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Gutsヒロのスイーツ・ストーリー:チャンスも期待のなかった20代。障害や難病を抱えて生きてきた。しかし、夢を諦めることはできなかった。
Gutsヒロです。1月も半月が過ぎて、もう2月になるのか。そういえば自分はもう37になり、人生の半分ぐらい過ぎたのかな。そんな日々の時間の早さについていけてないこの頃です。でも、不思議と充実感は想像以上にあって、布団の中に入って寝ながら日々のことを思うと、数えきれない嬉しいこと楽しいことに満ち溢れています。
さて、今回のストーリーは、「#心に残る上司の言葉」について話したいと思います。私の人生では沢山の人に巡り会いました。甘い言葉に釣られていったら騙されたことも沢山あります。その時は「あぁ、人生終わった。」って思うぐらい辛かったけども、5年後、10年後となってそれが反面教師となって本当の自分の生き方が見つかることもありました。
今回は、いくつかのストーリーに分けて綴らせていただきます。ではご覧どうぞ!
背水の陣で入社したパティスリー。入社3日目で大金を請求される。
地元トップのフランス料理店のオーナーシェフを支持し数年、私は弟子ですらなかった。
「俺を信用してついてこい!」世界的有名カフェの部長よ。あの言葉はどこいった。
1.背水の陣で入社したパティスリー。入社3日目で大金を請求される。
20台半ばの頃、私は精神科の病院に入院した。それまでは普通に働いていた普通の人間に見えたでしょう。
しかし、私は重度の不眠症で大量のアルコールを摂取しないと眠りにつけないことが2年ほど続いていた。仕事がハードになり、疲れ切っても1つもぐっすりと眠りにつけない。もうアルコールを飲みたくないぐらい体もボロボロになっていました。
そして、仕事ができなくなり、療養するものの一向に良くなる兆しがない。それどころか日々の苦しみが積み重なって生きることが辛くなった。
もう、とにかく眠りたい。死んでもいいから眠りにつきたい。
私は、いつからか自殺することを考えていました。そのぐらい眠れない苦しみに解放されたかったのです。
そして、風邪薬とアルコールを大量に飲み、練炭を焚いて、一線を越えた行動をしてしまいました。
しかし、私は生きていた。
目を覚ました私はどこにいるのか分からなかった。けど、病院らしきところにいることはわかった。
私は精神科の病院に入院していたのです。
しかし、体が動かない。調べてみると、全身がベッドに紐で繋がれていて何もできない状態だった。
モゾモゾしていた私を監視カメラで気づいた看護師が部屋に来た。
看護師から色々と事情と現在の状況を説明された。
そして、
「体調はどうですか?」
と聞かれたので、私は、
「とにかく寝たいです。」
と答えた。
看護師は、薬を持ってきてくれて飲ませてくれた。そうするといつの間にか私は眠りについた。
そんな日々が2週間ほど続いた。
「眠る」という普通のことが私にとっては気まぐれに訪れるものだったけども、今までの苦しみを解放するようにひたすら眠りにつくことができた。
でも、その時の私は精神科や心療内科にお世話になることは「敗北者」のような感覚があった。今では偏見にすぎないのですが、小さい頃、小学校を不登校になり、親に連れて行かれたのが精神科の病院だった。その精神科の病院の通りかがった患者さんを見てなんとなく怖いと思って逃げ出したことがある。それから、精神科の病院や心療内科の病院は行かないようにしていた。
でも、その偏見があったから、私は苦しんだのかもしれない。薬の名前も種類もわからないが、3粒の錠剤でぐっすりと眠りたいときに眠れるのだから、こんなに楽になれるなら早く出会っていれば、とすごく後悔した。
間も無く、私は健康になりつつあった。病院のデイケアに参加するようにもなった。デイケアは何となく物足りなさはあったが楽しかった。
そして、デイケアに参加して2〜3ヶ月経った頃だろうか。職員からあるお話があった。
「もし、社会復帰するなら良いところあるんだけど興味ある?」
