【おはなし】雨水を漂う
窓から見える景色の全てを、雨が濡らしている。
この雨はここ何十年かの間、毎日降っていた。
雨のせいで道は川になり、やがてそれもあふれ出し、しだいに町は巨大な水たまりになった。
町の人は家から出ることができずその家もまた、降り続ける雨にだんだん浸かっていった。
町の水位が窓の半分を越えたあたりから町の人は屋根の上に足場を作り、その上を新しい屋根でおおった。家を上に伸ばして、沈まないようにしたのだ。
雨は降り続けやがてその階も雨水に浸かりそうになると、また上に新しい足場を作り屋根でおおう。そういうことを何年も、続けていた。
そうやってどんどん上の階に行くにつれて家は細長くなり、人の生活するスペースはだんだんと減っていった。
***
朝のことだった。
辺りがやたらと静かだと思った。それに明るい。電球の明かりよりもはるかにたくさんの光が窓の外を埋めつくしている。
カーテンを開けると家の中に一気に光が飛び込んできて、私は目を開けていられない。
窓を開けると湿った部屋の空気が外へと追いだされていく。
首を伸ばして水の底を見てみると、すぐ真下にのびた建物が見える。私が水の上に上がるために、捨ててきた階。それらは私のいる階をまっすぐに支えていて、まるで高い塔のてっぺんにいるようだ。
水中にはあちこちに、かつての町の残骸が沈んでいるのが見える。完全に水に沈んでしまった家や広場の時計台や電波塔よりも、私の家の屋根は高い場所にある。
顔を向けるといくつかの家が遠くのほうの水の上に点々と見える。私の家と同じように、水面まで増築した塔のような家。
この町に住む人はあまり多くない。船に乗って、別の土地に移住してしまった者も多くいるという。
目を細めて上を見ると、雲がひとつもなくて空が高い。空気が澄んでいる。
ここから見えるのは空と同じ色の水面と、数えるほどしかない小さな家の屋根だけで、その先にはただまっすぐに水平線が広がっている。
雨が止んだのだと、すぐ隣に住むおじいさんが窓越しに教えてくれた。何十年ぶりかの事だという。
当然だけれどそれまで私は、晴れた空というものを見たことがなかった。
もっとこう劇的なものかと思っていたけど、私にとってはじめての晴天はけっこう普通に地味に訪れた。案外こんなものかと思った。
「なんかまぶしいね」
「はは、そうだなぁ」
でも空を見上げる隣のおじいさんがにこにこ笑ってるのを見てると、私もけっこう嬉しい気がした。
「晴れた日はすこし頭痛が痛くてな、薬屋で薬をもらってきてくれんか」
おじいさんがとても小さな船を貸してくれた。
「わかった。行ってくる」
船の進行を遮るものは何もない。風が気持ちよかった。澄んだ水の下にはかつての町の風景がそのまま広がっていて、まるで空を飛んでいるようだった。
***
薬屋さんを目指して船を漕いでいると、青い屋根の家が目にとまった。
その家の人がたくさんのシーツやタオルやシャツや靴下が、その家の屋根から向こうの屋根へと張られたロープに吊るしている。
「なにをしてるの?」
私は家の人にたずねた。
「雨が降っている間、洗濯物がずいぶんと溜まってしまったの」
その家の人はせかせかと動きながらそう言った。
「せっかく晴れたから、今のうちに干しておかなくちゃいけないと思って」
その人の足元にはまだ洗濯物のぎっしり詰まったカゴがいくつもあった。いったい何年ぶんの洗濯物だろうか。
「晴れたばかりだし、少しくらいゆっくりしてもいいんじゃない?」
私は船の上から話しかけた。
「だめよ。またいつ雨が降るか分からないじゃない。そうだ、あなたも手伝ってくれる?」
ロープは端から端までどのくらいあるだろうか。ずいぶんと長い。その人はロープをたぐり寄せて、洗濯物を吊り下げてはロープを送る。その作業を手際よく何度も繰り返していた。
「こんなにたくさん、よく持ってきたね」
私が家を上の階に伸ばしていくとき、持ち物はどんどん減らしていかなくちゃいけなかった。上に行くにつれて生活のスペースは狭くなっていく。そうしないと自分の居場所がなくなってしまうからだ。
「どうしても下の階に置いてくることができなくてね」
この家も何度も増築を繰り返して、かなりの高さになっているようだった。
「その洋服とかあのシーツとかこのタオルもぬいぐるみも、私けっこう大事な思い出があるんだ。だから、全部ずっと持っていたいなと思って、頑張って持ってきちゃった」
私もロープの間を船に乗って進みながら、洗濯物をぶら下げていく。
「全部持ってくるのは、大変だったでしょう」
「そうね。すっごく大変だった。でも」
「でも?」
「持ってきてよかったと、思ってるよ」
ずらりと並んだ洗濯物は、光を浴びながらおだやかな風にゆられていた。
洗濯物はまだまだ干すのに時間がかかりそうだった。
「あなたも、持ってきたものがたくさんあるでしょう?」
その人が尋ねてきた。
私が下の階から持ってきたものはなんだったか?
