新しいことをすることは
とてつもなく途方な道だと考えてしまうわけでどういうことか、自分は「日常の中にちょっとした日常を足す」だけでも
かなり体力と気力を削がれてしまう。
空元気に日々を走り続けたとしても3ヶ月
気力のみでどうにかやりきろうとするのに(よくて)2ヶ月
半年も経てばまったく動けなくなるほど普通のことを毎日続けることが出来ない。
そのわりに昔はどうにかして普通の人と同じになれるよう頑張りはした。
そもそも、私の過ごしてた普通が普通ではないので
もうそのあたりで諦めがつけば良かったんだけど。
若い苦労は買ってでもしろとよく時世の中で言われる言葉だけど。ダース単位で若い方々買いまくってない?
それがもし「普通のこと」と言うならば
体の神経がキレるまで体を動かせと言ったものと同じ
しかし、若い苦労をたくさん乗せて果たして彼らは動けると思いますかね?
私は多分、無理しまくって空元気に事を運んだあげく早めの棄権になってしまいましたが
苦労という乗せた荷物のまままだジェンガのように積み上げることに嬉々とするなら
それは
言葉一つでもつらいものと
誰しも理解はしているでしょう?
それでも楽しいことだってつらいことだって全てこれでいいと納得できた上での「若い苦労」ということを伝えたいのでしょうね
でも、当人に言ったとしても今を生きるだけで手一杯です。
努力の積み重ねと体力が必ずしも平均ではないこと平等の自由はあってもそれを「出来ない」ことで押し付ける必要はない。
なんと言ったところで時間は過ぎていくので
「買いすぎた若い苦労」を大人も含めどうやって整理していくか
そして私は電話機の前で書き込んだメモ帳と自信のなさと電話に対する恐怖心をどうやって理解し行動すればいいか。
そ、あとはやるだけ。やるだけなんだよ