ミステリー作品における推理の考察
これは40年前。推理にハマった中学生の私が書いたものである。
ハウダニット
ミステリーはフーダニット、ハウダニットを主流とし誕生する。
そもそもの始まりはハウダニット。「一体どうやって殺す事ができたのか」
例えば、人間にはあり得ないような長い手を持っていたから、それが可能だった。とかいう結論が導き出された時、極めて論理的に「何者」の答えを出す事ができる。
トリックというものは、フーダニットでなくてハウダニットに特徴的なもの。「如何にして」が解けた時、自動的に犯人が割り出される。左利きであったとか、特殊な縄の結び方が出来るとか。これはミステリーの初歩。第一歩と言っていい。
フーダニット
しかし、それと同時にフーダニット「誰がやったのか」もミステリーの主流の大半を占めて登場してくる。その一番典型的なのがアガサ・クリスティーの作品だろう。
アガサ・クリスティーの作品には、一般的に言われる「トリック」てものが、実はそれほど重要な役割を占めていない。
「オリエント急行殺人事件」「そして誰もいなくなった」などは、「如何にして」よりも「誰が」という問題が解き明かされた途端に、すべての真相が明らかになるというタイプのミステリーだ。だから珍しい狂気とか、手の込んだトリックは、あまり必要でない。ただ必要なのは、そこに揃った人間達の、本当の顔を知ることが核となる。
ホエンダニット
「いつ」は時間のトリック。ホエンダニットのメインテーマはアリバイだろう。「如何にして」は、あまり問題じゃない。「誰が」は、もちろん大きな問題になってくるケースも多いが、初めからある程度わかってしまっている場合もある。
色々なアリバイ崩しのパターンがあるが、根本的にはすべて同じ。「実際の犯行時間を誤認させる」という一点にかかっていると言える。あるいは反対に「犯行時刻と犯人の時刻を故意に歪曲して一致させる」でもいい。
もう一つ。ホエンダニットというと、すべてアリバイと結びつけて考えてしまうが、実はその中には極めてハウダニットと同一のように似ていて、多くの場合ハウダニットと誤解されているケースがある。
ガストン・ルルウの「黄色い部屋の謎」は密室トリックなのでハウダニットのようだが、本当はホエンダニットになっている。だからこそ「何時やったのか」が明らかになった時、すべての謎が解ける。
本当の犯行時間が明らかになる事によって、おのずから犯行可能な人間が限定され浮き上がってしまう。これがホエンダニット、時間のミステリーだ。必ずしもホエンだからといって時刻表が登場しなきゃいけない訳じゃない。
ホエアダニット
正直「何処でやったのか」は、ホエン「いつ」、ハウ「どうやって」の変形として処理できるので、それほど大きなパートを占めることがない。
これはリアルとフィクションの大きな違いかもしれない。
ホワイダニット
最後がホワイダニット。なぜ犯人は、そうしなければならなかったのか。なぜその事件は起こったのか。なぜ彼または彼女は殺されなければならなかったのか。どんなミステリーにとっても極めて大切な問題。たとえホエンダニット、フーダニット、ハウダニットだからと言って「なぜ」という事は決して置き去りにするわけにはいかない。
現実はとても生々しくて、哀しくて、どうにもならなくて、そして驚くべきものじゃないか。人間というものは、馬鹿で、切なくて、愚かで……
だからこそ図らずも罪を犯し、人間だから綻びだらけで、それを繕おうとして尚更マズイ方へマズイ方へと自分の手で自分の傷を広げていってしまうのじゃないだろうか。
大切なのは動機。「なぜやったのか」他のことなんかどうでもいい。それを手繰ってゆけば、思いがけない愛憎のもつれを生じていた糸も自ずと解け、色々な人の想いや事件の真相が明るみに出てくるのだ。
ちなみになぜ日本の作品が出てこないかというと。当時は江戸川乱歩を先に読んでおり、得てして明智小五郎と知り合う美人な未亡人が犯人だからである。
ちゃん、ちゃん。