私は健康になったのなら精一杯に働きたいと思っていた。そんな時にきたお話だった。
話は、病院のカフェの調理補助が必要で募集中というものだった。早速私は、カフェの「会長さん」と会うことになった。
「会長さん」とは、病院のカフェや売店の運営、都会では会社をいくつか持っているすごい人だった。おまけに元料理人で料理もできる人だった。
会長さんとは、うまがあった。一流の料理に興味あった私は、会長さんの元に働くことになった。会長さんは料理人でありながらレストランもいくつか経営していた過去もあったので日本料理、フランス料理は、なんでも知っていた。私には包丁研ぎや、ブリやヒラメの捌き方など何でも教えてもらいました。
私は2年ほど働いた。幸せで楽しい仕事だった。
でも、1つ心残りがあった。それは、病院のカフェでは、「お菓子」は作れないことだった。会長さんも流石に洋菓子の知識はなかった。
だから、私は地元のお菓子教室に1年ぐらい通っていた。パティスリーの経営もしているお菓子教室の先生とのお菓子作りは楽しかったし勉強にもなった。
そしてある日、先生からあることを言われるのである。
「私のお店で働いてみない?」
私は、ビッグチャンスだと思った。素人同然の私がお菓子屋さんで働けるなんて!と、嬉しい誘いだった。
でも、お世話になっている会長さんとの関係も大事にしたかった。でも、会長さんに本音を言った。
「お菓子屋さんで働きたいです」
それを言って会長さんはめちゃくちゃ怒った。私は恩知らずだったかもしれないし、自分勝手だったのかもしれない。それから会長さんは私に一言も口を聞いてくれなくなった。
そして、お菓子屋さんに就職する話が進み、病院のカフェの仕事の最終日、会長さんが久しぶりに私に話をかけてくれた。
「パティシエはなぁ。マドレーヌが焼けるかどうかだぞ」
その時は、意味がわからなかったです。マドレーヌなんて誰でも作れるじゃないか。簡単なお菓子なのに何を今更。と思った。
しかし、この言葉が遠い将来に私の人生に役立つ最高の言葉に気づいたのである。マドレーヌはシンプルな材料のお菓子で、誤魔化しのできない究極の洋菓子なのです。きっとマドレーヌを食べて美味しかったらそのお店は本物だと思います。そのぐらい極めると難しいお菓子がマドレーヌなのです。
そして、私は晴れてお菓子教室の先生のパティスリーに働くことが決まった。職場は、先生と私しかいないので、先生のフォローとなるようにとにかくなんでも叩き込まれた。
しかし、就職して3日目、先生からとんでもないことを言われるのである。
「じゃぁ、お菓子作りを教えるので25万円用意してください。」
私は、驚いた。そんな大金はないし、働いているのになんでお金を払わないといけないのかと思った。まぁ、働きながら徐々に覚えていけば良いだろうと思ったし、何かの間違いかと思ったから、気にしないように次の日も出勤した。すると、
「お金持ってきた?え?持ってきてないの?お金厳しいなら分割でも良いですよ」
お金を払わないといけないのは本気だったらしい。私は、
「すみません。お金は払えないです。」
と、言ったら先生は、
「あなた本気でやる気ないならもう辞めていいよ。」
と言われて、クビになった。
私は、お菓子屋さんで働けるものの先生にとっては従業員でもなく客にすぎなかったらしい。
私は、無職になったので、会長さんに相談した。
しかし、会長さんは「もう、お前を雇う気は一切ない」と言われた。
私は、お菓子屋さんで働けるという甘い言葉で全てを失った。仕事も失ったし、会長さんの信用と信頼まで裏切ってしまった。
でも、従業員にお金をせびるパティスリーの先生も最低な人だったと思う。今ではお菓子教室もパティスリーも消滅しているが、色んな人からの話で先生はトラブルを色々起こしていたらしい。だから無理に働かなくても良かったのかもしれない。
当時私は「25万円」というお金は無かった。
でも、これまでの人生にお菓子のためにつぎ込んだお金は25万をはるかに超えるお金を使っています。今の私は世界のお菓子を知ることができたし、知らない事もたくさん知ることができました。
