情報の波にのれ とまらないならぜんぶ呑め
情報化社会といわれて久しいが、んなもん、ホントに今に始まったことなのか?と思う。人類は、
手紙ができたとき、思索の糸をきられた
新聞ができたとき、社会情勢の波にのみこまれた
電話ができたとき、通話の波にのみこまれた
ポケベルができたとき、都合の波にのみこまれた
携帯電話ができたとき、隠れがをうしなった
人類が人類たる以前はどうだったかっていうと、想像するにもっとひどいことが起きた。
視覚ができたとき、色彩に圧倒された
聴覚ができたとき、静寂の安寧をうしなった
両足でたちあがったとき、さらに広範囲な活動をしいられた。なにがそれを強いたかはわからないが、たぶん空腹と好奇心だったのではないかとわたしは予想している。
あらゆる物事は情報だ。人間の脳が摂りこめるのは、活字におきかえられた情報だけではない。色も、かたちも、動きも、においも、音も。かつて潜りぬけてきた歴史的転換点をさしおいて、なにが、高度情報社会だ、と思う。
それだけじゃない、インターネットの普及によって、物質的な「物」にたよらない情報のやりとりができる、それが現代の特異な部分だ、という人もいるかもしれないが、それは紙やインクや、情報を媒介する側の不幸であって、情報そのものはなんの影響もうけていない。
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情報量はなにも変わっていないと、わたしは思う。
ネットでなんでもさくさく検索できて、どんどんあらたな知識が入ってくる。だが同時に、摂りこめなくなった情報も、かならずある。
手にかんじる本の重みは本の厚みによってさまざまだった。手紙を書くときには、紙もペンも自分でえらんだ。電車内でおおぜいのサラリーパーソンが新聞をめくるときの湧きあがるような音もあった。
だがこれらの音やら感覚やらは、摂りこまなくたってどうってことはないのだ。問題は2つある。
1つは、脳の容量に限界があるということ。
もう1つは、自分の摂りこみたい情報を摂りこめているか、ということ。
そして、問題点ではないが、脳が提示する条件なら、もう1つある、と気づいた方はいるだろうか。
脳は、入ってくる情報を自力でとめることができない。
俗にいう「集中できない」という状態である。
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これら3つの条件をもとに、わたしたちが解くべき命題は
「限りあるストレージに、必要な情報を、効率よくあつめるには?」
である。そしてその答えとは
「怒りや悩みや悲しみをぐるぐると考えて、集中できずにいる脳を、べつの情報で上書きする」
マインドフルネスだって、心をからに、とはいうが、実際は空白の情報を上書きしているにすぎないんじゃないか、とわたしは疑っている。コンピュータと一緒だ。逆。コンピュータが人間にそっくり。人間の代わりになるようにつくられたのだから、そっくりで当然だ。
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そんな簡単にいう、って思ったでしょ。
わたしもそう思う。