スタァライト考察(未完)
※ この記事はスタァライトアドベントカレンダー2023に参加しています。
はじめに
昼は哲学科の学生として黒板を見れる位置に座って、夜はバイト講師としてホワイトボードを背にして立って、時間を軸に対称的な半回転を繰り返す生活にキラめきが添えられたのは3月に劇スを見てからだった。
なんとなくスケジュールが合わなくて見れてなかった劇場版スタァライトの再演が、それなりに近くの映画館で、いい感じの時間にあって何となく見に行っただけだったが見終わった時には既に舞台創造科になってしまっていた。何回も見て考察を練り直す日々の果てに『卒論集』に出会い、そこに書かれた論文の数々に衝撃を受けて、また練り直してバラバラに考えてを繰り返しながら本稿は書かれている。
本稿は特に漁夫氏の論文、「スタァライトの誕生 哲学・神話学から読み解くスタァライト」に強い影響を受けて書かれている。
https://note.com/starlight_paper/n/nc0f857029e02
1-1 スタァライトをスタァライトたらしめるものは何か? 神話の構造について
『戯曲 スタァライト』とは結局何なんだろうか、というのはスタァライトの考察に関わる者は必ず避けては通れないものだろう。私たちはよくTwitter(X)で「○○は××で△△だから実質スタァライト」というツイート(ポスト)を見かけるだろう。例えばシン・ウルトラマンはツダケンがナレーションしてるから実質スタァライトとかproduce101は歌って踊って奪い合ってるから実質スタァライトなど観測範囲では数え切れないくらい程である。では本当の意味でスタァライトをスタァライトにするものとは、ひいては「スタァライトらしさ」とは、スタァライトの構成物はとは?
テレビ版スタァライトから読み取れることは、フローラとクレールという2人の主人公が出てくる、約束がある、星摘みという概念が現れる、星を摘むことが出来れば願いが叶う、しかし星を摘み取ることは星罪であってその結果、2人が別れる悲劇の結末が待っているなどだろうか。では先程言及したスタァライトをスタァライトたらしめるいわば「スタァライト性」とは一体何であろうか?
皆様もご存知の通り、すべからく神話や古典は再解釈や伝承の過程で本来の話から大きなズレなどが発生する。そもそもTV版スタァライトで華恋が本来の結末をねじまげているのだ。しかし再解釈されても変わらないものがある。桃太郎であれば元の伝説は岡山県の辺りに伝わる吉備津彦命という皇族が家来を引連れて温羅という鬼を討ったという話だがこれが桃から生まれたということになっても、3人の家来がいつの間にか動物になっていても、1人の英雄が鬼を討ち果たすという話自体は変更されていない。ということは劇スやアニメ版スタァライトなどから読み取れる『現代のスタァライト』から原型の『スタァライト』を復元し、『スタァライト』が何を伝えたかったのかを読み取るということが出来るのではないか?
『戯曲スタァライト』は古い物語や神話が改変を繰り返されながらもどこか底に共通の成分を含みながら伝わるという神話の構造と類似している、と考えられないだろうか。
神話の共通成分とは何か、という点においては宗教学者 キャンベルの『千の顔を持つ英雄』が詳しいだろう。要するにどの地域のどの国の神話にもある程度共通するところがあるという話なのだが特に英雄の物語というのであれば脱出、試練、帰還というフェーズを踏むのだとキャンベルは主張する。日常世界から離れ、試練を受け、超常的な力を借りて敵を打ち倒し、財宝や素晴らしい何かを手に入れる。例をあげるなら桃太郎などがこの類型である。桃から生まれた男の子が成長し、日常世界から離れて鬼を打ち倒す旅に出て、きびだんごの力で味方になった犬、猿、キジと共に鬼を討ち果たし、奪われた財宝を持って日常世界に帰る。日本建国神話においても建速須佐之男命(スサノオ)の娘、須勢理毘売命(スセリヒメ)に一目惚れした大穴牟遅神(オオナムヂ)がスサノオに娘を渡す相手として相応しいか試され、スセリヒメの助けを受けながらそれを突破しスセリヒメとの結婚を許されて大国主と名を貰い、日本国を建国したというくだりがある。現代の話にも通じるところがあり、『スターウォーズ』ではこれもやはりフォースの力に目覚めて日常世界を脱出し、修行を行い力を制御できるようになって帰還するという手順を踏んでいる。このような神話の奥底に共通してある何かを19世紀の精神科医が創始したユング心理学では原型(アーキタイプ、英 archetype)と呼ぶ。
