ちかめ とおめ 千里眼
さいきん、夕日を見るのがにがてで。
夕日というより、景色全般。山の映える青空も、月ののぼる海辺も。おおきな景色の見方をわすれてしまった、というか。見方なんか、あった覚えもないけど。
景色をみても、映像をとらえられないまま、目をはなして、「今、なにを見たんだっけ」となる。
それが、今日の夕方は、とうとつに捉えることができた。
ようするに、木をみて森をみず。雲のかたちなんかをよぉく観察しようとして、全体をいちどに眺めることをしていなかったのだ。
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「見方をわすれた」と感じるのは、過去との比較。以前は見方を知っていた、という意味。
自分という人間は過去から現在にわたって1人と自覚していても、世界のとらえかたは変化する。
たとえば、子供の頃に「これだから大人はつまらない」と思うことはなかっただろうか。わたしは何度もあった。子供への質問(たとえば「将来はなにになりたい?」とか「すきな教科は?」とか)や、子供からの質問の返答(「おとなになったらわかるよ(留保)」とか)に、おとなはみんな同じことを言う、と思ったし、それがよいわるいとは考えず、ロボットみたいに画一的なのが、どことなく気色わるかったのだ。
さあ、いま自分がおとなの立場にたって、どうだろう? つまらないと思われているかもしれないし、そうでもないかもしれない。どちらにしろ、自分のことを、「これだから大人はつまらない」と判定することができない。その逆だともいうことができない。つまらない質問や答えをしている大人を見ても、その判定ができない。
わたしは、「大人ってつまらない」と感じた当時のわたしの感覚を、すっかりどこかへ降ろして、ここまで歩いてきてしまった。
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わすれてしまった見方は、戻ってくるだろうか。
すくなくとも、景色にかんする見方は、ふとしたことで戻ってきた。
茂木健一郎氏の、意識に関する著書を読んでいた。「人間の目が景色をみようとするとき、焦点が合うのはほんの一部で、建物や、空や、山を順々にみて景色全体を把握する。けれど意識は、その景色全体をいっぺんに記憶した、と認識する(それぞれの箇所を見た記憶をつなぎあわせた感じではなく)。」とあった。
バラバラの写真をつなぎあわせ、1枚1枚の色彩をきれいにならべることで、大きな絵をえがく技法「フォトモザイク」を考えるとわかりやすい。
ぜんたいを見ているときは、1枚1枚の写真はちいさすぎて何が写っているのかわからない。反対に、1枚1枚を見ているときは、全体がなにを表しているのかわからない。
全体を見ることにも、1枚を見ることにも、意味がある。片方の見方しかわからなかったら、フォトモザイクである意味がなくなる。
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景色の見方は、もどってきたから、他のも戻ってくる可能性がある。小学生の感覚は、どうかな。脳内に大人と子供の共存というのは、見た目は子供、頭脳は大人、よりもむずかしそうだ。
でも可能性は捨てたらいけないね。
むしろ、「見方を忘れてしまった」と感じているならいいほうで、そんな見方があったことも忘れてしまうものだ。使わない機能というのはね、人間。
問いを思いつけるなら、解けたも同然、というのと一緒で。
どんなに大切なことでも、過去に知っていたのに、忘れてしまって、その存在していたことすら忘れていることもある。人生のゆたかさを削るというのは、そういう状態のことなのかもしれない。
なにがそれを忘れさせてくるんだろう?
日々の慌ただしさ? 大人としての分別?
そのどちらよりも、自分が大切と思ったことのほうが、ずっと大切だと、わたしは思う。野生の勘は捨てるな、的なね。