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バイオダイナミック農法のアルケミ― (聖なる農業 第二章の3:空気)               Sacred Agriculture         ーAlchemy of Biodynamics by Dennis Klocek より


第二章 〖物質の変容〗の3:空気

空気(風)の意識

さて、これから取り上げるのは空気の要素、これは私の好きな分野です。空気を理解することの難しさは、私たちは決して本当に空気を理解することはできないことにあります。なぜなら、あなたがとうとう空気を照準に捉えたと思った時、空気はいつも別の何かになってしまうからです。35年間の気象研究の中で、私はこのことの意義が分かってきました。なぜなら、間違いを犯すのは、常に何かを理解したつもりになっている時だからです。気象と取り組むのは、自分が知っていると思っていることは、常に真の全体像の一部に過ぎないということを学ぶのにとてもいい方法です。完全には知らないという意識が空気の意識です。自分の言っていることを理解しきれてはいないと気づく瞬間、それが錬金術における空気の要素なのです。

錬金術における空気は常に、”最も重要なことは空気が希薄な空の上にある”という気分をもたらします。それは、あなたがちょっと把握できないところにある。何かに取り組もうとしているのですが、それを理解することができないように感じるとき、何かを理解しているつもりでも、誰かに質問され、自分が理解していないことに気づくとき、これが錬金術における空気なのです。アルケミストはこれを逆転(Reversal)の感覚と呼びます。逆転によってあなたは、自分自身の誤解という壁にぶつかるのです。それは、霊界の存在たちが私たちの学習を助ける主要な方法です。空気とは、信念の逆転に耐えることによって学ぶことなのです。

自分はミスを犯さないと考える人は、自己欺瞞への道を歩んでいます。あなたがぶつかる目に見えない壁は、あなた自身の信念体系です。これが錬金術における空気であり、隙間のあるところに生じるのです。自分の信念が逆転してしまい、そこにある隔たりがよく理解できません。このような逆転は、実は贈り物なのです。なぜなら、逆転を脅威ではなく贈り物として経験できれば、世界の間の扉が開き、学ぶことができるのです。その扉は、偉大な宇宙の風の中で開いたり閉じたりしています。秘教探求者としての私の仕事は、その開閉のリズムを学ぶことです。そこには、裏庭の雨水桶に溜まった水に宿る元素的存在たちや、惑星の軌道を司る存在たちの意識に入ることも含まれます。アルケミストとして彼らを理解するために必要な意識は、リズムの反転に波長を合わせたものなのです。”私は知っている”という意識から、私が知っていることの間にある隙間に焦点を当てる意識に変えなければなりません。これには訓練が必要なのです。

現象学的に探究する時、私たちは何か(自分ではないもの)を見ていると信じています。現代の物理学者なら、そのような信念を問題視するでしょう。そして、あるものが存在するように見えるのは、ある面私たちの、”それがそこにある”という信念に関係していると言うでしょう。秘教探求者なら、何かがそこにあるように見えるのは、私が、"それが、そこにあると思う "と言うためだと、言うのです。

私が " あっち " と呼んでいるものは、私が " こっち " と呼んでいるものとは別のものだと信じるのは、人間の意識の方向性(ベクトル)です。こことそこを別々の場所として認識することは、世界が別々なものの集合であるように見える意識の働きです。この見え方は地の要素の意識です。その別々の実体が、時間を経て変化します。それが水の要素です。そして、変化し続け、とうとう最初とは全く正反対に見えるほどに変化します。これが空気の錬金術的意識における反転作用です。

すべての形はどこかから来て、どこかへ行きます。潜在的な存在としてどこからかやってきて、やがて地となります。地になった後、水になります。水になった後、反転して再び潜在性の領域へと向かいます。潜在性の領域、古代ギリシャ人がプレロマと呼んだ領域は、実体がそこから来てそこへ帰る場所です。その潜在性の領域への扉は、錬金術の空気の要素です。プレロマからやって来て、再びプレロマに戻るというリズムは、彼らの身体の形態言語の中に埋め込まれています。それは、彼らがどのような姿をとり、どのように身体が機能するかに組み込まれ、消化と循環のリズムに現れています。受肉と離脱の旅は、植物の茎に着く葉のリズムパターンに現れています。霊的な意味では、あなたが見ている植物は本物の植物ではなく、私たちが植物として認識している霊的存在の受肉と転生の活動の跡であり、言わば死骸なのです。形態のリズムは、あなたの塩(Sal)意識と方向性(ベクトル)において、反応しているのです。

場と方向性(ベクトル)


ベクトルとは、他の力に間接的に影響を与える力のことです。もし私が飛行機を操縦してサクラメントからサンノゼに行きたい時に、時速50マイルの風が北から南に吹いているとします。もしサンノゼに直接進路を取ると、ベクトル風によって南へ押し流され、モントレーまで行ってしまいます。私の本来のコースに影響を与える風がベクトルです。元の力ではないけれど、元の力に作用する別の力がベクトルです。けれども、それは計算に入れておかなければならない。つまり、生物組織は自分自身ではないものに適応しなければならないのです。これがベクトルです。ベクトルは空気の意識をよく表しています。生物組織を何か別のものに変化させるものはすべて、空気と呼ぶことができます。空気は反転です。

