春の予感と名取ちずる
此方には ただ雨降りて 啓蟄の
蟲の騒も 地に戻るらむ
雨模様で迎えた啓蟄の日の夜、SNSである方のポストにコメントした三十一文字。せっかく冬眠から覚めようとした地中の虫たちも、この寒さでは地中の寝床に戻ってしまうのだろうなぁ…などと、いつも朝の「あと5分」を延び延びにして布団の中にもぐり続ける筆者は思うのだった。
沈丁花の薫りが漫ろ歩きの優しい同伴となる頃おいだが、暖かと思えば冷え込み、寒いと思えば温々と。
そんな季節に思い出される、名取ちずるの短編漫画『冬眠』。
雪の残る啓蟄の日、寒さが苦手の少年と「冬眠しようと思って」学校を休んで穴を掘る同級生の少女。二人と季節が紡ぐ小さな時間。
移り変わる季節の瞬間瞬間を味わいつくそうとする感性は、名取作品に描かれる登場人物たちの魅力でもある。
まだパソコン通信全盛の頃、フォーラムのメンバーの一人から強く勧められた漫画家のひとりが、主に短編を〈マーガレット〉誌で発表していた名取ちずるだった。
派手さはないが安定した画風と、地に足のついた世界観、そして刻に移ろう季節に向けられる鋭敏な感性など、一時代の少女漫画のスタイルであると同時に〝詩画〟の世界のようでもあった。そして、特に心身ともに辛かったある時期の癒しの伴侶ともなった。
単行本で刊行された作品はすべて読んだ。それらの一作たりとも無駄なものはない。
春の予感を覚えつつも、まだ肌寒い一日。
久しく書棚の奥に眠っていた一冊のコミックスを探し出し、その作品と初めて出逢った季節を想いながらページを繰る。