僻みの研究
たいていの人はやさしいから、あるいは、やさしさを知っているから、人がやさしさを受けた状態を、もとめてしまう。
原因なんか、どんなふうにだって付けられる。幼少期の経験も、今の仕事や人間関係も、悪魔付きだって、歯痛だって、低気圧だって、勉強してこなかった後悔だって、遊んでこなかった後悔だって、となりの家の子供の泣き声だって、なんだっていい。
他人に、やさしい状態でいてほしい。他人に、だれかにやさしくされている状態でいてほしい。そうすれば、自分がそういう状態でなくても、孤独でも、少しばかりつらい状態でも、その他人を見ているだけで自分もまたやさしい状態な気がするんだ。
ミラーニューロンとかの関係、だろうか。他人がおいしい物を食べているのを見ると、自分が食べている感覚におちいる、その原因となる神経細胞のことね。
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①僻みの定義
僻み
さて読めるだろうか。私は書くまで読めなかった。ひがみ。
「君はしあわせでいいよなぁ。僕はこんなにふしあわせなのに」
端的にいうとこういうやつだ。平等でありたいという希望。そして、自分側のふしあわせの原因が、相手のしあわせにあると考えること。直接に原因だとは思っていなくても、比較した結果、不平等であり、自分は損をしている。なのでふしあわせの原因は相手にある、と思うこと。
②僻みの原因
ふしあわせ、そのものの原因はさきに書いたとおり無数に存在する。歯痛なら、歯医者で治さないことや、歯磨きしないことや、夜中に甘いものを食べることや、祈祷をしないことなどが原因。
そこを比べられて、いいよなぁ、と言われたってどうにもできん。あたしゃ歯は生まれつき健康的なんだよ。
僻みの原因は、直接の原因とは、ほぼ関係がない。
③僻む理由
ふしあわせである理由は、行動を起こさないこと、あるいは、起こしてしまったこと、などによる。その人に関係する絶対的な条件が存在し、それが、ふしあわせである理由だ。
しかし、僻みの場合は、比較がキーワードになる。歯痛なら、自分も相手も同程度の虫歯であれば、僻むことはできない。比較し、差があることが、問題とされる。2人とも虫歯なら、むしろ全体としての幸福度は上がると捉える。とても相対的な感覚なのだ。
「人と比べても意味なんてないよ」使い古されたフレーズも、内容に意味があるからこそ、だろう。実際、人と比べた結果としての幸福は、どこか空虚だ。今くらべている人以外にも、人はごまんといて、その中で自分が幸福であるとは限らない。
それでも、つい比べちゃう、といえばそれまでだけど。
僻む理由は、やはり、ウソっぽいけど「自分がふしあわせでいたい」という欲求からくるのではないか、と私は思う。アドラー的だね。
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④ふしあわせでいたい理由
それこそが知りたい所。人のこころの話だから、仮説以上のなにものにもなれないけど、わたしの仮説はこうだね。
たいていの人はやさしいから、他人がやさしさを受けている状態であってほしい。とくに、家族や友人や親しい人には、そういう状態でいてほしい。
しかし何らかの理由で、自分に身近なだれかが、つねに、やさしさを受けない状態で生きていたとする。自分はそれを見ながら育ったとする。それを、悲しいなあと思いながら育つ。
そういうことを感じる人は、たいていはやさしいから、人々は平等であれと願う。
だから、その、やさしさを受けずに生きている人と、同程度の不幸を、自分にも与えてほしい、と願う。その不幸をもとめる感覚は、平等にしたいと願ったその相手と別々に生きるようになったあとも、続く。
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⑤ふしあわせからの抜けだし
幸福は比較じゃない、と何度いわれようとも、人がひしめきあうように生きている地上では、その感覚から抜けだすのはむしろ修行をかさねて「解脱できた」ようなもので、俗人にはむずかしい所もある。
比較しては、これではだめだと思い、またしばらくして、比較して……
一方で、世界は「比較」だけで成りたっているわけじゃない。比較ではない「絶対」の部分がかならずある。だれもが、持っている。むしろ、比較しているもの、それ自体を、比較ではない場所へ持ちだすこともできる。
たとえば、わたしがこのnoteを書きはじめたとき、わたしの信念はこれだった。「助けをまってる人がいて、答えをもってる人がいる」。人を助けた直後だった。ものすごく感謝されたけど、わたしにしてみれば、日常的にしている方法を伝えただけだった。歯磨きするときは歯ブラシをつかうといいよ、程度のかんたんな話だった。
答えを求めて苦難をかさねている人の、その答えが、べつの人にとってはなんてこともない、水をコップ一杯あげるようなお安い御用であることも、あるんだとわかった。
わたしが持っている、なんてこともない水一杯が、だれかにとっての今日を生きる糧かもしれないとわかった。
だから、書きはじめた。直後にだれも読まなくても、求めている人が求めているときに出会うかもしれない文章になれるなら、なんだっていいと書きためてきた。
だから、最初に「スキ」がついたとき、ものすごく驚いたし、うれしかった。
その後のことは、もう想像がつくよね。
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べつの人のnoteも読むようになって、スキが2桁も3桁もついている人がいて、わたしは書くのをやめようと思った。
じゃあ、どうやって今日の分をしたためているかって?
比較しなくなったんじゃない。そんな、解脱をちゃっちゃとできたら、最澄も空海も道元もキリストもムハンマドも必要なかった。
わたしはこれから先も、比較することと、絶対的な価値とをもとめ、そのあいだを揺れながら生きていくんだろうと思う。今までとちがうのは、「絶対的な価値をいつも持っている人は、いいなぁ」と思わなくなったことだ。
わたしにも、それがある。スキの数は2桁も3桁もないけれど、その1回の星を投票できるのは、それぞれが、世界でたった1人のその人だけ。それを、相対的な価値だなんて、だれが言える?
1つだって、驚いたのに。
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⑥僻みから、やすらぎへ
物が1つのときは落ちついて観察できるとしても、同じものがたくさんあると、1つ2つ3つ、と数で処理しようとするのは、脳の自然なはたらきなんだと思う。特徴が同じなのに、1つ1つを観察しているほど、人生の時間はながくない。
比べてみて、おなじようなら、数がわかればいい。
比べてみて、ちがうようなら、平等にしたい。
そういう自然に起こる機能が、脳にあるのと同時に、脳と心の分離ということも起こっている。とある本に「脳にだまされちゃいけません」という記述があって、驚いた。脳はわたし自身、と信じていたから。
そもそも、生存戦略だけを考えるなら、脳だけあれば十分で、心は必要なかった。計算ができれば、生存できるのだから。それでも人が心を持つようになったのには、なにか理由があったにちがいない。それも、かなり切実な理由。だって洞窟の生き物は目が退化している。そのくらい生命というのは、必要のない機能には容赦なく、エネルギーを遮断する。
心のことを、わたし自身、と思ったことは今まであまりなかった。しかし「人に、やさしさを受けた状態であってほしい」と願う心はわたしにもある。これは脳というより心の側だろう。あまりに自分の感覚と同体でありすぎて、意識できずにいたのかもしれない。
だとしたら、脳にだまされている可能性もあり、そこから生まれる比較に振りまわされている可能性もあり、さらに、比較から抜けだすカギとなるのは、心、なんだろうなあ。
今日はここまでわかった。