しかし生物学では、ベクトルには必ずしも方向性はありません。シカマダニは、ライム病菌を宿主から宿主へと運ぶ "病気のベクトル "です。身体においては、ベクターという考え方はより微妙になります。葉の成長を思い浮かべてください。その全体的な形は方向性を持たないと、思えます。しかし実際はその形は、葉を成長させるために葉の中を流れる力を表しているのです。
その力は葉脈の中央部から周辺部に向かって流れている、と思えます。本当にそうですか? 実験してみましょう。小さな葉を選んで、それが大きな葉に成長するのを観察するのです。難しいのは、その成長の時間的経過をとらえることです。だから完成した形として葉を見たとき、葉の成長を決定する力は私の感覚では捉えられません。しかし、私の心(Heart)を使って葉を観察し、空気の意識のリズムに入れば、その葉が”成っていく”(成長する)ジェスチャーが見えてきます。私の心の中で葉を成長させると、葉の形は方向性を持つようになるのです。

それでも、まだ疑問は残ったままです。一体 葉の形にはどんなベクトル力が働いているのでしょうか? 一つ素晴らしい実験をしましょう。一つの植物の、小さな若い葉っぱを選び、カッターナイフで小さな四角を切り取り、そのまま葉っぱはその茎に残しておきます。2、3日ごとに観察し、どのように成長したかを記録するのです。一方向に成長するだろうと思いきや、そこには全く別のトリックが隠されています。実は葉はホログラフィックに成長します。葉は大きくなるけれど、四角い穴は四角いままです。中央から成長し、葉脈に沿って伸びていくのではないのです。成長するすべての部分は最初から葉の中に存在し、他のすべての部分と関連しながら拡大していく。ここに、空気の要素の驚くべき力を見ることができます。すべての部分が他のすべての部分と関連して成長するという成長の仕方は、場の働きの例であり、錬金術的な空気のあり方です。

場(Field)は潜在的ベクトルでできています。ゼリーの片方にマシュマロ、もう片方にレーズンが入っていて、私はレーズンよりマシュマロが好きだとする。そのゼリーをスプーンですくってマシュマロを取り出そうとしたとき、レーズンは動きますか?もちろん、私はレーズンには触れていないけれど、レーズンは動きます。私はマシュマロが欲しいのですが、ゼリーもマシュマロもレーズンも場の一部なのです。場の中で何かを動かすたびに、場に潜在する力のベクトルによって、他の何かも動かされる。ベクトルはすべて顕在化しているのではなく、むしろ場の中の潜在的な力の通り道なのです。ベクトルは、外から作用する多くの力の影響を受ける、潜在的な可能性として場の中に存在します。外部からの力が場に及ぼす潜在的な影響を計算するのは非常に困難です。これがベクトルというものです。ある特定の意図を持って始めたことが、突然別の場所に行き着く。その目に見えない網が場の特性であり、これをアルケミストは空気(風)の要素と呼びます。つまり、目に見えるものは、そのもののほんの一部に過ぎないということなのです。空気(風)は錬金術の概念としては理解しにくいものですが、とても重要です。
ここで、アルケミストならば空気(風)の例とする、水中のある物理的反応を紹介します。界面活性剤の実験です。界面活性剤とは、液体の表面張力や界面張力を変化させる洗剤などの物質です。この実験では、それぞれ5ガロンほど水の入った大きな平らなトレイを2つ使います。これらは一本のの棒に並べて固定されているので、同じように動かせるようになっています。それぞれのトレーの片方の端に引き金があり、引き金を押すと、両方のトレーの端が同時に約4分の1インチ下がります。トレイが下がると、トレイの中の水は反対側の端に向かって波を伝播します。波はそれぞれのトレイの反対側の端に当たって戻ってきます。今、2つの波がトレイの中を同期して動いています。ここで、実験者は実験にベクトルを加えます。5ガロンの水を入れたトレイの1つに、洗剤を1滴加えます。実験の始めには、2つのトレイを動く波は同期していた。しかし、洗剤が1滴加えられると、そのトレイの最初の戻り波が遅くなり、洗剤のトレイの3番目の波では、5ガロン全体の動きが止まり、もう1つのトレイはまだ振動しているのがわかります。これが、5ガロンの水に1滴の洗剤を入れた場合の効果です。洗剤は水の場の特性を変化させました。 水の力にベクトルを与え、それが場全体と反応して、その構成を変えたのです。

水は特定の性質の力を持つ場です。その力のひとつは、流れる能力です。錬金術的に、水の流れは空気(風)なのかそれとも水なのでしょうか?アルケミストは、流れる性質を持つ場は空気の要素と結びついているが、物質としての水そのものは水であると言うでしょう。原型としての水は、その内なる重力構造のために球体になろうとします。だから、錬金術的に水は水なのです。けれども、水溶液や化学反応に積極的であるし、流れる水はより空気の要素に近くなっています。水は内側へ向けた表面張力を持っており、それで一つにまとまっています。空気は周縁を求め、外へと流れます。水の境界と表面は実際よりも活発です。したがって、豊富な内表面を生み出す流れる性質は、空気の元素に向かう水の作用です。反対方向、つまり重力原理と共に運命に向かう方向の水は、空気の性質を失い、水滴になります。空気は水の中で死に。水は空気の死骸なのです。