自己投資は大事だと思います。
しかし、その投資が「本物」だったり「一流」なものかどうかが大事だと思います。
なんとく良さそうで何でもやれば良いものではないと思います。それが「本物」か「一流」なものかどうか分からなければ、まずその理解ができるように世界を知ることが大切です。
このストーリーに出てくる「会長さん」は、とにかく私に、
「一流のものに触れろ。なんでもいい。絵でも料理でも本物を見て感じろ!」
私は、美術館行ったり、お金を貯めて2万円する高級フランス料理のコースを食べたり、色々しました。今でもそのような生活を時々します。すると自然と目指す先が見えてくるのです。
25万円というお金を払えばそこそこのお菓子は学ぶことはできたのかもしれません。
しかし、たった25万円でお菓子が学べてしまうレベルというものも今となってはたかが知れています。だってお菓子を本当に本気で学ぼうと思って何百万円以上もかけて学んでお店を持った今の私がいるのですから。
2.地元でトップのフランス料理店のオーナーシェフを支持し数年、私は弟子ですらなかった。
パティスリーを辞めて、私は無職になった。しかもたった3日でクビになったのだからとにかく恥ずかしかった。なんとか挽回したいと思って仕事を探し始めます。
しかし、ハローワークでは調理師の資格がない私に紹介する仕事はありませんでした。ハローワークの職員に「魚が捌けます」「調理を2年やりました」と言っても無意味なのです。職員は、確かな「実績」しか興味がないようでした。
私は働き口が見つからなくて人生に詰んでしまったことを実感した。でも後悔していても仕方がない。私は、本当に自分が目指したいものを見つめ直すために、地元でトップで人気のあるフランス料理店に入ってコースを食べました。
手作りのドレッシングのサラダ。サラダの周りには一品料理が沢山並んであって楽しげなサラダ。サラダだけでも満足できる美味しさ。
スープは、ミネストローネだった。しっかり出汁もとっているし、具材もたくさん入っている。出汁と具材の味わいがスープに出ていて美味しかった。
魚料理は、鯛と小魚のソテーだった。皮はパリッとしていて、身はふっくらに焼き上がっていて、そこにかかっているバターソースがとにかく美味しかった。
デザートは、ケーキやアイス、フルーツも5種ぐらい使っている豪華な一皿だった。別腹でどれだけでも食べれてしまう美味しさだった。
私は、コースを食べて終えて、「はぁ。こんな幸せな料理があるのか」と、心が満ちたものもあったが、こんな料理を作れるようになりたいなぁ。でもどうやって調理しているのかサッパリわからなかった。食べた満足の裏腹では、まさに雲の上の世界の料理で圧倒された。
こんな満足なコースが二千円ぐらいで食べれた。どうりで人気があるお店なわけだ。もうお金はないから次はいつ来れるかわからないけど、また来れる時があったら来たいな。そう思ってドアを開けてお店を出た。
私はなんとなく、振り返ってお店を見直したのです。こんな美味しいお店が地元にあるのに、私は料理の何も分からなかった。ハローワークで仕事を紹介されないのも当然だったのかも知れない。そう思いながらお店を見てたら、ドアの横の張り紙に目がついたのである。
その張り紙には、
「調理補助募集」
だったのである。私はこれは運命かも知れないと、勇気を振り絞ってお店に入った。従業員の人に
「表の調理補助の募集はまだやっているのですか?」
すると、従業員が
「あぁ、では店長にお伝えしますので少々お待ちください」
と、テーブル席で待たされて、お店の奥さんの店長と話をした。
「うちは厳しいけど大丈夫かしら?それでも働いてみる?」
と言われた。私は、
「なんでもやります!ぜひお願いします!」
と、直談判した。すると、オーナーシェフがきて、私の経歴を聞いて「じゃぁ、宜しく頼む」と言われて就職が決まったのである。
このフランス料理のお店は全てが厳しかった。でもその全てが料理人として役に立った。オーナーシェフは私がお店に役立てれるよう、様々な試練を与えた。私は全てこなした。
