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脳内にたまった記憶を解放するためにつけた日記(12/28〜12/30)

2024.12.28

スタバで注文をまちがえられてしまった。ぜんぜんいいですよ、と言った。実際、ぜんぜんよかった。コーヒーとロールケーキが明日になってしまってもよかった。日記を書くためにここにいるのだから。
一回も提供をまちがえなかった今日の私も、ここにいる。自分すごい。

どんなところがすごいんだろう? 間違えを起こさなかったことが? エラーしなかったところが? コンピュータはエラーをしないけれど、コンピュータと友達になりたいって人は多くないような。エラーをしなかった私は、へとへとになって洗い物をかたづけていた。

今日は散々な目にあった。これを散々というのだろうか。まず、雪が降っていた。朝は、水色の空が本当にうすーく淡ーく見えているほか、景色は真っ白で、高台の家からみえる家々の屋根も三角とか台形とかにまっしろになっていた。
夜中、何度も起きたような気がする。昨日は寝つきはわるくなかったんだけど。それが日記をつけた効果だと、すごくいいんだけど。
脳内にたまってしまった情報が、余分だってこともある。いろいろ暗記するのってすばらしい、って人々は言うけれど。とくに受験の頃とかそうだったじゃん。それに、認知症で忘れちゃうのだって。マイナスに言われる。
たまったそれらの情報を、どれくらい使う予定かってことなんだ。いや、予定じゃないんだ、人生は。

なにも頭にうかばなくったっていいんだよ、抹茶ロールケーキ食べてるときくらい。
スタバでただしい注文の品を持ってきてもらった。一緒に、新作ケーキの試食も持ってきてくれたのに、それは小麦を含むものだった。丁重にお断りする。持ってかえってもらうのも心苦しくなる。
ケーキの味がしない。匂いもよくわからない。食感だけで食べている。ほんとうに色々の味を感じることができない。眠い。でも、帰ってもきっとまた寝つきがわるい。悲しい。
ケーキはふわふわしていた。

眠れないからディカフェを頼んで、それで抹茶ケーキってどうなの。

父は筋金入りの不眠症だった。フルタイムの仕事をリタイアしてからは軽くなったようだが、朝はずっと苦手らしい。
実家に住んでいた三十歳まで、私も血筋的に夜型なんだろうな、と思いこんでいた。睡眠障害はまったくなかった。家を出て一人暮らしを始めて、朝5時半とかに起きるようになって、そのうち目覚ましを使わないようになって、朝ランするようになって、朝すれちがう犬たちと仲良くなった。血筋は関係なかった。

朝方か夜型か、どちらにも利点があって欠点がある。
自分がどちらに所属したいか、という問題のほうがずっと重大だ。母は農家の出身で、朝方を自称し、どんな季節にも起きたらすぐに窓を開けはなして換気する、きらきらタイプの朝方だった。家庭という船漕ぎにまったく参画せず、お金だけを稼いでくる父のことを子供の私は軽蔑していた。母といる時間のほうが長かったせいで、母の意見に傾倒したむきもあった。夫婦どちらにも言い分はある、とわかってきたのは大人になってからだ。
だから、私自身は母に似て朝方でいたかった。そうでありながら夜型から抜け出せない自分のことを、嫌っていた。
朝方になれた自分のことを、誇りに思うようになった。けれど、一緒に働いている人たちは夜型だったりして、夜いろんな本を読んだり動画を見たりして、朝はゆっくり起き出して朝食は食べなくて、昼に働いて、夜の時間を楽しむのだって、またひとつの濃い生き方だなあと思う。

起きたら真っ白だった景色のどこが散々だったんだと思われるかもしれない。それは美しかった。
ところが雪が降っていると、外に出るのも車を運転するのも、なんであんなにやりにくいんだろう。花束を巻くメッシュの紙につつまれたように、身動きがぎこちなくなる。そんななか、仕事で必要なものを買い出しにいったら、どの店も長蛇の列だった。
そうか今日から年末休みにみんな入るんだ、それはもう少し手前で気づくべき事項だった。
たかがコピー用紙が手に入らないなんて。三店舗をまわってやっと買えた。

