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証拠写真集

「写真!写真!」とか「あ!写真撮り忘れた〜」

という会話がよく起こるし、よく聞く。

お出かけしたら、友達と遊んだら、日常のご飯でさえも、
なんでもかんでもぱしゃぱしゃとスマホで撮影するのが当たり前だった。

そうして、写真が私のスマホとパソコンをぱんっぱんにしている。
でも、私はこの写真たちが、意味のないものだとは思っていなかった。

今も思っていないけれど。

だって、見返せば、こんなことしたね、これ楽しかったよね、美味しかったよねって、会話のたねになっているし、昔の自分を思い返すこともできて、それは私の記憶を呼び起こすという役割を果たしてくれているから。

でも、見返していると、たまにこんなことが起きる。

「この写真なんだっけ…?」

そう、
この写真きれいだなっていう気持ちもなければ、
何を撮りたかったのかも覚えていない。

意味のない写真ではないと思っていたけど…
だけど、その出来事は私にこんなことを静かに伝えていた。
私の写真に愛は込められていなくて、
単なる過去の「証拠写真」程度だった
ということ。

いつもだったら、なんの証拠なのかすらもわからない
証拠写真は消して終わり。
そしてまた無機質な証拠写真を集め始める。
だって、「とりあえず」記録のために撮っておこう
という認識が強かったから。

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でも、ある時
「とりあえず」という愛のない証拠写真に嫌気がさしてしまった。

それは私がいろんな街を歩くようになってからのこと。
今から2ヶ月くらい前に時をくるくる戻します。

私は休みの期間、景色のきれいな街をたくさん1人で歩くようになっていた。いつも通り「証拠」を溜め込むために、ぱしゃぱしゃ写真を撮っていた。

この美しさを家族とか友達に伝えたいな〜と思い、写真フォルダを開いてみると、

「ん?なんか肉眼で見たきれいさが、写真では全く伝わらなっていない!」

という感情をきっかけに

私の感動をこの小さなフレームに詰め込みたい。

そう思うようになった。

これが私の写真に対する思いをちょこっと変えてくれたみたい。

そうして私の写真フォルダは、
証拠写真集から、私の愛がぎゅっと詰まったものに変わりつつある。

もっと愛を詰め込むために、
これから気が向くままに写真というものを勉強して、
まとめていこうかなとゆるく考えている今日この頃。

きょうはここまで🫧

➰marumaru➰



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