今日もカフェでコーヒーを飲みながら⑥ 5.担任の先生も、『いじめ相談室』も、あてにならなかった…
私は、3年の頃から仲の良かったS原さんにも、担任のO瀬先生にも、何度も相談しました。
また、いつ、どういう『いじめ』を受けたのかを、メモやノートに書き込み、それをO瀬先生に提出した事もありました。
1ヶ月に数回程、HRの時間に、いじめっ子達に注意をし、皆が見ている前で謝ってもらう事もありました。
が…、
翌日になると、
「Y内っ! お前っ、昨日はよくもチクりやがったなっ!」
「俺達に恥かかせやがってっ!」
となじられ、『いじめ』が更に酷くなってしまうのです…。
そんな事が繰り返され続けるうち、O瀬先生までもが、
「いじめられるのは、Y内さんに何か問題があるからじゃないのか?」
と言い出すようになってしまいました…。
O瀬先生は、自宅に何度か家庭訪問に来るようになりましたが、母も義父も、共働きしていて不在がちだった為、代わりに祖父母がO瀬先生と話していました。
その際、私や姉はいつも、自分達の部屋に入って宿題を済ませるなどしていたので、3人の間でどのような話がなされていたかは知りません。
が…、
O瀬先生が帰った後、祖父母は、
「うちの孫を何だと思ってるんだっ!」
「もう二度と来るなっ!」
と、怒りを顕わにし、祖母は、玄関先に塩を蒔いていました。
今となっては、祖父母が亡くなっているので、訊く術もありませんが…、
恐らく、私の事で、相当腹が煮えくり返るような事を言われたのかもしれません…。
祖父母は、学校で『いじめ』に遭っている私の事を、不憫に思っていたのか、私をキツく叱りつけるような事はありませんでした…。
O瀬先生は、私が授業中に『いじめ』に遭っても、次第に『見て見ぬフリ』するようになり…、
目の前で私が蹴られたり、叩かれたり、泣かされても、いじめっ子達を注意しなくなり、まるで、『シカト』でもするかのように、授業を進めるようになりました…。
私は、O瀬先生もあてにならないと思い、数回程、教頭先生や校長先生に話した事もありましたが…、
O瀬先生は、自分のクラスで『いじめ』がある事を隠ぺいしたばかりでなく、私の事を『嘘つき』呼ばわりしました。
その為、教育委員会に通報される事もなく、教頭先生も校長先生も、私の話を信じてくれなくなりました…。
学校すら当てにならなくなった為、私は、何度か公共の『いじめ相談室』などへ電話を架けた事もありました。
けれど…、
私が一通り話した後、電話口で話を聞いていた相談員さんは、
「それで、Y内さんは、この先どうしたいと思ってるの?」
「Y内さんがいじめられるのは、その子達に何か悪い事でもしたからじゃないの?」
「いじめられる心当たりはないの?」
と言われるのがオチでした…。
『いじめ』を解決したいと思って、誰かに相談したかった私にとって、それらの心無い言葉は、私に『絶望感』を与えました…。
私は、学校にも、学校以外の大人達にも失望していきました…。
そして、
「どこにも、私の味方なんて、誰もいないんだっ…」
と思うようになり、私は、自分が『独りぼっち』になってしまったような、悲しい気持ちになりました…。
小学5年生になると、姉が中学校へ入学してしまった為、私の事を助けてくれる人はいなくなってしまいました…。
仲良しのS原さんも、学校では他の子達の仲良しグループにいて、私と話す事はありませんでした。
それというのも、もし、私と仲が良い事を知られてしまったら、S原さんも『いじめの標的』にされてしまう可能性があったからです。
その為、学校から帰ってから、お互いの家へ行って遊ぶようになっていました…。
私は、苦肉の策として、執拗に叩かれたり、蹴られたりして泣かされた時は、放課後までずっと机に突っ伏したまま、延々と泣き続けました。そうする事によって、それ以上、酷い事をされないよう、『自己防衛』しました。
いじめっ子達は、私が泣き出した後、しばらくは、
「おいっ、Y内っ! 泣けばいいと思ってんのかよっ!」
「うるせーなっ! さっさと泣き止めよっ!」
と怒鳴り、私の頭を教科書の角で思い切り叩いたり、髪を引っ張って無理矢理顔を上げさせようとしましたが、いつまで経っても私が泣き止まず、机に突っ伏したままでいると、私を放っておくようになりました…。