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脳内にたまった記憶を解放するためにつけた日記(2/17~2/19)
2025.2.17
仕事がおわってから隣町の温泉まで行ってきた。温泉には広い食堂があって、野菜炒めとご飯をたべた。とりはらみというメニューもあって、鶏のはらみってあんまり聞かないな、と思って調べたら、牛や豚は「横隔膜」のことで、鶏は「腹筋」らへんの部位で、同じ名前でも部位は違うということだった。
鶏には本当に安心感をあたえてもらっている。牛や豚は、家畜といえども同じ哺乳類だ、と考えるとどうしても情が湧く。『約束のネバーランド』を見て、子どもたちが育てられていた理由を知ったとき、スーパーで牛や豚を買うことが気持ちわるくてできなくなった。そんなときも鶏はやさしく助けてくれた。だから私は、卵はできるだけ鶏たちが自由に生きている平飼いの高い卵を選んでいる。高いといったって卵の場合、カフェのコーヒー一杯を上回る値段もあまりない。なるべく多くの鶏たちに、幸せな一生をすごしてもらいたい、そのための投資をする。
食堂でご飯をたべて、少し本を読んだ。近いとはいえ隣町だから、なるべくささっと食べて温泉入って帰らないと遅い時間になってしまうのだが、作ってもらって片付けてもらうこの時間を最大に活用したかった。
本はやはり、まとまった時間をとって集中的に読みたいものだなあ。仕事してるんだし、そうもいかないか〜と思ってしまう人生から抜け出したい。週4休にして、まる2日くらい本のためだけに使えないかな…。
今読んでいる本には「努力しなければできないようなことは、するな。得意なことは努力しなくても自然にうまくなっていく」とあって、私たぶんお菓子作りとかまったく努力してないんだよなー。これが天職なのかなあ、まだわからない。けれど出勤のときも早く出たり、退勤後に焼く練習をしたりして、時間をかけるという意味では努力なんだけど、ちょっと失敗したところをもう一度やるのって、なんか自分でも「努力」だとはあまり感じてないんだよな。「修正」に近いかもしれない。軌道修正して、その結果を見るのが楽しい。
温泉は最高の泉質だった。前回行ったときは、誤って掛けながしの浴槽をスルーし、循環の湯船だけに入ってきてしまった。今回はまちがいなく源泉に入ってきたが、濁りがあって、少し硫黄臭もした。ぬるめだったので、やはりこの源泉だけでは温度・湯量とも立ちゆかないのだろう。
露天風呂では小粒の雪が無数に舞っていた。そうかんたんに春にはなってくれないか。雪見風呂は好きだけど、寒気はきらい。
帰りも30分とかからなかった。やはりこの温泉は近い。
温泉もそうだけど、あたらしい場所やお店に行くのって大切だなあと思う。新しいところへ行くのは少し勇気が必要で「えいやっ」と腰を上げるエネルギーがいる。それで、つい同じ場所にばかり行ってしまうけれど、そこ以上に自分の感性に響く所が、まだ見ぬ場所にあるかもしれない。それを一度きりの人生で見逃すって、なんともいえずもったいないことじゃないか?