料理を覚えるということは時間もお金も大量に消費する。私は、給料の全てと貯金の全てを使い果たし、とにかく勉強しまくった。家に帰って練習もした。休みの日があってないようなことが2年ほどあった。
半年経った頃だろうか。私はお菓子作りの見込みがあるらしいので、アシェットデセール(皿盛りデザート)の創作を頼まれることが増えた。ケーキも美味しくて原価も抑えて最高のものを全身全霊で作り続けていった。
でも、頼まれたものが美味しくできたらシェフの要求も当然上がってくる。私は、心身ボロボロになりながらもシェフの要求に応じてとにかく走り続けた。
ある日、奥さんの店長から言われたのである。
「よく頑張ってるね」
と、私は滅多に褒められることはなかったので、あまりにも嬉しかったのであることを言ってしまう。
「シェフの弟子になれたおかげです!」
それを聞いていたオーナーシェフが顔が鬼になって私に言うのである。
「お前なんかを弟子にした覚えなんかねぇ!お前みたいなクズいて困ってるぐらいだ!お前なぁ、俺の店辞めた後、履歴書に店の名前を書くなよ!お前みたいなクズがうちの店にいたって世間が知ったら店に傷が付くんだよ!」
私は、あまりにもひどい言葉に顔が青ざめてしまった。泣きそうにもなった。それでも日々の厳しい日々で心身ボロボロだったから、傷口が開いてしまったように私は調子を崩してしまう。
そして、私はあまりの調子の悪さで初めてお店を休んだ。
電話でめちゃくちゃ怒られた。急に休んで迷惑かけているのが理解しているのか、今すぐ来いと言われた。私は泣きながら懇願するように休みをもらえるよう必死に訴えてようやく休みを貰えた。
しかし、やっと地元でトップクラスで人気のある店で働けるチャンスを棒に振るってしまったことに後悔と情けなさにもう死んでしまいたいと思った。その間にそんな状況で狂った私を見て、母が気を回して精神科の病院に問い合わせてくれて早急に病院に来るよう言われた。廃人のようになった私は働くことをドクターストップされた。
しかし、拒んだ。
今、仕事を本当に辞めてしまったら何もかも失うと恐怖したからだ。私はそれを言った瞬間に、病院スタッフの5人に抱えられ入院病棟の鍵付き部屋に入れられた。
私は、とうとう2度目の精神科病院の入院をしてしまうのでした。
入院の時に面談があった。あの病院のカフェの「会長さん」だった。会長さんは私に言った。
「お前の年で本気で料理をやるのには遅すぎるんだ。もう諦めろ。」
私は、悔しかった。私の夢はそんなに遠くて儚いものだと思わなかった。主治医の先生からも「料理の仕事はもう辞めなさい」と言われた。
何か言い返すことも、言い訳も、何もできなかった。真実だけが全てを語っていた。
私は、未熟にも関わらず、人気店に首を突っ込んで働いて、全てを注ぎ込んでいつか報われると思って死ぬ気で頑張ったけども、何もかも失った。
入院中は、料理らしいもの見ただけで食べる気が失せて吐いてしまった。料理が全てだったのにそれが失ってしまって私は壊れてしまった。そんな私に主治医は、「料理のことは全て忘れてください」と料理の本や、メモ帳など全て没収された。
退院して、ゼロからのスタートだった。ハローワークに行って仕事を探すが、いい年になった私が紹介される仕事はどれも魅力を感じなかった。
そのうち私は、やっぱり料理をやりたいと思った。
私の人生は料理が全てだったからです。自分を認めたかった、自分に嘘はつけなかった、自分を信じたかった、自分の人生に料理を失ったら私は私でなくなるような気がしたのです。
私の夢は、自分の作る料理でお客様を幸せにすること。そのためなら人生を賭けて、自分の命を捧げても貫き通したかった。
ハローワークは当てにならなかった。当然でしょう。料理の仕事をして精神科の病院に入院して、そんな人に料理の仕事を紹介なんてしないでしょう。
私は、料理の仕事ならなんでもいいからやりたいと言った。でも紹介してくれることは1度もなかった。
なら、別のハローワークの担当ならと、5箇所のハローワークを回って私の味方になってくれる人を探した。
