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映画館 〜自分の世界の閉ざしかた〜

映画を最後に観たのは、いつですか

 映画館で映画を見た。昨日。それより前に行ったのは去年の2月頃だから、ちょうど1年ぶりくらいだ。その前はさらに遠く、記憶もない。いちばん映画館に通っていたのは高校時代で、暇とお金があれば同級生と連れだって、それでも年に2、3本くらい。
 その地元の映画館も、去年ついに閉館した。シネマコンプレックス型のわりと新しい、平成の映画館だった。動画配信サービスが充実する時代、これは自然の流れなのかも。高校当時、映画1本はサービスデイ+学割で1,000円くらいだったのが、今ではノーマルで2,000円。思い出のある映画館とはいえ、大人になってからは滅多に足を運ばず、思い入れはなかったので、閉館記念イベントに行くことすらなかった。
 おととい、ふと「映画館に行こう」と思い立ったのには、複数の理由があった。ひとつは、音声配信サービスvoicyで私がフォローしている「名もなき読書家」さんの言葉があったこと。ふたつめは、仕事脳が完成されつつあるなという危惧。みっつめは、非日常の体験をしたかったから。よっつめに、見たいと思っていた映画をまだ見ていないことに気づいたからだ。

映画館を楽しむ文化人

 「名もなき読書館」さんは、読んだ本の紹介をvoicyで発信している人だ。voicyでは様々なパーソナリティのチャンネルをラジオのような形式で聴くことができ、私は家事をしている最中などによくかけている。パーソナリティによって、いろんな分野のプロが自らの知恵を語ったり、地方移住の様子を発信したり、はたまた発達障害など過去の経験の回復談などを語っていたりと、普通のラジオでは流れてこない特異な話が出てくるので、突出した内容がとても興味深い。「名もなき読書家」さんは、本紹介の面白さもさることながら、その傍流にある彼女の日常を、関西のツッコミ力満載で軽快に語っていくところがめちゃくちゃ小気味良い。さらに時々、良い暮らしをするという目的において「その視点はなかった!」というポイントを教えてもらえるのだ。たとえば、旅ではなく日常でいいホテルに泊まってホテル滞在自体を楽しむとか、パジャマや寝具をおざなりに選ばずにシルクで揃えて、人生の3分の1を占める睡眠の快適さを追求するとか。超高級な暮らしでなくても、超高級な気分で暮らすことができるということを知った。
 その放送のなかで出てきたのが「月1映画館」という企画。これは、多忙な日常でも、月に1回くらいは映画館で映画を楽しむ時間をもつ、という彼女自身の目標だ。達成される月もあればされない月もあって、放送では映画の感想や、もしくは月1が達成できなかったことも率直に語る。
 本を読む、ということの目的は、字を追うことや情報を得ることでは決してない。その目的ーー言葉にならない目的、感動とか人生の機微とかいうものを、映画によっても得ることができる。しかも、真っ暗な空間のなかでスクリーンだけに集中する。そのことがとても幸福なことのように、私には聞こえた。けれど、この話をきいていいなあと思ってから一年程、私は、一度でも映画館にいくだとか具体的行動に移すことはなかった。いいなあ、と思っただけだった。

