*太字引用は全て『誰も知らない鎌倉路』(御所見直好著、集英社文庫、1983 年)から。
① 光触寺
本堂の前の「塩嘗地蔵」は、六浦(現・横浜市金沢区)の塩売りが朝比奈峠を越えて鎌倉に来るたびにお地蔵さまに 塩をお供えしたといい、いつも帰りには無くなっていたとこ ろからその名の由来があります。昔は金沢方面から塩が入っ てきたことがわかります。
② 十二所果樹園から富士見野展望台へ〜上総介邸跡
バス通り(新金沢街道)に戻り、十二所神社バス停まで一停車分歩いて、上総介の屋敷があったと言われる十二所果樹園を目指す。
*富士見野
標高 149m の富士見野は⻄に富 士、東に房総半島が見える高地。 鎌倉を取り巻く山の中では最高 峰の大平山(159m)の次に高い。
ここが鎌倉から房総半島を望 める唯一の地と聞くと、ここに屋 敷を構えた上総介の望郷の念が 偲ばれる。
③ 太刀洗から朝夷奈切通を通る
朝夷奈切通との分岐に戻り、左に戻って歩を進めると、しばらくして清流の中に、竹筒から流れ出るわずかな水流を見つけることができる。案内板は草木に覆われて見えにくくなっているので、注意。
*梶原太刀洗水
*三郎滝
いよいよ朝夷奈の峠に至る湿った岩肌の坂道を登ろうというところで、この切り通しの由来となる碑が現れる。その横に流れる「三郎滝」と呼ばれる小滝の水音に癒される。三郎とは、和田義盛の三男の朝比奈三郎義秀のことで、木曾義仲の妾であった巴御前が義仲の死後、義盛に嫁いで産んだ子という説がある。
*無阿弥陀仏供養塔・道造供養塔
*朝比奈峠
【横浜市教育委員会文化財課 案内板より】
④ 朝夷奈切通から熊野神社へ
*大切通
この切り通しがかくも深く掘られたのは、江戸時代までは路を切り拓くためであったが、その後、昭和37年(1962)頃までは、石を切り出すためであったのではないかという記述が見られる。(http://www.ktmchi.com/rekisi/nkc_006_3.html)
切り通された崖に大きな仏が刻まれた磨崖仏(まがいぶつ)も、おそらく昭和の頃に彫られたのではないかと言われる。環状4号線朝比奈から鎌倉市十二所に至るバス通りの新金沢街道が開通したのは昭和31年(1956)であるので、それまでこの古道は、「身近な道路として機能していた」ことになる。(https://machimori.main.jp)
*熊野神社
⑤ 朝比奈へ抜けて、六浦にある上総介供養塔へ
熊野神社に入ってきた分岐まで戻り、金沢方面へ向かう。小切通しを抜けると、頭上には横浜横須賀線の高速道路が通る。左手には、江戸期に道路開通に尽力した村人を祀った供養塔や道祖神が並ぶ。坂道を降りると、すぐ住宅街に入る。
「現在の朝比奈一帯は、昔は相模国鎌倉郡峠村(かまくらぐんとうげむら)といった。明治期の久良岐郡(くらきぐん)への編入を経たのち、朝比奈町と呼ばれるようになったのは横浜市への編入(昭和11年・1936)以降のこと」。
住宅街の道は環状4号線に行き当たる。この辺りは、「鎌倉時代には六浦津(むつらのつ。六浦湊・むつらみなと)として栄えた地域。…古都鎌倉の港は材木座(ざいもくざ)海岸の沖に防波堤となる和賀江島(わかえじま)の築かれた和賀江津(わかえのつ)があった。しかし外洋に面した和賀江津は波風も荒かった。それゆえ、おだやかな内海で外航船が容易に停泊できる六浦津は重要な外港であった。…江戸時代の六浦は塩田による製塩がおこなわれた。製塩自体は中世・室町時代初期の南北朝時代まで記録を遡ることができる。それゆえ、この道は鎌倉で商われる塩を運ぶ『塩の道』ともいわれた」。(https://machimori.main.jp)
六浦方面へ横浜環状4号線を歩くと左手にひっそりと上総介供養塔がある。しかしこれが実際の墓なのかは、はっきりしない。現在ある供養塔は、昭和59年に地元の有志が復元したものである。
六浦の港からは東京湾をへて、上総国へ渡ることができる。ここまでのコースを辿ると、十二所に館を構え、六浦に抜ける要路をおさえた上総介が行き来した往時を偲ぶことができよう。と同時に、かつて鎌倉へ入る玄関口としての切通しが、いかに多くの人々の苦労によって開通されたのか、またそこを通って様々な物や人が流通していたか、その様子が目に浮かぶというものだ。
帰りは「朝比奈」のバス停からバスに乗って鎌倉駅か、金沢八景駅へ出る。