最後にあたったハローワークでは、「そんなに調理に興味あるなら。」と紹介してくれたのは「牛の屠畜」の仕事だった。私は、ハローワークは当てにならなかったので諦めた。
そして、若年サポートセンターという、仕事の斡旋をしてくれるところを当たった。私の情熱を聞いて職員さんはあるレストランを紹介してくれた。私は、そこに就職することになるが、ある条件を言われた。
「料理はやらせません。まず接客を半年やったら料理の仕事をするチャンスを与えます。」
というものだった。私は即答でその条件をのんだ。
そして、私は苦手な接客を必死にやった。接客といっても料理を運ぶだけではない。厨房のステンレス磨きから、床掃除、イベントの設置など、必要以上の雑用を1人で全てやった。時には、若いアルバイトの調理の女の子にお菓子作りさえ教えることもあった。
そして、半年が経ちました。シェフから「半年経ったから約束通り厨房に入れる。」と言われた。私は「やったー!」と心の中で叫んだ。
しかし、2週間経った頃だろうか。調理師専門学校に通う調理の若いアルバイトが入社したのだ。シェフから、
「また接客頼むわ!」
と、軽く言われてしまった。
でも、私は可能性を1ミリでも増やすために、食器洗いの時に客の残したソースや料理を食べてシェフの味を覚えた。家に帰って見よう見まねで料理を再現する練習をした。
一方では若い有望なアルバイトの学生には作りたての料理を味見させて、作り方は手取り足取り教えられていた。
私は、扱いの待遇の違いに悔しさはあった。でも、ひらすら盗み聞きして、遠くから眺めてひっそり私も学んだ。
そんな虚しい日々でも料理人になるために必死にとにかく働いた。
しかし、私は仕事ができなくなってしまうのである。それは、
「胆嚢の摘出手術」
時々、背中がとても痛かったのです。最初は働きすぎて筋肉を痛めたものだと思って接骨院でマッサージを受けたのです。
しかし、先生から
「これは筋肉や骨じゃなくて、内臓だと思うよ。十二指腸あたりだなぁ。」
と言われ、レントゲンを撮るように言われて見つかったのが胆嚢の中にある大きな胆石だった。
そして、
「手術して摘出しないと癌になる可能性もあります。今すぐにも手術を受けてください。」
と言われた。
私は絶望した。神様がいたとしたら私にどれほど大きい試練を与えるのだろうか。天に向かって、もう私をいじめないで欲しいと何度も思った。料理人にすらなってないのに大病を起こしてしまうなんて運が悪いのだろうか。
でも、私は医者の話を無視して働いた。料理人を目指して癌だろうが、のたれ死のうが、料理人を目指して死ねるなら本望ぐらいだと自分に言い聞かせた。
しかし、ある日仕事の途中で激痛で倒れた。私はもう「ここまで」かと悟った。レストランのシェフやみんなは事情は知らない。
そして、シェフに言った。
「今日で辞めます。」
理由は言わなった。一言だけ伝えて去った。
自分勝手だと思った。でも半年で料理をやらせてくれる約束を破る、こんなシェフのために命をかける必要もないとも思った。
ただ、激痛で床にのたうちまわり苦しんで、一向に痛みがおさまらず油汗をかいて、自分は一体何をしたかったのか、いつも客の残したソースや料理でしか学べなくて、なんで自分ばっかりこんな目に遭うのかと、なんで何もかも1つもうまくいかないのだろうか、自分の努力って一体何だったのだろうか。
いつもだったらそんな弱気なことは一度足りとも思わなかったけども、その日の胆石の痛みは、私の情熱の炎が消えて煙にするほど私は痛みに苦しんだ。
そして、私は手術を受けた。手術は成功した。胆嚢にあった石は3cmぐらいあるトゲトゲの石など沢山の石があった。
手術をしてくれた先生から言われた。
「もう料理を諦めなさい。」
私は、もう立ち直れなかった。「料理」という世界はこんなに険しく厳しいものだとは思わなかった。何よりも自分の人生があまりにもむごいものだった。
私はもう29歳になっていた。私の20代の人生はなんだったのだろうか。得られたものは僅かで失ったものは多かった。死ぬほど働いて入院するほど頑張っても報われないことを知った。
しかし、次に何をすればいいのだろう?何を希望に生きていけばいいのだろう?