仕事ができることの功罪

 ふたつめの、仕事脳が完成されつつあるという危惧、について。現在の職場で働くようになってはや8年。最近ではルーティンワークはもちろん、突発的なトラブルに対してもドキドキしたり不安になったりすることが少なくなった。仕事に慣れた、それ自体はいいことのように思える。しかし、恐ろしいほどに手順慣れしてしまっている。そして問題は、プライベートな日常生活にもその手順を応用するようになったという点だ。
 たとえば食事ひとつにしても、最短のレシピはこれで、そのレシピを最短で作って食べるにはこの手順、といった具合である。忙しい日々に時間を生み出すための時短術を使うことは大切だが、日々の生活まで仕事のように「こなし」ていたら、生活そのもの、生きることそのものを楽しむ余裕は消えていく。そして、連休で旅行に行ったりするその数日間だけが自分にとっての「余暇」になり、それ以外の時間を「義務」とみなしがちになる。これでは、生きていてつまらない。
 食事は、食べることそのものが喜びでありたい、というのが私のスタンスである。美味しくあり、栄養が満載されていて、目で見て楽しいもの。それを達成するためには、もしかしたら、最短のレシピより手間がかかったり、買い物を多くしなくてはいけないこともある。しかし、それを時間や費用の無駄だからといって「省略」することは、人生の喜びの省略でもある。
 最短の食事と、自分が満足するような様々な要素を盛りだくさんにした食事と、どこがちがうのかというと、とどのつまり「不要不急」に行き着く。食事は生命活動を維持するため、という割り切りがあるかないか。不要不急のものがなくても、人は生きていけるが、はたしてそれは楽しいか。楽しくない人生で、生きたいという気持ちは生まれるか。死ぬ間際になって、生きた、という気持ちは生まれるか。
 映画館はまさに「不要不急」だ。速くすませるなら配信動画を倍速で再生したらいいし、家でなら移動時間もなく、スマホをチェックしながら見られるし、映画を流しながら家事をすれば一石二鳥だし。そもそもの話、物語を人生に取り入れなくたって、全然問題なく生きていける。映画館は、真逆の存在だ。見る速度は変えられないし、真っ暗な部屋でスマホを開くのはマナー違反になるし、自分に与えられたたった一つのシートに座って、観覧以外の行動を制限されてじっとしていなくてはいけない。
 仕事で仕事脳を駆使するのと正反対の、役にも立たないことに脳を使う状態に自分を追い込む方法として、映画館はぴったりだと思ったのだ。

日常から逃れるひとつの方法

 みっつめの、非日常の体験がしたかったからというのは、日常がだんだん平らに見えてきたことに端を発する。「非日常の体験」という表現が商業の世界において多様されるのは、求めている人が多いということだと思う。それは同時に、日常に埋もれに埋もれて空が見えない、という人間がいかに多いかということも示している。
 私が言う「日常に埋もれた状態」というのは、こうだ。人は成長するにつれて、人生経験のステージが上がっていく。最初はお小遣いをもらわなくてはいけなかったのが、アルバイトをするようになってお金を得、社会人になって初任給を得、会社での業績や自分の起業でもって収入が上がる。そしてそれぞれのステージで自分の財力において可能なかぎりの消費活動をし新規の体験をする。
 ところが、多くの消費財は「よりいいもの」が永遠と上に積み重なっていて限りがない。美味しいレストランには、上には上がある。ジュエリーにも車にも旅行体験にも、上には上がある。そのことに気づくと、即物的な消費財の上の上を追いかけることの無理さと無意味さを悟ってしまう。まるで、世界に凹凸がなくまっ平らになってしまったかのよう。そうすると、世界のどこを目印に、どこをどう観察したらいいのかがわからなくなる。
 そこで、自分の日常から、自分をいったん切り離す必要がある。「平ら」に見えたとしても、実際の世界はおそらく違って、上にも下にも、平面的にも世界は広大に拡がっている。けれど自分が知らないことは知りようがないので、無知なままに諦念だけを抱く状態に陥っているだけなのだ。たとえるなら「水が干上がりかけた井の中の蛙」。無味乾燥な世界を、世界の全てだと思いこむ。客観的にみたら酷い状態だ。
 そこで、やはり強制的に、自分の日常の外へ「閉じ込める」作業が必要であり、映画館はもってこいの場所なのだ。家のPCで映画を見ても、日常離れした映画の世界観は入ってくるかもしれないが、その視聴体験はあくまで自分の日常の中の出来事にすぎない。映画館は、ここが違う。