先述した漁夫氏の論文 『哲学・神話学で読み解くスタァライト』では、1800年代を代表する哲学者・文献学者であるフリードリヒ・ニーチェ『悲劇の誕生』 を引用し、スタァライトがニーチェの言う悲劇の類型に当てはまるとしている。確かにアニメで紹介されている『戯曲 スタァライト』は悲劇だろう。しかし本当にスタァライトをスタァライトたらしめるのは悲劇が条件と思うだろうか?TV版スタァライトの結末は今更説明するまでもないが、地下の舞台から愛城華恋が神楽ひかりを救い出し、別れずに終わるハッピーエンドである。もし、悲劇をスタァライトの条件に加えてしまうのなら、TV版はスタァライトにならない。悲劇であるかどうかは、スタァライト性には関係がないと考えるのが自然だと考える。
1-2 スタァライトの構成要素
では条件らしいものは何か、まずひとつそのうちの一つだと考えられるのは「塔」であると考えられる。塔といっても塔そのものではなく、傲慢さの象徴、としての塔である。塔が関わる神話として最も知名度があるのは、恐らく『バベルの塔』だろう。天にも届く塔を建てようとした結果、神の怒りを買って雷を落とされ、それどころか言葉がばらばらになってしまったという話だ。現代の科学から考えてしまえば、高いところにあるものには雷が落ちる、と言うだけの話だが古代の人はそれを神の怒りと考えていたことがうかがえる。タロットカードの大アルカナでも塔は正位置で破壊、破滅、崩壊、災害、悲劇、悲惨、惨事、惨劇、凄惨、戦意喪失、記憶喪失、被害妄想、トラウマ、踏んだり蹴ったり、自己破壊、洗脳、メンタルの破綻、風前の灯、意識過剰、過度な反応、アンチテーゼ、自傷行為、精神崩壊とろくなものがない。逆位置でも緊迫、突然のアクシデント、必要悪、誤解、不幸、無念、屈辱、天変地異 (※1) とまるっきりろくなことが書いていない。タロットは普通、逆位置に悪いことが書いてあるのだが唯一塔は両位置に悪いことが書いてある。更にはかつて塔は監獄として使われていた歴史もある。世間から隔絶している、神の怒りを買う建物、ということもあり罪人にふさわしい場所だと思われていたのかもしれない。余談だが監獄塔として最も有名だったものとしてはロンドン塔がある。正直これが塔なのか?と思う形ではあるが。
しかし、「塔」には傲慢さの象徴としての役割の他に、「重力への抵抗」という側面も同時に認められなくてはならないと考える。TV版1話でキリンが「普通の喜び、女の子の楽しみ、全てを焼きつくし、遥かなキラめきを目指す」と言っていたように、彼女たちは常に「普通の喜び、女の子の楽しみ」という下側に押し付けるような誘惑と戦うことになる。誘惑と言うだけでなく、星見純那のように親からの反対や、ライバルと自分を比較しては自らの能力不足に苦しむなど、諦めてしまえば、投げ出してしまえば、堕落を受け入れることが出来たなら楽になれるシチュエーションは十分に想定される。そうした下に向かわせるありとあらゆる「重力」を跳ね除け、自らの目標のために、上へ上へと登るために自らの中に「塔」を必要するのだ。劇場版のレヴューを読み取る限り、必ずモチーフとして塔が出現する。皆殺しのレヴューでは、地下鉄の線路を抜けて、真矢とななが対峙するシーンで都会の煌々と光る摩天楼の数々が映る。怨みのレヴューでは2人がセクシー一本堂を出て、清水の舞台の上でレヴューを始める時、五重塔が映る。競演のレヴューでは聖火台と終盤で東京タワーが出現する。狩りのレヴューでは大道具の星摘みの塔が、魂のレヴューでは大きな十字架が、最後のセリフでは東京タワーが同じように出現する。怨みのレヴューや皆殺しのレヴューでは「塔」を使うことすらしないのに、物語上必要でもなかったのに、である。これは舞台少女達が自らの内面に建てた「塔」を表したものだと考える。
もうひとつは「星」だと私は考えている。本当の星ではなく、キラめき、上昇する意思、希望と理想のメタファーとしての「星」である。『戯曲 スタァライト』では星を摘むことでどんな願いも叶うとされ、「オーディション」では全員の「星」を奪い取ることで望んだ舞台に立つ権利を得る。愛城華恋と神楽ひかりのスタァライトも二人で見た『戯曲 スタァライト』に魅せられて二人でスタァライトするという希望を持つところから始まる。
また、古代より伝わるラテン語の有名な成句として「Per aspera ad astra」(困難を乗り越えて星の世界へ)というものがあり、「星」というものは古代より希望のメタファーだったことは明白である。「星」もタロットカードの大アルカナのひとつであり、正位置で希望、ひらめき、願いが叶う、絶望からの再生である。しかもタロットカードの「塔」と「星」は隣合わせであり、塔の次が星なのだ。
天高くに目標とする「星」があるからこそ、それを掴むために人は「塔」を建てる。その「塔」がいかな神罰を受けても、困難に苛まれても登り続け、いよいよその「星」に手を伸ばす。これがスタァライトらしさなんじゃないかと私は現時点では考えている。
2-1 神楽ひかりと野生について