そんな時間を彷徨う日々を過ごしていた。
その年は残暑が長かった。気晴らしに田舎までドライブをして涼しみに触れようと思って滝に行った。その小さな2〜3mの滝は目の前まで行けてマイナスイオンをいっぱい浴びることができた。嫌な気持ちが晴れるぐらい気持ちがよかった。滝の目の前にあるベンチに座ってしばらくいた。
すると観光客が来たので私は去ることにした。けど、滝の「ざーっ」という永遠と続く音が居心地が良かった。お金はそれほどなかったが滝の目の前で経営しているカフェに入った。カウンター席にも滝の音が聞こえて癒された。私はお金がなかったので一杯のコーヒーを注文した。サイフォン式のコーヒーをマスターが手際よく作っている。コーヒーを作っている手際を見るのは楽しい。職業病かなと思った。
するとマスターが、
「どちらからきたんですか?」
と聞いてきた。私は住んでいる場所を言った。するとマスターが続いて、
「仕事は何してるんですか?」
と聞く。これには参ったなと思ったが「無職です」と答えた。するとマスターが
「前はどんな仕事をしていたんですか?」
と聞く。余計に参ったなと思ったが「料理人です」と答えた。そうですか、とマスターは満足したように頷いていた。私が料理人だったことを知るとマスターは親しげに話をしてくれた。そして、ついつい今までのことを話してしまった。手術して料理を諦めて次に何の仕事するか迷ってることを話した。マスターは暇じゃないだろうに、私の話を聞いてくれた。
そして、私に驚く意外なことを言う。
「お兄さん、料理やりたいんだろう?」
私は思いがけないことだったし、必死に忘れようとしていたことだったが言われて数秒後に図星だったことを理解した。マスターは更に
「俺の息子も行ったんだが、〇〇調理師専門学校に行ったらどうだろうか?」
と言うのだ。私は驚いた。料理人のエリートを育てる学校のことだった。
そして、マスターは私の運命を変える言葉を言った。
「お兄さん。今、料理辞めたら死ぬほど後悔するぞ。人生一度きりだ。やれるのは今だけだぞ!」
そして、私は調理師専門学校の製菓コースに入学することになります。学校の2年間を全うし、奇跡的に主席で卒業し、めったに出すことがないと言われた「学校長賞」をいただいて、最高の形でパティシエになるのです。
私の20代の時に働いたレストランは、過酷なものでした。でも、あの経験がなかったら、調理師専門学校で本気に取り組むことはできなかったでしょう。私の肩には、シェフ達の言葉が常にありました。私は「弟子」でもなければ「料理人」でもなかった。きっと今頃、シェフ達は私に言った言葉なんて忘れていることでしょう。でも、私は1日たりとも忘れたことはありません。
そして、何よりも諦めの悪い私に付き添ってくれた母には感謝でいっぱいです。私に関わった人はみんな「料理は諦めろ」と言いました。でも、母だけは常に応援してくれました。「感謝の気持ち」もあったからこそ調理師専門学校を頑張ることができたのです。
3.「俺を信用してついてこい!」世界的有名カフェの部長よ。あの言葉はどこいった。
調理師専門学校では、様々な講師が授業をしてくれます。地元の有名店や、都内の有名パティシエなど、様々な出会いがありました。
そして、「本物」のお菓子や料理の勉強をさせていただきました。お客様の残したソースや料理だけではわからなかったことが学校の2年間で全て解決できました。
そんな数ある授業の中で、カフェの授業がありました。講師は有名カフェで働く方でした。その人は、後々、私の上司になるカフェの部長でした。
カフェの授業でお菓子を作る機会があって私は部長に見込まれて就職の誘いを受けました。
実のところ私は主席で卒業したこともあって様々なお店から就職のお誘いがありました。
でも、過酷な仕事をするとまた体や心を調子崩すのではないかという不安がありました。
迷っている中、学校の指示でカフェの部長から話があると、部長と私の2人で話すことがありました。そして、カフェの部長が、
「君の統合失調症の話は聞きました。君を迎えるために病気について勉強もした。安心に働けるように俺が会社に指示して変えるから、どうかうちに来てくれないか。」
というのでした。私にここまで本気で話してくれる講師はいませんでした。私は、病院にも相談して、そのカフェが一番適切だと思い、就職することを決めました。
卒業式というパーティーの日。2年間の学校生活で共に頑張った仲間達や講師の先生とみんなで卒業を祝いました。
突然、部屋が暗くなり、ビデオ映像がスクリーンに出てきました。2年間の思い出を振り返る動画や写真が流れていて、みんなで笑ったり泣いたりしました。
その時、カフェの部長から肩を叩かれて「こっち来て」とジェスチャーについていくと、部長から言われました。
「俺を信用してついて来い!俺が君を最高に育ててやるからな!」
そして、私はカフェのお菓子部門に入り、入社すぐに毎日何十台のケーキを仕上げる仕事を毎日こなしました。