空気は流れ、空気のあらゆる部分が大気全体の場でつながっています。ここから、圧縮と希薄化も生じます。水は流れることができますが、基本的に水の要素の場の全体性は、重力によって地球の全体性とつながっています。溶けた岩石も水の要素です。そして流れる溶岩は空気の要素に向かっています。

骸と復活

上の2つの図はアルケミストにとって基本的で、秘教的な図象です。どちらも円ですが、右の図は中心に点があり、そこから放射状に線が伸びています。左の図は外周からたくさんの平面が中心に正対して向かってきています。右のように、中心の点から広がっていって円を作ることもできるし、左のように、無限外周から近づいてくる面で円を作ることもできます。どちらが本当の円でしょうか?これらは円の形成につながる呼吸過程の両極を表しているのです。中心から外に向かう呼吸の過程は重力(Gravity)の領域に近く、外周から内に向かう呼吸の過程は浮力(Levity)の領域に近い。水は浮力(Levity)の領域に行くことができるが、重力(Gravity)の領域に深い親和性を持っています。空気は重力の領域を訪れ、水に変わることができるが、火との親和性が深いため、やがて、水から空気に戻ります。空気は重力の領域を訪れることができるが、重力ではないし、水は浮力の領域を訪れることができるが、浮力ではないのです。

両者とも流れようとする傾向を共有していますが、水は重力の極(コアギュラ)に向かうことを好みます。これが、水が万能溶媒である理由です。しかし、水が溶媒であり、すべてを模写再生できるのは、水の中にたくさんの平面があるからです。それらの平面はじつは空気(風)の作用であり、水は2つの気体が一緒になって液体の状態に落ち着いたものだからです。気体である間は、それで手を洗うことはできないが、空気の要素が私たちのために犠牲となって死ぬと、すべてを引き受けることができるようになります。それが水になのです。

空気はあちら側に住み、ここを訪れるだけです。水はここに住み、あちらを訪れます。ルドルフ・シュタイナーは天周(Periphery)からの力を "平面の力 "と呼びます。それらは、無限に遠い宇宙からやってくる無数の光の平面を表しています。あらゆる方向の膨大な数の星たちやすべての太陽たち、つまり無限の周囲からやってきて、私たちの素晴らしい小さな惑星を照らす、光の平面たちを表しているのです。

科学的には、光はエネルギーの振動面として伝わっていきます。動きの方向に対して垂直な面が波動の前線を運び、そこに太陽光のエネルギーが当たるのです。それは目に見えない無限の面であり、あらゆる方向から絶え間なく私たちを貫いています。これは科学が量子と呼ぶものに近いです。生きた状態の空気(風)は光です。空気そのものは光の骸なのです。このように、名詞としての形と動詞としての形があります。私が何かを形作るとき、形ができて、それが残ります。名詞は骸であり、成っていく作用は動詞です。形の背後にある霊的な実体は動詞です。真の人間とは、語り、理解する光の柱です。私たちの地球上での形は、その光と温かさの骸なのです。私たちの光と温もりがその骸に宿っている間、私たちはその、骸を生かしています。目覚めて一日を迎えるたびに、私たちは物理的な地からなる骸を復活させるのです。それが浮力(Levity)であり、私たちの光、つまり意識が、それをしているのです。

空気(風)の要素を理解しようとするとき、ここにあるものの形は、それがどのように、宇宙の光から生まれて、骸になっていくのか表わす写し絵であることを理解する必要があります。さらに、私が感覚的な世界で目にする形に感じ取れるリズムは、骸を復活させ再び生かすために、人間である私が使うことができるのです。私は、私の想像力の中で形成された内的表象として、骸を復活させるのです。その内的表象は光でできています。私のイマジネーションは内なる光なのです。私のイマジネーションは、自然界と関わるための不可欠な道具です、しかしそれは抑制されなければなりません。想像的認識を通して私が自然に返す光が、私の思い込みによって損なわれることがないように、私のイマジネーションは、レーザーのように一貫したものでなければなりません。空気の要素は光の死骸であることを忘れないでください。

自然界に光を返すその行為をするとき、私は自然の力と法則を創り出した存在と調和することができます。自然を作った存在たちは、自然の側面として”骸を復活させる”ことはできません。自然を変えることができる唯一の存在は私たちなのですが、私たちは町内で最も鈍い連中なのです。とはいえ、私たちには自然を維持する霊たちにはないものがあります。それは、自由です。これは厄介なものですが、有り難いものでもあります。空気意識に移行するとき、私は「知らない私」とつながります。人間である私は、目覚めた状態を天使の意識に引き上げて、"やあ、元気かい?"と言うことはできません。天使に話しかけるとき、私の意識は麻痺しています。しかし、認識と理解を通して、ここでの私の意識を組み立て、そこへ実際に行ったときに、托鉢の器がよく磨かれている必要があるのです。イマジネーションが練られていたら、自然の姿の背後に立つ霊との出会いから戻ってきたとき、私は托鉢の中を見て、何かを見つけることができるのです。そのためには、高次の意識に入っても、私の地の意識の一面を維持するための手順を私の中で確立しなければなりません。その手順を空気の意識の中で形成することを学ぶのです。霊的な体験があったと信じる時に、その妥当性をチェックできる手順を持たなければ、空気(風)の中にいるのですから、思い込みが膨らんでしまう危険性があるのです。