ムーミンを読んでいない日は、うまく日記が書けない。
それでも、一緒に働くスタッフは、なんだか毎日やさしい。
へとへとになる前に、ちゃんと自分にやさしくできたらいいのに私も。


ひどい文章だ。
しかもムーミンのせいにしたりしている(読まなかった自分のせいだけど)。
益田ミリは「フィクション」と「ノンフィクション」のちがいが大人になってもなかなか覚えられなかったと書いていたけれど、私は「自意識」の意味がなかなか入ってこなかった。なんでだろう、自意識の中にしか、住んでいなかったからかもしれない。

反対の「他意識」というのを考えてみる。
自分の中で「他意識」によって世界をのぞいてみる、ということが果たしてできるのだろうか? 自分の視点、自分の思考を入れずに? 

2024.12.29

晴々とした日。日差しがつよい。布団を干したい。
真冬の晴れはほんとうによい。思い残すことがなにもない。2024年が、そう思っているにちがいない。あと3日間。人生あと3日間しかないけど、人生でやるべきことはぜんぶやりきりましたよ、とね。

おととい、初めて日記を公開した。
とにかくお腹をこわしたくなくて、そのために自律神経のバランスをとることが重要だと、自分のなかで結論をだした。自律神経を整えるために、風呂と呼吸でリラックスして、さらに脳内会話が多すぎるのも世界が騒がしい原因のひとつなので、それらをはきだすために、日記を始めた。
公開しなくても日記は日記として成立するけれど、今は、公開したほうがなにかが起こる気がしたのだ。公開しなければ何も起こらないけれど、公開すれば、何かが起こるか何も起こらないかのどちらかになる。

そうしたら、数分後、一人の方が日記を買ってくださった。私の日記は300円で売れた。
そんなことが人生で起こるんだな、と思った。そしたら今度は自意識がでてきた。ここまで大きく顔をだしてきたのは、なんだか久しぶりだな。いちばん顔が大きかったのって、中学の頃だろうか。いや、小学校の頃からだいぶひどく大きかった。働くようになってから、なるべく小さく見せることには成功してきたと思う。
でもそれだと今度は自分自身があっぷあっぷするようになってしまった。

ムーミンを読んでから、家に帰った。
「たのしいムーミン一家」には、黒豹にのって世界を駆けめぐり、おそろしい魔術を使う「飛行おに」や、大きなうすのろの怪物で、歩いたあとがぜんぶ凍ってしまう「モラン」、うつろな目で見つめてくるだけで口が聞けない、仲間どうしたくさん集まってくる「ニョロニョロ」など、こわいキャラクターが多く出てくる。

そういう怖いキャラクターたちがムーミン一家に近づいてきたり、噂ばなしをするシーンで、私はこわさにお腹のあたりがヒョッとなる。
雨降りでみんな機嫌がわるくなって、お互いにイラついて口げんかしたり悪さのしかえしをしたりするシーンも、ヒョッとなる。このあと怖い怪物に◯◯◯されてしまうのか。喧嘩した二人は◯◯◯というところまでいってしまうのか。
◯◯◯のところを具体的に考えるわけではない。予期をするのだ。後戻りできないすごくひどいことが、このあと起こるのではないかと恐れて、本を閉じたい気持ちにすらなる。
それが、私がこの現実世界にたいして抱いているベースの気持ちなのだと思う。安全が確認されるまでは、動きたくない。基本、動かなければわるいことはなにも起こらないだろう、と信じている。変化がこわい、というよりは、自分が変化を起こすことの方をこわいと思っている。

そんな考え方をする自分が、好きじゃない。
そして、ムーミン谷で◯◯◯や◯◯◯が起こることも、やっぱりありえない。どんなトラブルのあとでも、みんながしあわせになって大団円するに決まっている。
現実世界もそんなふうだ、と信じて平気で生きていられる人に、私はなりたいのだと思う。

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