルに入れたが、ちょっと目を離したすきにこちらは見事に焦げた。あと林檎の切って塩につけたものと、小豆の煮たのがあった。それから昨日帰ってきたら届いていた、旧い友人からのポストカード。
電子化で、あんまり紙のポストカード描かなくなっちゃったけど、これ、一枚あるだけで、なんて幸福で豊かな感じがするんだろう。今朝の朝食には、この一枚の厚紙があったんじゃないんだ。そこに、私に向けて手渡された猫の絵と、猫のようにまるまってぬくぬく眠りたい彼女と、彼女の忙しくも幸福な日常と、いつかまた会って話したい、お酒飲んだり遊びたいといった将来の漠とした、でも手触りや存在感がちゃんとある約束と、それらすべてを私に手渡す道具としての言葉たち。なつかしい、彼女の筆跡。彼女のとなりで幸福に過ごしていた、過去の若い私。その幸福の存在していた事実。
朝食のテーブルには、これが載っていた。
スコーンを焼いて、お店を掃除して、電気をつけて、扉をあけて、オープンのふだを下げて、本をならべる。明るい正午。
しばらく店内を見回っていた、早い時間のお客さんは、じつは社内の別部署の人だった。初めて会った人だ。彼女はリモート業務についているので、東京と台湾とを行き来し、暮らしている。寒い時期はとくに台湾にいるので、2月に上田にくることは珍しいのだとか。
いろんなお話をさせてもらった。まっすぐ目をみて話す話し方、屈折も迷いも翳りもなくて、まなざしが澄んでいて、自信が普段からない私を励ましてくれる。人をしあわせにできる人で、自分が人をしあわせにしているなんて微塵も気づかないタイプの人。
それにしても台湾、うらやましい。実店舗勤務の私には、夢の夢だ。台湾料理がまた食べたいなあ。
2025.2.16
(これはトイレ日記ですよ)
今日は熱めのおならがすごく出て、なんか腸内が発酵されているようだ。昨日はだんぜん疲れて、思考力も完全に粉砕されていたので、夜の10時くらいまで漫画を読みながら金平糖を食べつづけてしまった。そのせいである種の菌たちにとって、いい餌が入ってきた、とでもいうのだろうか。
トイレについてはすごく快腸だ。急にこうなった。私のおなか不調の人生で、ここ1、2年で傾きがものすごくて、もう一生、健全な消化活動はできないだろうと諦めていたから、なんかそういう思い込みってよくないな、って思った。まずは決定的な病気がないかどうか調べること(これはクリニックに相談しただけで5分で結論でて、嫌な検査とか内視鏡とか、そうていしていたものは全くやらなかった)、それから自分が試していない市販薬とか漢方とかないか調べること。
この日記がなんの役に立っているのだろう? 脳内をクリアにすることが、からだによい? 今年は坐禅体験とかをしてみたい。お坊さんの指導で本格的な瞑想を体験してみたい。私のこのいち人体というものが、私が認識しているのとは違うのではないか、それが瞑想によってわかるのではないか、という期待を持っている。
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