自分が何を信じているのか知る必要があります。そうすれば、信じていることは経験したことの骸であることが分かります。アルケミストにとってはすべての考察対象は骸なのです。薔薇十字会にとっては、人生のすべての目的は骸を復活させることです。薔薇十字会は、感覚の働きを、記憶を生み出すことから創造的イマジネーションを生み出す働きに変えることによって、自然の骸を甦らそうとします。地球が骸になりつつあることも理解できるでしょう。地球は、そろそろ引退を考えるほど成熟しているのです。かつて石炭を作ったように、大量の植物を作ることはもう決してできません。石炭を1/4インチ作るには、数百ヤードの植物原料を圧縮する必要があります。石炭地帯に行けば、厚さ30メートルの炭層を見つけることができます。それだけの厚さの炭層を作るのに、どれだけの植物を積み上げる必要がありますか?それが若かった頃の地球です。ガイアは、「ほら、植物が欲しけりゃ、どうぞ。」てなもんです。今の私たちには、それほどの生命力はないのです。テクノロジーの使用が進むほど、今こうしている間にも、地球はさらに骸のようになっていっています。

それでも、私たちは糞や 枯れたものを集めて、積み上げ、骸の復活の奇跡を見守るのです。ルドルフ・シュタイナーは私たちに、肥料にする糞尿と個人的な関係を築くように言います。骸と生命との深い引き合いを理解する必要があります。これは空気の要素がもつ両極性と反転の偉大な錬金術です。従って、私が自然の中のエネルギーと高いレベルで関わろうと思うなら、骸のようなものに入り込み、私の意識でそれを新しい生命へと引き上げなければなりません。地から水へと持ち上げ、私の中でその内的表象が動くようにしたら、次は水から空気へと移し、内的表象を解消します。私はそれを光に戻し、新たな生命の種として霊的な世界に放つのです。キリストは、死体の復活の神秘を教えるために戻ってきました。そのためには、私は火によって謙虚になるという次のステップに進まなければなりません。--これは、気候変動などの問題です。私たちは、火によって謙虚になるのです。

無窮の宇宙の全方位からやってくる平面的な力は、浮力原理の極を表しており、光と火は、その代表的な作用です。物質の変容に関する鍵となるのは、物事が辿っていく段階を理解することです。そのために、地、水、空気、火という錬金術の曼荼羅があります。そこに示されているのは、無限の力を持つけれど自由を持たない霊的存在たちが、死する運命と共に物質として(骸として)顕現する過程です。

別の言い方をすれは、どうやって、霊であった私が、ニュージャージーの若造になるのか?なぜ、そうならなきゃいけないのか?なぜ私は霊であることから死のプロセスに直面するまで、段階を踏んで降りてくるのか?生のプロセスを理解するためには、死のプロセスを理解する必要があるのです。たとえば、豚糞が牛糞とどう違うのかも理解しなければならない。どちらも堆肥になるのですが、それをつくりだす生物の生き方が、骸としての堆肥に魂の影響を与えるのです。その影響は豚の欲求や牛の欲求によってもたらされます。これらの魂の力は、堆肥に特定のミネラルを集中させることによって、大地のカルシウムとカリウムに影響を与えます。牛は豚のように、四つ足で土に鼻を突っ込んで耕したりしません。それは動物のアストラル体、あるいは空気の体と呼ばれるものの欲求なのです。

ルドルフ・シュタイナーがアストラルという言葉を使っているところは、空気(風)と読み替えることができます。アストラル要素とは空気の意識です。それは意識化することであり、感受性です。感受性は空気の特徴です。牛は一揃いの願望を持ち、それに対応した消化器官を持っています。豚は別の願望を一式持ち合わせます。根っこを掘って回りたいのです。その願望は、堆肥にまったく異なる質をもたらすのです。私が述べているのは、動物の魂体、あるいは空気の体と呼ばれるものです。それによって彼らは、その土地のこと、種族のこと、集団のこと、そしてお父さんとお母さんのことを意識するのです。場(または場の属性)は空気の特性です。水の特質は生命の特質です。水はあれやこれやを結びつけますが、その変化を理解する時、私は水から空気の要素に移っています。なぜなら、私は今、生命体の中でただ流れに乗っているのではなく、意識体(アストラル体)の中にいるからです。水の意識の中では、生命を司る霊たちがすべてを取り仕切ってくれるので、私は認識について心配する必要はありません。そこでは、私はすべてが理にかなった世界にいる乳飲み子なのです。

