世界とどこでつながるか② 人と人と、どこでつながるか
「コミュニケーションが大切」
って言っておけば、なんか、ただしいこと言った、みたいになる。
コミュニケーションが足りない状況であることは、認める。コミュニケーションが足りているグループでは、仕事や作業も、なんとなくうまくいっているように見える。じゃあ、うちもコミュニケーションを円滑にして、状況をよくしていこう。
その考えのみちすじは、漠然としていながらも、生産性を上げたいという目標にむかっている点、評価できる。立派な上司だと、思う。ただ、コミュニケーションのほんとうの役割とは? と、問われれば、即答はむずかしい。
相手に気やすくなれるから、業務でも頼み事しやすくなる? 気分が軽くなって、作業がはかどる? 意思疎通がとれているから、最小のやり取りだけでも、阿吽の呼吸で行動できる?
それもあると思う。
しかしながら、根源的な役割は、もっとべつのところにあると、わたしは考える。「気分」関係ではなく、別のところ。
感情のかかわらない、心の場所。
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ふたりの人がいる。
一方はAだといい、もう一方はBだと主張する。
ふたりとも自分の考えが理想的だと信じているが、Bと言った人の方が経験が浅かったので、Aという意見が採択される。
そこへCだと主張する人が現れる。
Cだといった人は、A、Bを主張した人々より、実績があった。なので、C意見が採択され、A意見は破棄された。
このC意見は、B意見とおなじものだった。
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ふたつの意見が対立しており、さらに、一方が他方よりもあきらかに効果的だとはいえない状況のとき、周囲をとりまく人々は、意見「そのもの」を判断することができない。
そのため、意見を言った「人」の経験や実績から、採用不採用を判断することになる。経験や実績は、その人の行動の全体における、成功率のたかさを示すためだ。
しかし、経験や実績は、意見の正誤を判断するための、手がかりでしかない。今回の意見もまた成功かといえば、それは、やってみないとわからない。
意見そのものを、適切に評価できるヒーロー、どこかにいないものかな~。
若くて経験が浅いから、間違ったことを言うのではない。勤続年数がながくてマンネリ化しているから、老害がある、というものでもない。新しい意見のなかに価値あるものが光り、古い因習のなかにも価値ある習慣がある。
ヒーロー探し……それは、もっともな要求だと思う。しかし、いないんだね、これが。なかなか。
では、A、B、C3つの意見がでそろったとき、どう対処すればよいのか。
もちろん、わたしたちは、歴史からすでに、その方法を学んでいる。
多数決である。
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職場における、ねばり、みたいなもの。元気を吸いとり、疲労感を蓄積させるもの。必要以上の残業を強い、スピード感と生産性をさげるもの。
それは、「習慣性 無力感」だ。
失敗したり、否定されたり、にがい経験をくりかえすことで、人は瞳のかがやきをうしなう。社会や会社など、自分の属するコミュニティを、よくしていこう、という気概をなくす。
どう生きたって同じだろ、と努力をしなくなり、挙句のはてに、残業代めあてのゾンビと化す。
人はゾンビに噛まれることで、みずからもゾンビと化す。ゾンビの人数が増えていき、コミュニティは、頽廃する。
この無力感を、回避する、手段のひとつが、「多数決」。
多人数が賛同する意見ほど、成功率はたかい。はずれても、自分できめた方針なら、納得せざるを得ない。
多数決できめると、そこに個人的な経験や実績、年齢にもとづいた価値がくわわらないから、いい。頭数にたいして一票ずつが、与えられる。
自分の意見が否定されたところで、それは、経験の浅さにたいする低評価では、必ずしもない。結果、よりちいさな無力感で、通過できる。
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「にがい経験なしに、社会は、渡っていけないだろう」
なにを甘いことを……と思ったあなたは、四十代以上の人だ、とわたしは信じる。
社会はだんだんと、そちら側へうごいている気がする。つまり、『北風と太陽』でいうところの、太陽戦略へと。
にがい経験を、ゼロにすることは不可能だ。だとしても、ゼロに近づけるために、1つずつ消していくことに、価値がある。習慣性 無力感を、なるべく削る。それが、コミュニティ全体の価値や、駆動力になるためだ。
厳しく育てるより、褒めて育てるほうが、甘いとかやさしいとか、そういう視点ではなく、結局のところ成果が早いのだ。
近道できそうな場所(個人の努力や、恥をかいて成長して(させて)ゆくこと)ほど、遠回り(無力感が習慣にならないよう、配慮すること)することが、「急がば回れ」の真髄である。
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多数決によって、Aの意見は破棄された。
Aはがっかりしたことだろう。今までの時分のやり方が、否定されたことになる。長年やってきたのに。
しかし、紆余曲折をみた周囲の人間は、こう思う。
長年、なぜ3人で話しあわなかった? なぜ人がいるのに、ひとりでやってきたんだ。なぜ、話題にのぼらなかった。
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これが、コミュニケーションの真の役割である。
二人の人間が寄って思案をかさねたところで、文殊の知恵は得られないのだ。そして、そこにたった一人が加わることで、それは、達成される。
合意形成の過程なのだ。
経験とか実績とか年齢とか、いろいろな尺度で人をはかろうとするけれど、けっきょくのところ、人と人は、同価値であるし、同価値でしかない。同価値だからこそ、その主張もまた同価値であり、どちらが貴重とはいいきれない。
三人が集まれば、対立した二つの意見のうち、どちらがより理想的か、どうやったって判断を下すことができる。1.5票、という票数はない。
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さて、ここに、人と話すのが苦手な人物が、いる。
ほかの人たちが和気あいあいとランチをしていると、消え入りたくなるようなきもちになる人物。出社してから退社するまで、業務に必要なこと以外を、口にする機会はほとんどない。
「親密な人」という存在を、思いうかべてほしい。わたしは、そのような人のことを「共有する思い出が、多い人」と定義している。
プライベートにおけるパートナーだったら、好きなように選び、好きなように思い出をつくればいい。
しかし、会社となると、人間関係は思うとおりにはセッティングできない。
「communication」の語源は、「会話」などではなく、「共有」らしい。コミュニケーションを円滑にしたければ、なにかを共有することになる。それは、会話がいちばん簡単だろうし、会話でなくてもいい。思い出や、同じ釜の飯でもいい。
とある人物は、個人的な会話を共有することはめったにない。だからといって、では、ほかの物事を共有できるかというと。それすらも共有したくない、というのが、その人物のような性格の特徴である。
性格に関することで、努力しろ、とは、わたしは言えない。
ただ、なにかを共有して幸福になった経験がない人なんて、いるんだろうか、と疑問には思う。みんなで、と言わず、三人でも、二人ででも、幸福な思い出があるんじゃないか。きっと、そういう経験がないから、共有したいと思わないのでは、ないと思う。
なにか、共有を拒まなければいられない、悲しい思い出があるのだろうと、そう思う。