そこに相反してくる意見が「贅沢のしすぎじゃない?」というものだ。外食より家で食べたほうが安く済むし、栄養バランスもうまくいく。けれど一緒に働いている大学生の男子は、そんなこと全然気にしてなくて、同級生とかのことを「なんでみんな外で食べたりあまりしないんだろう」と訝っていた。お金がないからじゃないの?と思ったけれど、そのときは彼の「何曜日にはどの店へ食べに行く」的な積極性、流れるようなお金の使い方に、関心しきりでそんな反論思いもしなかった。
おもしろいと思うことがあるなら、なるべく「全部」やったほうがいい。
2025.2.18
陶芸教室、3回目。
陶芸をはじめようと思った理由は、右脳活動がしたかったから。計算ばっかりで直感をぜんぜん育てられてないなと思った。自分の目と脳でそういうことになっているから、手を使ってなにかをしたかった。
粘土を荒練りしてから、とくべつな技法で「菊練り」する。そばを打つときと同じ呼び方だ。練った形跡が、菊のはなびらのような形で増えていくからだろう。
手回しろくろに粘土が中央にくるようしっかり据えつけて、中央を指で窪ませていく。意外と原始的な技法なのだなと思った。紐状の粘土を積み上げるとか、独特の方法をとるのかと思っていた。この形でスタートする整形方法を「玉つくり」という。粘土の玉から、湯呑みや茶碗が形づくられていく。
けっこう無骨に整形するだけ。ここから、木べらや湾曲をつけた木の道具で、表面をつるりと均していく。指のあとがついているようでは不恰好だし、かといって指のあとが全部消えるよう指でととのえていくのは、不恰好に味気なさを足すようなものだ。たしかに道具をつかえば、人間の手よりずっと工業製品らしさがでてくる。
粘土をこねていて思ったのは、陶芸の歴史でいちばん大事だったのは、手早くきれいに形作ることだったのではないかということだ。時間をかければいいものはできる。けれど現代のように製品が無限にお店にある状態でないなら、早く次の人に茶碗を作ってあげなければならない。そのとき、指で丁寧につくるとか、造形を工夫するとか以前に、速く美しく整形や絵付けをすることだったんだろうな、と勝手に思っている。
というのも私が陶芸を始めたのは、なるべく「頭をつかわない」ことが目的だったからだ。村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』で、主人公の叔父が「考えるな、計算するな」とアドバイスしてくることは何度も紹介したが、いま読んでいる『タイランド』という短編にも同じようなフレーズが出てきた。「完璧に頭をつかわない休暇」という意味の言葉。
頭をつかえばなんでもうまくいくと、私たちはなんだか信じている。どうして信じているんだろう? 頭を使わなければ、盲目的だという。けれど世間に見えている人々が、その人の内面でどれくらい頭をつかっているか、見えている? すごく考えているようでいて、その人はなんにも考えていないかもしれない。ぜんぜん考えていないようでいて、すごく思慮深いかもしれない。星野源さんがまだミュージシャンになる前に歌をつくってみんなの前で歌ったら、前列のお客さんが泣いていて「こんな簡単なことで感動してくれるんだ」と思ったというエピソードも、どこかで聞いた。
そうやって、なにも考えない方が、ことがうまく運ぶ気がするんだ。「本当にやりたいことはなんなのか」なんて、考えれば考えるほどわからなくなって、本当は考えることを、息を止めるみたいに「止める」ことが必要なんじゃないかと思う。それで陶芸も、どんな形にしたらいいかなと迷ったら、とりあえず手に聞くようにしてみた。私の手は骨ばっていて手首は細くて、奇跡のように手早く粘土をこねて立ち上げる先生の厚みと実在感のある手からしたら、全然頼りないのだけれど、それもそのはず、頭をつかってばかりの人生で、手のことなんかぜんぜんかえりみてやれてなかったのだから。
少しずつ、育てていく。
2025.2.19
ぜんぜん日記を書く時間がない。
この日記も、早く休日出勤しようと決めていた決意を折ってまで書いている。仕事は1分前に着くし、帰ってきて家事や食事をしているだけで寝る時間になる。睡眠も削りたくないし、食事もおざなりにしたくない。出かける時間もつくりたい。本を読むための時間なんか、無限にあったって、本の方も無限にあるからすぐに追いつかれ、追い越される。
しかも、もっとちゃんと睡眠取りたい、早く起きて朝活したい、食事も丁寧につくりたいし初めての料理もチャレンジしたい、それと一緒にお酒も飲みたい、ワインの勉強もしたい、陶芸の勉強もしたい。釉薬なんて無限沼だ。そんななかで作家のあの、一様ながらにすべてがスタイリッシュな作品群を見ていると、よのなかの全ての技法を試して結論を出しているのでは決してないんだろうなと思う。目の前に偶然並べられたいくつかのものの中から、自分が好きなものを選んでいるんだろうな。そういうの、子供の頃から苦手だ。すべての選択肢をいったん確認してからじゃないと決められない。ファミレスのメニューも取りこぼしなく読んでから、一番を決める。
この生き方がじつは「不器用な生き方」なんだって。そういうことか。
***
今日はどんな一日だったかというと、朝7時に職場にいってグルテンフリー焼き菓子研究を進めて、9時ごろに先週終わらなかった作業系の仕事をして、お昼まえには終わらせて、ひさしぶりに上田からしなの鉄道をつかって長野まで行って、駅ナカの日本酒のみくらべセットを立ち飲みして、明るいうちに上田にもどって、ちょうど酔いがさめたタイミングでカフェでコーヒーを飲みながら積読を消化する
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