伝統的な先住民の文化にはそういうところがあります。彼らは自然の世界に住んでいます。死や苦しみによって自然が意味をなさなくなり始めると、もう一度、人生が意味のある世界に繋がろうとして、宗教と呼ばれるものを発明します。なぜ自然が意味をなさなくなったのかを突き止めるために、自然を作った存在と再び繋がろうとするのです。私たちが自律的な人間として、自分たちを自然から切り離した時点で、自然は意味をなさなくなります。自然から離れるということは、同時にたくさんのものから離れることになります。共同体や家族から離れることになるのです。そして世界は、かつて生きていた自然の屍で埋め尽くされているように見えてきます。このようなことが壮大なスケールで起こって以来、私たちは共同体の中で相互のつながりを感じていた過去に憧れています。しかし今、共同体の中でみんなのためのルールを作ると、みんながその制約に文句を言います。みんなが個人として扱われることを期待しているからです。

結晶球体

空気(風)の領域では、遠くからの力が、どのように場に作用しているかが意識できます。水の中では、すべての場がはっきりとつながっています。棒を入れれば、こっちに流れていく、というように、水の中ではベクトルが見えやすくなっています。水は来たものを受け止め、複製します。しかし、空気は拡散しているので、見るのが少し難しいです。とはいえ、拡散の素晴らしいところは、あらゆるものが拡散する必要があるということです。そうでなければ私たちは、自分から出る二酸化炭素などの有毒排泄物で、あっという間に固まってしまうでしょう。もし体内の炭素を取り除くことができなければ、私たちは美しい鍾乳石になってしまうとルドルフ・シュタイナーは言っています。

ですから、拡散は私たちに必要な要素なのです。拡散は利用可能な表面の量に依存します。また、表面の話に戻りました。表面は、組織が環境と反応する能力を決定します。その時のルールは、偉大な最小表面の法則です。質量に対する表面の割合が最も優れているのは球体です。これが最も経済的な形なのです。その経済性が、ほとんどの卵が球形である理由です。鶏の場合、出口で形が少し流体力学的になるまでは。基本的に、卵が球形から始まるのは、質量と表面積のつり合いにおいて、それが最もエネルギー的に経済的だからです。しかし、球体が成長するとすぐに、その経済性が脅かされ始めます。体積が大きくなると、高さ、幅、奥行きの3つの次元で大きくなるのに対して、表面は高さと幅の2つの次元でしか大きくならないので、表面は質量に追いつけないのです。したがって、表面は破裂するか、生物ならば細胞分裂しなければなりません。細胞は裂けてクローンを作り、2つの姉妹細胞は一つの膜を共有します。それが細胞分裂です。

共通の膜があることで、2つの子細胞は、質量が多すぎて表面積が足りないという肥大化の問題を大きく改善することができます。表面積の割合が低いと、細胞の内容物が環境とコミュニケーションすることを困難にするのです。理想的なのは、十分な表面積を持つことですが、反対に細胞内の内容物が引き出されて環境中に拡散してしまうほどではないことです。それは、細胞の表面積が質量よりも大きい場合に起こる現象です。大きくなることが理想ではなく、小さくなることが理想でもない。この法則は、生物における細胞の最適な大きさを規定します。ところで、最小表面の法則には奇妙な要素があります。これは、バイオダイナミック調合剤501、水晶調合剤を参考にして説明できます。

私は水晶を粉砕し、乳鉢と乳棒ですり潰し、ガラス板の上で微粉末にします。オリジナルの水晶が手から滑ると、床に落ち、それを誰も変だとは思いません。粉砕した後、粉になった水晶に息を吹きかけると、重力の法則に逆らって水晶が部屋の中を浮遊しますが、それも誰も不思議に思いません。なぜ、水晶はこのような形だと、部屋の中を浮遊するのでしょうか? それは水晶粒子の質量と表面の関係が、ある閾値以下になったからです。質量よりも表面の方が大きくなったということです。なぜそうなったのでしょうか?

風船を膨らませるところを想像してください。風船の表面は限られていますが、膨らませると、風船の中の質量は表面積よりも急速に大きくなります。質量は3次元的に成長し、表面積は2次元的に成長するからです。風船の球体がもっと大きくなると、表面の完全性が脅かされ、ついには破裂してしまいます。次に、風船と同じような球体が小さくなっていくのを想像してみましょう。この場合も、質量は表面積よりも急速に小さくなります。球体が非常に小さくなり、質量が表面より小さい状態になると、表面は非常に強力な仕方で環境と相互作用するようになるの です。

組織体の外周で環境と相互作用する表面は、浮力原理を映し出しています。浮力(Levity)は天周(Periphery)からくる力であり、生きているものの周辺にある表面に作用します。宝石を見ると、ファセット(面)が見えます。ファセットは宝石とその規則的な結晶幾何学の骸です。それは一筋の光として、どこか "向こう側 "からやってきて、分子構造をその特定の角度に導く、目に見えない力の場として存在するのです。

浮力原理は結晶の平面に現れ、重力原理は点に現れます。重力は、一つの点がそれ自体に物を集めてくっつける作用です。これは雨が降る仕組みです。30000フィート上空の微小な塩か、あるいはジェット機から噴出する極冷の煤が核となり、極冷の水を引き付けて結晶を作るのです。水が結晶を形成するところまで凝縮するには、はるか上空に地の要素が必要なのです。そして結晶は重力の影響を受け、より暖かい層を通って落下し始め、溶けて水に戻ります。それを私たちは雨と言うのです。

