「声をかける」ということ
たしかまだ、長男が1歳の時のこと。
最寄りではない、少し離れた駅へバスで一緒に向かったことがあった。
運よく座ることができたので、ベビーカーを畳んで子どもをひざの上に。
終点まで、停留所は15か所ほど。
スイスイいけば25分くらいで着く道のり。
が、そういう時間帯だったのか、タイミングが悪かったのか、
道路は渋滞、一切通過はなくすべてのバス停に停車、車内は大混雑。
バスが動かないのが嫌なのか、混み合って人が沢山いるのが怖いのか
長男が途中からぐずり出した。
抱っこしてみたり、揺らしてみたり、外の景色を見せてみたり、
色々試してみるけれど、どうにもこうにもおさまらず
いよいよ大声で泣き出す。
対照的に静まりかえる車内。
何となく周りからの目線を感じて、顔が上げられなくなった。
「あと少しだからね」
そう何度も何度も長男に話しかけたけれど、本当は自分自身に向けた言葉だったようにも思う。
あと少しすれば、この視線から、この申し訳なさから
解放されるから、って。
その「あと少し」はとてつも長く感じられた。
長男が泣いていたのは多分10分とか、15分とか、そんなもんだと思う。
時計を見る様な余裕もなかったから、もちろん正確には分からないけれど。
終点に着いた時は、ただただほっとするばかり。
でも、やっぱり顔を上げられなかった。
どんな目で見られてるんだろう。
「子どもが小さいのに出かけるな、バスに乗るな」「親なら黙らせろ」
口に出しては言わないけれど、顔にそう書いてある人が
すぐそこにいるかと思うと。
他のお客さんが下りるのを待ちながら、なんとなくぼんやりしていた時
背後から、ひとりの女性に声をかけられた。
『これ私が持つわ』
そう言って、畳んだベビーカーをバスから下ろそうとしてくれた。
「いいですいいです、大丈夫ですから」と断ったら
『ううん。持たせて。私もね、子どもが小さいとき、バスに乗れなかったから・・・』
と。
泣き止まない長男をあやす私に、昔の自分を重ねてたなんて、
その言葉を聞くまでは想像もしなかった。
心細かったバスの道中、
同じ空間に、気持ちを察してくれる人がいたんだ、と思うと
何だか救われたような気がした。
同じように思ってくれた人は他にもいたかもしれないけれど
ひとりだけでもいたのか、いなかったのか
それが分かっただけで気持ちがこんなにも違うものなのか、と思った。
もちろんベビーカーを運んでくれるのもありがたかったけれど
子どもを抱えながらベビーカーを下ろすのは、慣れてしまえば、まあ何とかなる。
でもその女性は、ベビーカーよりもずっとずっと重たいものを
私の肩から下ろしてくれた。
時が経った今、改めて振り返ってみると、これって何だか悲しいことだな、と思ったりもする。
いわゆる子育て支援は随分色々と手厚くなったのに、
多分ふたまわりくらい年上のその女性が子育てしていた時から
子どもが騒ぐと周りからの目線が気になって、
とてもじゃないけどバスに乗れない・・・
って状況はあまり変わっていないということなのかもしれない、と。
もしかしたら、あの女性が私にしてくれたのは、
昔、自分が子どもを抱えてバスに乗ったときに
ご自身が1番求めてたことだったのかもしれない。
時折、どうしようもなく子どもがぐずって困ってる人を見ると、
あ、今度は私の番かな。
なんだかそんな風に思えて、声をかけたりする。