更に私の仕事が見込まれて「商品開発」にも携わるようになりました。商品開発はほとんどが成功して、アニメコラボの商品なども作ってお菓子部門は大盛り上がりになりました。
しかし、商品開発といっても何でも1発で成功するわけではありません。自分のイメージするものができなければ何度も練習します。家でも試行錯誤して技術を覚えたり、レシピの構成の勉強をしました。でも、私だけが作れるだけではいけません。お菓子部門の全員が作れるように技術的なものも考えて商品開発をします。私は、20代の頃の修行の成果があったかいもあって「考えて作る」ことに対してお菓子部門の誰よりも群を抜いて才能を発揮することができました。
でも、徐々に私は疲労と睡眠の縮小で、体調がどんどん悪くなり、下血を大量に起こして休むことになりました。
下血は時には危険なものだということで検査を受けました。結果は、
難病の潰瘍性大腸炎
ということが判明しました。私は、2ヶ月の長期休暇を余儀なくされました。私は、またしても体調を崩してしまったのでした。
更に悔しいことがありました。2ヶ月の休暇中に、私の開発した商品が売れまくっているということで社長から食事会のご褒美をもらったそうです。でも私は出席できませんでした。かわりに皆が高級ステーキを前にピースしている写真が私の元に送られてきて「ヒロ君ありがとうね!」なんてメールが届いて、悔しくて泣いた。
更に秋のボーナスもゼロでした。会社に貢献して頑張ったのに私の恩恵は全くありませんでした。
そして、2ヶ月の休暇が終わった後、精神科病院のスタッフとカフェの部長と私とで3者面談を行いました。私の働き方についての話し合いです。私に1人だけで何もかも任せるのではなく皆で助けて支えてあげてください。そんな話でした。
すると部長からあることを言われました。
「うちの会社は慈善事業じゃねぇんだよ!」
私と病院スタッフは「え!?」と唖然としました。むしろ、働くのが難しいなら辞めてもいいぞ、のような雰囲気の言い方もされました。それで話は止まり、終わりました。
病院スタッフからは「力になれずすみません。」と言われたが、自分のことで精一杯やってくれたことに感謝しました。
部長は、私に働きやすい環境を与えてくれると言ったのに、だから入社したのに、と思ったのですが、私はただただ技術と知識の搾取をされて、壊れた私はゴミ箱にポイっと捨てられる、そんな使い捨ての存在だったのです。
更に、それから私はカフェのお菓子部門から外されてお菓子は一切作らせてもらえなくなりました。その後の仕事は、お菓子部門が作るお菓子の包装という「詰め所」というところで働くことになりました。
しかし、時は「コロナ禍」。パート従業員の大量退職がありました。「詰め所」は元々4人でやっていた部署でしたが、とうとう私1人になってしまい、これまでの仕事量はそのままで1人で包装の仕事をすることになりました。
それは、1人という密な仕事で、助けてくれる人はいませんでした。食べ物なので、明日に回せばいいなんてことは出来ないですし、時間がなければお昼ご飯も食べずにひたすら働くしかありませんでした。
しかし、この異常な状況にお菓子部門の上司や、部長に相談しました。「すぐに対応する」と言ってくれるものの結局1人で半年以上も「詰め所」で働いていました。
4月になれば新入社員も入るということで期待もしましたが、結局改善されず、私は、お菓子が作れないことや、1人での過酷な「詰め所」の仕事に解放されたいと思い、退職することに決めました。
何よりも、潰瘍性大腸炎が悪化してしまい、下血がひどくなってしまい、強い薬を飲んでも改善されないので主治医の先生から「仕事を辞めなさい」と言われました。
そして、退職する最後の頃にお菓子部門の主任からあることを言われました。
「君の持ってるデータ。全部置いてってね」
それは、私が必死に作ったレシピのデータを会社に渡せというものでした。会社で作ったものだけではなく、プライベートで作ったレシピまで没収されました。
でも、それに従うしかありませんでした。地元でトップで世界的有名カフェの指示に逆らったらもう地元に住めなくなるかもしれないという恐怖があったからです。そんなことになったら家族にも迷惑をかけてしまう。私は、本当に全てのデータを渡し、またそれらのデータを今後使わないように主任に命令されました。
数年経ち、そのカフェでは、それらのデータを使って今でもお菓子を作っています。SNSを見れば、構成も味わいも私が作ったままのものが世間では人気になっているようです。悔しいですが、入社した会社が悪い場所で、自分の運の悪さにも原因があると思って流すしかありませんでした。
しかし、私は一時的な期間かもしれませんが最高最大の舞台でお菓子作りの仕事をすることができました。最終的には1人で何もかもやってしまい、吸収することはありませんでしたが、「1人で戦う力」を身につけることができました。
話は変わり、先日に私の通う福祉支援センターの講習で「イケてる自分とダメな自分」について話し合いをしました。