上空に上がった地の要素であるほこりは、結晶の種となり、場が骸(顕現体)を作るのを助けます。雨の結晶の核は塩や塵だったのですが、今ではジェット燃料の未燃炭化水素がほとんどです。「いったい何を撒いているんだ」という陰謀論的なものを持ち出さなくても、最近乗った飛行機のことを考えてみてください。ジェット燃料から大量の未燃炭化水素が大気中に放出され、氷の核となります。氷の核が多ければ多いほど、その種の核の周りに凝縮する水蒸気も多くなります。こうして、大量の氷で雲ができます。30000フィート上空で雨が降っているのです。ただそれが地上に到達することはありません。上層大気の水の量に対して種核の数が多すぎると、干ばつになるのです。

水は地上から最初に上昇するときに液体状になるが、蒸気が上昇するにつれて急激に冷却されます。水蒸気が雲の上に到達する頃には、冷えて氷になっています。その超微細な氷の結晶が落下し、溶けて、小さな球状の水の玉になります。その表面が別の玉の表面に触れ、どんどんと合体し始めます。突然、小さな水滴が雨粒となり、ついに雨が降り始めるのです。しかし、すべての雨は、何らかの粒子核の周りに沈殿または凝縮した氷の結晶として始まります。氷の核として、最も豊富だったのは海の塩ですが、今日では、多くの合成粒子が核となります。今日の科学では、これらの地の粒子を "エアロゾル "と呼びます。化石燃料の使用にまつわる諸問題は、空気の領域に、多すぎる地の粒子が入れられていることから発しています。

さて、次は鉱物界における空気(風)の関わりに話を移しましょう。鉱物の中の空気の要素はどこにあるのでしょうか?鉱物は平面で形成されるという事実が確認されています。その平面は鉱物の中に元々あるのでしょうか。それともどこかから来るのでしょうか。 これは錬金術的な問いです。もし私が塩を持っていて、それを水の中に入れて溶かし、その物理性の証拠を探したとしても、水の中に塩を見ることはできません。しかし、水を蒸発させると、突然塩の結晶が見えてきます。水に入れる前の塩の結晶を見ると、完全な立方体です。水の中にあると、立方体は見えません。立方体であるはずの小さな線も見えません。水がなくなると、塩は完全な立方体の形で戻ってきます。完璧な立方体のテンプレートはどこにあるのでしょうか?私たちが見ている立方体は、"立方体らしさ "の国に住む原型の活動の骸なのです。立方体らしさの原型は、私が溶液を蒸発させたときに現れる骸ではなくて、一つの霊界の秩序原理です。それは、互いに90度の関係を持つ光の平面の幾何学的厳密さなのです。この角度は、私たちがよく使う大きなベクトル力として働いています。特に建物を作る時には重要な原型です。

結晶になる鉱物は、プルトンとして知られる岩塊の最上部に見られます。プルトンは、地中に埋もれた巨大な岩石のレンズです。底部に粗い岩石、中央部に花崗岩、頂上付近に宝石と分けられます。流体の岩の最も細かい部分がプルトンの頂上まで移動して窪みを形成し、そこで液体の宝石が結晶化するのです。プルトンの頂上にある宝石の構造に影響を与えるのは、無窮の宇宙から地球に向かってやってくる星の光です。かつて宇宙は" 水晶天 (Crystal Heavens)"と呼ばれ、物質の秩序原理を生み出す叡智がそこから来ると考えられていました。そして宇宙の秩序は、結晶の秩序ある構造にもっともよく表れていると見られていました。

今日、私たちはこの宇宙の叡智の崇高な領域を「結晶学」と呼び、結晶の軸、角度、ファセットの関係を分析します。科学によれば、これらの幾何学的法則は、結晶の形状を形成する結合角の分子関係に拠ります。結晶の結合角は分子の結果なのか、それとも分子がどこかからヒントを得ているのか?数年前、私はハーバード大学の鉱物学の本で結晶の形の根源を探したことがあります。ハーバード大学によると、結晶の形の源は "空間格子(Space Lattice) "と呼ばれるものだというのです。その本は、空間格子が結晶の形を生み出し、結晶の形は空間格子の現れであると説明していました。では、その空間というのは、どこですか、宇宙?

「空間格子」とは、結晶の領域に見られる驚くべき秩序に対して、現代科学が提示する概念です。それは分子の特定の理論的結合角でできているのですが、では、その結合角の起源はどこにあるのでしょうか?もしそれが自然界の他の部分と同じであったなら、現れ方にはもっと多くのバリエーションがありそうなものですが、その幾何学的な厳密さは、常に保たれるのです。ただ、その厳密さの中にも、プルトンの中で形成される結晶には、ベクトルの作用によって引き起こさる形の無限のバリエーションがあります。 結晶は最も高次の意識の骸です。なぜなら、ルドルフ・シュタイナーが高次のデーヴァチャンと呼ぶ水晶天に住む霊的存在たちの意識が、珪酸塩を織りなして私たちの地球全体を創造しているのだからです。彼らの完璧に秩序だった意識は、鉱物界を調和した秩序に保っているのです。さらに、彼らの意識は、地球がその役割を終えて、骸になった時にも高次に秩序だった意識を映し出す潜在性を保てるようにしています。それで、私が水晶の上にネジを付け、締め付けると、電荷が生まれます。私が空間格子を変化させ、水晶を形成するのに使われたエネルギーが水晶から出てくるのです。それはどこへ行くのでしょう?地域の空間格子の貯蔵庫にでも行くのでしょうか?

