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ブラジルでの父の軌跡を辿って、自分探し(3)

アナ・ディアスとその周辺

さて、この旅のクライマックスの一つとなった一日。アナ・ディアスは父が7年のブラジル生活の中、最も長く滞在し、日本語教師として安定した日々を過ごした場所だ。その周辺の写真には隣町のペルイーベや、イグアッペーなどもあり、そのあたりを回りたいと思っていた。

 まずは霧の中、サントスの日本人移民の記念碑を見てから出発。写真で見たペルイーベの駅を発見。今ではもう電車は通ってないが、駅が残っていて、中には小さな歴史展示物が掲載されていた。しかし特に父に関連するような事柄は見出さなかった。


写真 4サントスの日本人移民の記念碑



写真 5 ペイルーベの駅1960年11月27日/ 2018年7月5日

 そして、いよいよアナ・ディアスへ行った。まずは今でも現存しているはずの当時の教会を確認。1962年からほぼ変わらぬ姿を見せてくれた。ただ教会が黄色いことは想像してなかった。

写真 6 1962年3月のアナ・ディアスの教会


写真 7 2018年7月5日、アナ・ディアスの教会

 事前の調べでは、父が教師をしていた日本人学校は見つけられていなかったが、この辺かもしれない、という目星はつけていた。そこで、その辺りを探し回った。しかしながら、見つけることはできなかった。諦めて、イグアッペーの方に行こうかとも思ったけど、せっかくだったので、父も話していた小さいレストランがあったと言っていた場所あたりに行ってみた。すると今でもいくつか店があった。そこで、ローカル感あふれる店に入って、ランチをすることに。父の話にも出てきたフェジョンという豆料理らしきものもあって、感慨深く味わった。


写真 8 アナ・ディアスの小さなレストラン
写真 9 アナ・ディアスでのランチ


 そして、駄目元で、翻訳アプリを使いながら、昔の父の教え子の名前を伝えて、知らないかということを店の人に聞いてみた。すると、知っているというではないか!より詳しい人を紹介してやると言われ、浜松に出稼ぎに行ったことがあるという現地の男性が、片言の日本語で話しかけてきた。阿部さんと言えば,この辺りでは名士らしい。そして父の教え子の一人だった貞夫なら、すぐ近くの車の修理屋さんを経営しているという。その場所に歩いて行ってみると、確かに壁にSADAOと書いてある。しかも、そのタシマル・ダグラスさんは元日本人学校だったという場所を知っているというではないか。なんと車で連れて行ってくれた。父の古い写真に残っていた、まさにあの場所だった。


写真 10 貞夫氏の修理工場
写真 11 アナ・ディアスの日本人学校の校庭 (1962年)
写真 12 アナ・ディアスの日本人学校の校庭 (2018年)

 同じ場所である特定が確実にできる方法は山の形である。二つの写真の山の尾根全体もそうだが、右上には非常に特徴的な形をした山があり、確信した。

写真 13 1960年当時の日本人学校前
写真 14 元日本人学校の現在


 そして、ダグラスさんは、貞夫さんに連絡をとって呼び出してくれて、彼は出勤日ではなかったのに出て来てくれた。73歳にもなっていたが、写真で見た少年だった。


写真 15 阿部貞夫氏 (1961年頃と現在)  

 その後は、イグアッペーにも赴いた。イグアッペーも街並みは随分と変わったが、山肌と教会で当時の面影を十分残していた。準備段階では、ストリート名が変わっていて、特定できなかった場所も現地に行くと写真に写り込んでいる山の構図をヒントに辿ってみた。すると、この辺だろうということがわかる場所もあった。


写真 16 イグアッペーの教会 2018年7月5日と1961年5月
写真 17 イグアッペーの大通り 1961年当時
写真 18 イグアッペーの大通り 現在

 翌日向かうリオ・デ・ジャネイロにはかの有名な贖い主イエスの石像がある。各地に真似したような像がよくあるそうだが、この町にもあって、父の写真にもあったので、確認しに行った。

写真 19 イグアッペーにあるキリスト像 2018年7月5日と1961年7月
写真 20 当時のイグアッペーの町並みと現在

 若い頃の父は、この景色を見てどんな風に感じたのだろうか。今でも小さな町アナ・ディアスを後にして自分が想像したのは、あの場所に父が4年もあの学校兼宿舎に住み、暮らした父の思いだ。それを思うと、最後には夢果てた思いで帰国した気持ちがなんとなく理解できた。それは、自分がアメリカからついに帰国した時の気持ちと近かっただろうか。自分もアメリカに永住するくらいのつもりだったのに、VISAもうまく行かず、結婚もできずに帰国することになって、ちょっとやるせない思いがあったが、それと似ていたのかもしれない。

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