私は、過去に有名カフェでお菓子の仕事をして、今では自分のお店を持ち、自分の厨房でお菓子を作っていることに対して、ある職員が私に言いました。
「では、あなたは過去に働いたカフェのレシピを持っているから自分のお店で活用してたり使っているのですね?」
この言葉にちょっとなんと言おうか迷いましたが、私らしい言葉で返事を言いました。
「カフェで私の作ったレシピは今でも使われているし売られてもいます。でも、私はそれらのレシピは一切使っていません。
なぜなら当時のそのレシピの100倍いいレシピが今は描けて手元にいっぱいあって溢れ出てきていますから。」
人は、過去の栄光や良いことにいつまでも囚われてはいけないと思います。人は年をとり時代は変わります。ある漫画で好きなシーンがあります。「停滞は衰退ぐらいひどい」的なストーリーがあるのですが、人は常に進み続けないといけないと思います。
私は、カフェの部長のお誘いの言葉から入社しましたが、もしかするとその甘い言葉で気持ちのどこかで停滞していたのかもしれません。
今は、その部長は有名カフェを退職したという風の噂を聞きました。主任もいなくなった話も聞きました。このストーリーの真実を知る人はもういないことでしょうし、その部長さんも、もう忘れていることでしょう。
でもカフェの部長は私を裏切ったけども、ある意味「最高に育てて」くれたのかもしれません。なぜなら今では、私の思う通りに美味しいお菓子が描けるようになれて、食べてくれるお客様からは「美味しかったです!」「またお店に来ました!」なんて言われるようになり、私の実力は確かなものになって、私のお店「お菓子工房たびこ」の将来はとっても明るいものだからです。
あとがき
私は、未熟者で障害者であっても難病を持っていようとも、それでも生きていかなければいけません。それは「自分の力で生きていく」という学びを人生の全てをかけてようやく私らしい、自分の生き方を見つけることができました。
自分の人生は他の誰かには決めることはできません。それはどのように生きていくか、目指すゴールは何か、そして次のスタートラインを決めるのは自分しかいません。自分の人生に責任を持つことや使命を持つということは近くにあって、分かりやすいように見えて、実は厳しく険しく遠くにあるものだったりします。
私の人生に巡り合った心に残る上司の言葉は、当時はひどく苦しいものでしたが、将来になってようやく理解ができて、今では生き方のヒントになっています。それは、未熟者で世間知らずでひどく罵倒されても、「私は料理人になる」「私はパティシエになる」という夢は揺るぐことはなかったのです。障害者であっても、難病を持っていようとも、ハンディーキャップがあろうとも、夢を実現できるほどのバイタリティをGutsヒロは持っていることを証明してくれたようなことでした。
だから、今では厳しく言われた言葉に感謝しています。今回の3つストーリーで出てくる上司の言葉は苦しいものでしたが、それがなかったら本当に強い私になることはなかったかもしれません。
有名カフェの主任に私が作ったレシピのデータを全て没収されました。でも、その後ゼロからレシピを作り始めたときの話です。他の周りの人の技術に合わせて作っていたレシピ作りから解放されたので、自分だけの自分のためのレシピが描けるようになり、いつの日からか試作しなくてもイメージだけでレシピが描けるようになり、1日に20〜30ぐらいのレシピを書くこともありました。
そして、いつの日かスイーツコンテストに出場し、「超絶技巧賞」という賞をいただくほど私の実力は確かなものになりました。
しかしながら、既に長文になっていますが言わせてほしいことがあります。
私のように遠回りで必ずしも苦しむ必要はありません。人生は1度きりですし、人間の持つ限界も有限です。私は何度も死にそうになりましたが、このnoteを読んでGutsヒロみたいな人生にはなりたく無いなぁってちょっとでも思ってくれれば私は嬉しいですし幸いです。皆様の人生がより良いものになることを私は願っています。
最後に余談かもしれませんが最後に一言。
難病があって、障害もある私ですが最近、自分を大切にしようと思っているのです。体を労るというか。それは、自分のためではなく私のファンのために。
嬉しいことにいっぱい「美味しかったです」とか「ありがとうございました」って自分のお店を開いてから沢山言われるのです。こんな嬉しい言葉を頂けて本当に幸せです。でも私のお菓子のレパートリーはまだまだありますし、将来は美味しくて幸せなことがいっぱいあります。1日でも長く健康で職人として全うし、幸せで愛の満ちたお菓子を1日でも長く提供するために励みたいと思い、新たな目標で健康でいることを頑張ろうと思っています。
それが、私の新しい使命です(^^)
ここまでの長文を読んでくださり、誠にありがとうございました。
また次のnoteでお会いしましょう!
Gutsヒロ
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