ワイドスクリーン・バロックというSF小説のジャンルがある。とにかく多くの要素を詰め込み、とてつもなく大きなスケールで展開されるスペース・オペラだと考えてもらえれば良い。数作読んだことがあるが、映画館のスクリーンを次々と飛び越え、場面が切り替わる事に全く別の映画を見ているような感覚を覚える。読みやすく、SF初心者でも問題のないワイドスクリーン・バロック小説の書き手と言うと草野原々氏などが挙げられるだろうか。これがwi(l)d screen baroqueの原型であることはもはや言うまでもない。スクリーンを次から次へと飛び越し、場面が切り替わる度に全く別の映画のように感じられるという点で劇スに近いものを感じた方もおられるのではないだろうか。劇ス冒頭で神楽ひかりが述べる口上の一説に「それが野生の本能ならば」とあったようにワイドスクリーン・バロック概念に野生の要素を付け足したかったものだと私は考えた。実際、舞台少女は弱肉強食、優勝劣敗である。ではなぜ、冒頭で神楽ひかりは「野生の本能」と言ったのか、正確に言えば何故劇中で最も早く「野生」という言葉を言うに相応しかったのか。それは彼女が最も野生に近いからと言わざるを得ないだろう。二次創作では度々生活能力の低さ、根本的なコミュニケーション能力の欠如、奔放な性格から「幼稚」として扱われるが実際のところはそうでも無いというかどちらかと言えば「野生」なのである。(※2)
思考を言葉にするより行動に移してしまいがちなため、コミュニケーションで誤解を発生させやすいという点と強いキラめきを見ると咄嗟に逃げ出すという点から見るに生態が野生動物に近い。しかし聖翔音楽学園に慣れきってからはスタリラのシアターを見る限り、お腹がすいても冷蔵庫にすぐ食べられるものが寒天しかなかった時に自作せずにご飯を作れる人を待っている、服を脱ぎ散らかしてはまひるに怒られて反抗するなどから見るにイエネコの生態に近いとも言える。
ただ「今の私がいちばんわがまま!今の私がいちばん綺麗!」と最後のセリフの中の口上で述べていた通り、そういう「野生」の状態が最も彼女のキラめきを増幅できるという側面は否定できず、あのスクリーンで見たキラめきに魅了されてしまった私としては、ロンドンで共同生活を送っている大場ななが少し気の毒ではあるがそのままでもいいように思える。設定資料集Memorie of Revueで「わがままでごめん」と愛城華恋に謝るセリフが削除されていた。これは偉業と言うべき所業であり、神楽ひかりはそのわがままさと罪深さを謝ってはいけない。そういう生き物だからだ。
2-2 神楽ひかりと慈悲について
前章は少し話が逸れたのは言うまでもないがここからはまともな話をしたい。神楽ひかりの持つ短剣、Caliculus Brightはスティレットのような形をしている。スティレットとは中世で使われていた短剣の一種であって、十字架のような形状で先端は細く、リーチは長くても30cmほどでとどめを刺すために使われていた武器である。この時代は鎖帷子や鎧が発達し、なかなか長剣1つでは致命傷を負わせるが難しかったが故に鎧で覆われてない場所をスティレットで刺すという設計思想だったようだが、次第に即死できず、苦しんでいる敵に慈悲の一撃を与えるために使われるようになった。もうひとつ、神楽ひかりと「慈悲」が関わるものがあり、最後のセリフでトマトが爆発し、愛城華恋が倒れ、それを神楽ひかりが抱きかかえるシーンがあったと思われる。これはまさにキリスト教芸術のテーマとしてよく用いられてきた「ピエタ」の構図に他ならない。聖母マリアが磔に処されて死んだキリストを抱きかかえる構図の作品のことで、最も有名な作品はミケランジェロの作ったサン・ピエトロのピエタという彫刻だろう。「ピエタ」というのはイタリア語で「慈悲」をあらわす単語である。
ジーザス・クライスト・スーパースターの「Super Star」が流れるシーンと最後のセリフがよく似ていることはあまりに有名だが、華恋がキリストならば、ひかりは一体誰なのだろうか。ジーザス・クライスト・スーパースターを参考にすれば、イスカリオテのユダ、ピエタを参考にすれば聖母マリア、TV版スタァライトで「罪深さ」を背負った点からはマグダラのマリアとも考えられる。「舞台の上ならどんな私にもなれる」と幼いひかりは言っていたが、誰にでもなれる可能性を有しておいてこその舞台少女なのかもしれない。
3-1 劇スの「エモさ」について
大多数、ほとんどの人間に「感情」はあるだろう。「俺には感情がない」とか言い出すのは中学生の一部のサイコパス気取りの人間くらいなもので基本的に人間には感情という機能が備わっている。しかし不思議なもので、感情は形を持っていない。外から見ることは出来ない。生活の中で、他人とコミュニケーションを取る中で一度くらいは思ったことがないだろうか 「この人は一体何を考えているんだ?」だとか「悪いやつじゃなさそうだけど何考えてるかわからないな……」と。逆に「自分の思いがどうして他人に伝わらないんだ」、「どうして誤解されてしまったんだ」と思った事もあるだろう。他人の心は完全には理解できない以上、コミュニケーションの齟齬が起きてしまうことは往々にしてある。