見たいという発言は「見る予定ない」と一緒

 よっつめの「見たいと思いながらまだ見ていなかった映画」というのは、ジブリ最新作『君たちはどう生きるか』。公開が昨年夏だから、もうやっていないかもとなかば諦めて検索したら、超ロングラン、近場のTOHOシネマズでまだやっていた。映画館にめったに行かないので、これがロングランなのか普通なのかすらわからないが。
 ジブリ作品は千と千尋までを子供時代に見た。それ以前の作品は金曜ロードショーで、それ以降の作品は見ていないに等しい。テレビでやっていたらちらっと見るけれど、テレビの前に陣取って見たりはしない。それじゃあなぜ今回、『君たち』はこんなに気になっているのかといえば「自分はどう生きるか」まったく定まらない現状に、私があるからである。
 作品を見てひとつわかったことは、人間は「自分の人生経験のすべてをもって、目の前のものを見、分析し、判断している」ということ。どんな人も物も状況も、それそのもの自体では善悪は決まっていない。見る側の人間が、私が、その状況を、善だとか悪だとか判断している。そして、どんな判断も等価に尊い。なぜなら、世界上のありとあらゆる経験をした存在は、この世に存在しない。人からみたら誤った判断であっても、その人の中では最善の判断なのだ。では、より多くの経験を積むよう努力する義務があるのでは?とは、ならないと私は思う。なぜなら、どんな経験も偶然を介しているからだ。その貴重な経験ができることは、生まれた家庭環境、地域、友人関係といった外部のものから、身体的特徴や性格、思考の癖、ストレス耐性など個人の内的な要素まで、さまざまに絡み合った経路が、その経験の入り口へとつながっていたからなのだ。一方で、より多くの経験を積みたい、と願うのだったら、能動的に動くことは大いに意義があると思う。
 「自分がどう生きるか」は、映画を見ても定まらなかった。けれど、今の自分のありとあらゆる経験と知識をもって「今なにも定まらずにいる」というこの状態が、今の自分がとれる最善の状態だ、ということは、教わった。この映画を見て、本当によかった。
 そして「見ていない映画があった」の、もうひとつの意味として、映画の見逃しをしたくなかったということ。「あの映画、おもしろそうで見たいと思ってたのに、まだ見てない〜」という場合、少し経ってテレビや配信で放映されても、そのときの期待値はすでに低くなっている。「おもしろそう!」と思った瞬間にそれを取りにいかないのは、人生の無駄遣いだ。強烈にお腹がすいている時に、目の前のおにぎりを食べず明日の朝ごはんにとっておいて空腹のまま寝るようなものだ。私はもう、おもしろそうなものを先延ばしにするのは金輪際やめる!

2024年の目標がおもわぬ方向へ

 以上の経緯により、2024年の私の目標は、名もなき読書家さんにあやかって「月1映画館」に決定した。一昨日昨日今日で決定する決意、この即物的な感じがなんとも自分らしいし、実利がない目標がなんとも愉快だ。シネマイレージクラブ会員にもなった。2,000円の映画を12ヶ月見続けると単純に24,000円だが、会員日や割引日を駆使すれば、年会費500円程度を差し引いても10,000円ほどお得になる(こういう計算で仕事脳は即座に活躍してくれ、とてもよい面もある)。断っておくが、私はTOHOシネマズの回し者では決してない。近所に他に映画館がないというだけだ。小規模映画館がなくなりつつある中で、財力ある大手シネコンが単体では赤字となろう地方都市に最新映画を提供してくれることは、とてもありがたい(面もある)。
 目下のところ、次は2月公開のムロツヨシさん主演『身代わり忠臣蔵』が狙いだ。日本史苦手→突然の中山道フリーク→江戸時代趣味フェーズに入った私である。江戸時代に実際に起きた「赤穂浪士討ち入り」事件をベースとした、時代を超えてオマージュされまくってきた『忠臣蔵』、その最最最新作に期待しないわけにはいかない。天下太平の、江戸時代。料理やお菓子などの食べ物も、浮世絵や読み物などの出版物も、歌舞伎や落語などの演芸も、庶民の旅行ブームも、どれもこれも、それそのものが「美味しい・楽しい・美しい・オシャレ・意味深い・スカッとする」といった刺激の強さを競って増していった時代。生きるのがおもしろくってなんぼ、の世界観のもとで、忠臣蔵のギャグ化は歴史の冒涜などでは決してない。むしろ系譜の最先端なのだ。
 というか、『身代わり忠臣蔵』を見たいがためにこれまでの弁解をして、来月も映画館に行こうという魂胆の布石を打っただけだったのかもしれない。私は。自分を映画館に閉じ込めて、シリアス側の自分を解放しようと、自由側の自分が画策している。

 映画館。いいところだなあ。高校時代に通った映画館の閉館がきまってから一度も行かなかったことを、ここにきて少し後悔した。




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