もしデバイスに捕らえて、あなたの携帯に使うのでなければ、それは宇宙に帰ります。あるいは、粉砕して水に入れてかき混ぜれば、水晶天の厳密さを利用することもできます。シリカの調合剤を作るとき、私たちは高次の霊性の領域で高い意識レベルの存在と交流しているのです。そこは未来の人類の道徳的能力の領域です。それは高次のデーヴァチャンとして知られています。

高次のデーヴァチャン、水晶天は、自然が完璧に計画通りにいっている領域です。それは鉱物界を導く形の原理であり、山々が変わらずそこにある理由です。鉱物は神の計画に逆らいません。しかし、その計画によれば、その鉱物の命は宇宙の果て(Periphery)にあるのです。人間として、その最果ての天周に実際に行って来ることができたとしたら、私たちはおそらく(もし帰れたとしても)、非常に具合が悪くなって帰ってくるでしょう。

アンテナ

物理的な結晶は骸です。結晶の形成プロセスを導く生命原理は、高次のデーヴァチャンに存在します。生命原理とは、高次の存在が「私は存在する」と言うための意識です。地球上の結晶は、宇宙の周縁で「私は存在する」と言う存在たちの骸です。結晶の形は、最高次の領域から流れてくる崇高な秩序の力の受信機です。すべての結晶は、その信号を模した形のアンテナなのです。さて、物理学のアンテナ理論を見てみましょう。

図の左は「対数周期配列」またはクリスマスツリー・アンテナとして、エレクトロニクスの業界では知られているものです。信号を拾いたいときに屋根の上に置くのは、これです。これを見ると、クリスマスツリーと呼ばれる理由がわかります。この横棒の目的は、信号波の形を写し取ることです。縦棒は単に横棒を固定しています。それぞれの横棒にはネジが付いていて、横棒を縦棒の上下にスライドさせることができます。横棒は、送信機から来る複合波を拾うためにあります。複合波は、大きな波の中に小さな波が埋め込まれていて、断片ではなく完全な信号として通信することができます。すべての信号はこのように構成されています--大きな波の中に小さな波が埋め込まれているのです。理想的なアンテナは波のピークを拾って、最大限の信号を得るのです。

エンジニア達は、信号の電波が入ってきた時、まず短い棒に当たるように、このタイプのアンテナを設計しました。その後、電波は中間の棒を通り、奥の大きな棒に到達します。信号は奥から再び手前に跳ね返され、アンテナの中を行ったり来たりすることで定在波(Standing wave)が発生し、良好な受信が可能になるのです。それぞれの波の山と谷が、アンテナと調和している必要があります。そうでない場合は、横棒のどれかが正しい位置にありません。これを修正するには、屋根に上がってネジを外し、真ん中のバーに沿って移動させ、家に向かって 「これでどうだ!」と叫ぶのです。あるいは、オシロスコープを使って、信号が揃うまで横棒を動かします。これを最良感度のためのアンテナのトリミングと呼びます。基本的なアンテナ理論です。トリミングすることで、入ってきた電波をアンテナの形で整流することができます。アンテナの形が信号のイメージになるようにするのです。もしアンテナの形が信号の写し絵になっていなければ、受信は静電気の雑音だらけになります。

図の波形を見ると、波と波の間の周期がリズミカルに小さくなっている部分が分かると思います。このリズミカルな形が、アンテナをクリスマスツリーのように見せています。クリスマスツリーは、太陽からの信号を日射波として受信するためのアンテナなのです。このような形をしているのは、対数周期の波だからです。数学的には、この波には内なる対数調和があり、それがすべての異なる振幅を互いに同期させています。ちょうど葉っぱや木や あなたの腕のように、それぞれの部分が全体を聴いているのです。ところで、あなたの腕は霊性のアンテナです。かつての神殿舞踊や、神殿そのものや、神殿で歌われる歌は、このためにあったのです。その神殿が祀る神格からくるエネルギーの波動と、神殿の形、歌、踊りはそれぞれ違った波長で調和するように意図されていたのです。

大地の中のシリカは、大宇宙の力を受信する素晴らしいアンテナです。シリカは星からの光を取り込み、反射します。シリカの結晶の形と生物の目には類似性があります。シリカは宇宙からの光を受け取り、それを植物や動物の形に反映させます。秘教的には、それが地球の生命体におけるシリカの機能なのです。シリカの結晶は、全水晶天から降り注ぐ星の光の信号の写し絵と見なされています。シリカ結晶は高度に組織化された分子平面で構成されます。結晶内のたくさんの平面は光を回転させ、結晶の分子構造内で方向づけます。この光との親和性は、鉱物界と植物界を繋ぐものと考えられています。植物は光を取り込み、その形態モチーフの中で、太陽エネルギーの波動周期の小さなモデルを作ります。図1の真ん中にある、壷のような形をしたものは、アンテナの定在波の図です。波が対数周期配列の中を行ったり来たりすると、アンテナの中でまとまったエネルギーの形ができ、良好な受信状態になります。右にあるのは植物の形です。何か気が付きますか?植物が成長への拡張と生殖への凝縮を繰り返すリズムは対数周期配列なのです。節ごとの成長と節間の間隔は、対数的に連続し、葉を作るところから種子を作るところまで、太陽光の波動特性のすべての変化を受け取ることができるようになっています。