雨で沈んでしまった私の家のことを思い出した。考えてみるけど、なかなか頭に浮かばない。私はあいまいに笑ってみせた。
「私、そろそろ行かなきゃ」
おじいさんのことを思い出した。
雲ひとつない空からの日光を浴びて、洗濯物は干したものからどんどん乾いていく。
「そっか、気をつけてね。手伝ってくれてありがとう」
洗濯物の家のお姉さんがお礼にと小さなハンカチをくれた。空の色と同じ色だった。
***
船を漕いでいると、薬屋さんが見えてきた。ここも何度も増築を繰り返した、塔の先端ような小さな家だった。
「おじいさんの頭痛の薬をもらいに来たの」
私は薬屋さんに言った。
「ごめんよ。薬はもうないんだ」
薬屋さんが言った。
「どうして?」
「何年か前に薬の在庫が水の中に沈んでしまってね」
「でもここは薬屋さんでしょう」
「仕方がなかったんだ。上へ階を作るたびにスペースは狭くなっていく。四階を越えたあたりから、薬の在庫を持って上がるのを諦めたんだ」
薬屋さんの家は、ベッドがひとつと小さなタンスがあるだけのせまい部屋だった。
「上に持っていくものと、捨てるものを選ばないといけなかった。きみもそうじゃないのかい」
薬屋さんが言った。
私は雨で沈んでしまった私の家のことを思い出した。私が捨ててきたものはなんだったか?
友人がくれた服は八階に置いてきた。
お気に入りのお皿は七階に。
外で拾った綺麗な石は六階に。
昔から使ってるラジオは五階に。
隣のおじさんがくれた傘は四階に。
しおりをはさんだままの本は三階に。
ずっとしまってあった日時計は二階だったかな。
捨ててしまったもののことだけはこんなにも覚えてる。私の家の下の階に置いていかれ、もう戻ってくる事はないものたち。
思い出すと胸の内側を強く押されるようだった。
「お店は、どうするの」
「薬屋はもうやめるよ」
薬屋さんはなんだか元気がないようだった。
「そっか」
私はまた船に乗りこむ。ふと、思いついたことがあった。
「じゃあ、この先を戻って、青い屋根の家に行ってみてよ。きっと人手が必要だと思うから」
残念だったけど、薬がないのなら仕方がなかった。おじいさんには何て言おう。頭痛はまだ続いているだろうか。
***
快晴の空にすこし雲が出てきた。
もしも雨が降ってきたら私はまた、いろんなものを捨てなくちゃいけないのかもしれない。
帰ってくると隣のおじいさんは横になっていた。
「ただいま」
「おお、おかえり。どうだった?」
「薬はもらえなかったよ。ごめんね」
私がそう言うとおじいさんは少し困ったような顔をした。
「そうか。いやいいんだ大丈夫。頭痛も少し慣れてきたよ」
おじいさんは眉間にしわを寄せてそう言った。
「それは?」
おじいさんが私の持ってる青いハンカチを指差した。
「もらったの。洗濯物を干すのを手伝ったら、お礼にって」
「そうか。それはよかった」
おじいさんは嬉しそうだった。
家に帰ってきて私は私の部屋の中を見渡してみる。小さな椅子と机とベッドでいっぱいの狭い部屋。あと日用品を入れた小さなかばん。
薬屋さんは言った。
私たちは捨てていくものと、持っていくものを選ばなくちゃいけない。
洗濯物のお姉さんのことを思い出した。
私が持ってきたものはなんだろう。
家を上へ上へと伸ばしていく際に、持ってきたもの、持って来れなかったもの。考えてみると持って来れなかったものの方が圧倒的に多い。いや、持って来れなかったのではなく、私が選択して持って来なかったものだ。
それらは私の足の下のそれぞれの階に置かれ、水に沈んでしまった。もう取り戻すことはないだろう。
私はかばんのファスナーを開ける。
今日もらった、空と同じ色のハンカチをしまっておこうと思った。かばんの中にはタオルや最小限の衣類、少しの食べ物と食器、小さな救急箱が入っている。あれ?あ。
忘れてた。救急箱には頭痛薬が入っている。なんだ、ちゃんと持ってきてた。ごめん、隣のおじさん。
置いてきたものも多いけど、持ってきたものだってちゃんとある。
もちろんこれから増えるものだってあるだろう。それに置いてきたものの事はずっと覚えてる。思い出は捨ててない。
空に雲が増えてきた。
まぁまた雨が降っても、大丈夫だと思う。雨音はそんなに嫌いじゃないし、下の階に置いてきたものだって、私の足元で私を支えてくれてるんだから。
早く薬をおじいさんに持って行ってあげなきゃ。持ってきてたわって言わないと。
いろんなものを捨てたり捨てなかったりして、私はこれからも生きていく。
ちゃんとあるじゃんか、持ってきたもの。
私は空色のハンカチをかばんの中に大事にしまって、そっとファスナーを閉じた。
おしまい
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