むしろ、我々は形も見えない、観察も出来ない心を用いてよくここまで「普通」にコミュニケーションをとることが出来ているな、とすら思わないだろうか。しかし現に私たちは人の心をある程度は予測できている。こうした「他人の心を推し量る」機能のことを発達心理学などでは「心の理論(英 Theory of mind)」という。これがあることで自分だけではなく、他人にも心があることを理解し、他人の感情を推し量り、他人の行動を予測するということが出来るようになる。(※3)
話は一旦変わるが、皆さんは「エモい」という言葉をご存知だろうか。恐らく使ったことがあってもなくても見たことはあるはずだ。よく劇スの初見感想でも見る言葉だがこれは一体どういう意味か。インターネットで検索すると「感情が動かされた時」とか「趣がある」とかそういった意味であるらしい。元々は英語のemotional(感情的に)から来た若者言葉らしい。意味がふわっとしていて頭で理解しようとすると中々厳しいが、何となくわかるんじゃないだろうか。劇スを見終わった時のあのなんとも言えないような言語化の難しい感情、あれの事をエモいと指すのならば読者の皆さんもあの感覚のことか、と合点が行くんじゃないかと思われる。少なくとも筆者は劇スを見ることで初めてエモいという言葉の意味を心で理解出来た。
では何故、劇スはエモいと感じられる人が多いのだろうか。それは感情の実在性が強いからだと考えられる。先程述べたように普段私たちは心の理論を持ち、日常生活の中ではこの人は今こう思っていて、次この行動をとるだろうと無意識的に推測して動く。物語を読んだり見たりしていて、例えばそれがラブコメディだったりすると、主人公がヒロインに無神経なことを言って不機嫌になられた時に「そりゃそんなことを言ったらヒロインは不機嫌になるでしょ」と思う。こうした推測に満ちていて、実際にどうだかわからない人の心の中身を推し量る働きをを弱い実在性の感情と定義してみよう。
それに対してスタァライトは監督インタビューで「実はレヴュースタァライトに物語は無いんです、彼女たちの感情で前進していく」と明言している通り、感情が実在していることがそもそもの基底を成していてこの時点で普段の私たちの生きている弱い実在性の感情の世界とは異なり、強い実在性の感情だと言うことが出来る。ストーリーの中に感情があるのではなく、感情の中にストーリーがあるという極めて珍しい作品だ。キャラクターはこの世界に存在していないのにも関わらず、感情と関係性だけは実在しているように見えてくる。
お詫び この先がまだ未完成です…… !一日遅刻した挙句未完とかふざけているのかと言った感じなのですが本当に申し訳なく思っております。原因としましては3章で扱った心の哲学について私の今の力量が全く足りていないということが1番です。論の行先としましては、感情の実在性の高さがエモさに繋がると考えておりまして、実在性の極めて高い劇スはエモいという話なのですが、実在性の高さをエモさに繋げる議論がまだまだ甘く未完成になっております。今は今はと言い訳重ね生き恥晒した醜い果実ですがただいま参考文献を読み漁っているところなので気長に更新を待っていただければと思います。
(※1) スタリラのストーリー、アルカナ・アルカディアで神楽ひかりは塔の役を務める。 そのうえで「記憶喪失」という正位置を持っていることは偶然ではないように思う。
(※2) ボコボコに言ってますが断っておくと私は神楽ひかりが最推しであり、嫌いな訳では無いのです。自分の本名を入れた判子を痛印堂さんに作っていただき、それをLINEのアイコンとして使っているほど好きです。
(※3) 一部自閉症スペクトラムのような発達障害を持っている方は、心の理論を持たない、発達が遅いということがある。あくまでここでは議論を進めるためにこういうざつなくくりになってしまったのであって、発達障害の方を普通から外れているなどという差別的な意図を持っている訳では無いということを申し上げておきたい。
参考文献(現時点)
プレステップ宗教学 石井研士 弘文社
心の哲学入門 金杉武司 勁草書房
悲劇の誕生 フリードリヒ・ニーチェ 訳 秋山英夫 岩波文庫
Theory and Reality P.G Smith The University of chicago press
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