だから、1つの波長だけではなく、全部のバリエーションをカバーしなければなりません。その成長パターンに沿って、植物は太陽光に対するアンテナを構築するのです。最小単位である葉は、光を受け止める、パラボラアンテナです。そして、その内部構造が光を取り入れます。実際、植物の樹液に含まれるマグネシウムは、光受容体と呼ばれるものの底にあります。そこには緑から黄色、オレンジ、赤までの一連の色素であって、光が入ってくると、光受容体の底にあるマグネシウムに到達するまで、波長は変換プロセスを経ます。そして樹液中のマグネシウムが光合成を可能にするのです。科学はそのプロセスを "光のアンテナ "と呼びます。植物の色素には3、4種類あり、秋が深まると、私たちはこれらの色素を目にすると同時に、アンテナのレベルの違いを見ることができるのです。これは、熟していく桃にも見ることができます。色と色素の配列によって、植物の器官の中でエネルギーが受け取られ、変換されるのです。人間は、果実の色の順序だった変化で、熟度と収穫時期を知ります。ネットで「植物の光合成、光受容体 (Photosynthesis light antenna of plant)」を検索すると、植物と太陽光の驚くべき関係を見つけることができます。これはまた、金属の利用方法などにも関係しています。基本的に、エネルギー波の形で信号を受信することだからです。 

空洞化

光は信号です。空気は光の骸です。植物は太陽光のすべての波動特性を模写再生します。植物はその器官が空気中に広がり、空気で満たされ、風のそよぎと共に絶えず空気が出入りしています。肺で呼吸するのと違い、大気と大気圧が植物にとっての呼吸なのです。動物の場合は、空気を内部に吸い込みます。そして、膜に次ぐ膜でできた器官が、体内の空気に対処するために適応したシステムを作るのです。

動物の発生学には空洞化(Cavitation)と呼ばれる特別なプロセスがあります。この図では、上部に胚の3つの層である外胚葉、中胚葉、内胚葉が見えます。胚において、外胚葉は外皮、内胚葉は内皮、中胚葉は外皮と内皮が「会話」する中間領域です。中胚葉は、生物の外皮とその内側の皮膚、あるいは臓器との間の相互作用的分泌物から生じます。高等動物では、外胚葉と内胚葉の間に、両者が空間を隔てて(分泌物を通して)会話する場所が常に存在します。その中間の空間が十分に強くなると、その内側の空間が独自の生命を持ち始め、より高次のものとなります。この空間は、外からも中からも遮断され、分化、増殖し、生命活動のための特定の機能を持つようになります。これが、肝臓、肺、腎臓、心臓、そしてすべての生命器管の進化計画です。生命器官は空洞化によって、大きな流れから切り離され、内部空間を形成するのです。

もし臓器がただ細胞の塊から発生するようになっていたら、臓器の中身がぎっしり詰まりすぎてしまう危険があります。臓器には空間があるため、たとえ密閉されていても、環境と呼吸することができるのです。もし空洞化なしに、臓器が高密度になっていくなら、すべての臓器は腫瘍になってしまうでしょう。そこで、臓器の進化の安全装置として、臓器が十分に密になると、内部に空洞が形成されるのです。動物の臓器が空洞化することを、ルドルフ・シュタイナーは "アストラル化 "と呼びます。空洞化で体内に空気(風)を持つことで、動物は環境から切り離された自らの有機体の完全性を維持しながら、環境と相互作用することができます。この両方ができなければならないのです。環境からの分離と環境との相互作用には、仲介者が必要です。組織間の仲介作用の偉大な原型は、表面の創造です。生理学で、表面は半透膜として理解されています。膜は、胚の中の液体の流れに沿って形成されます。それは、将来の臓器となる場の形なのです。川の流れにそって砂州が堆積するように、膜はできていきます。だから臓器は、その流れの写し絵なのです。流れはそのまま通過するのか?巻き込むのか?止まるのか?動物の欲求のアストラル体に応じて、空気(風)はとても精巧に、さまざまな器官の内部構造を作ります。アストラル体とは、生物の空気、あるいは魂体です。

空気(風)の要素の形成プロセスによって、臓器の物質は機能的空間を得ます。空洞化のプロセスで、生物組織の中に自発的に空洞ができていくのです。内部空間は、錬金術的には空気(風)の元素的構造です。基本的に、空気とはガス状の存在を意味します。ガス(気体)という言葉はギリシャ語のカオス(「大きな空虚」「深淵」の意)から来ています。ジャン・バティスト・ファン・ヘルモント(1579-1644)が初めてカオス(気体)を発見したとき、彼はこう言いました。「まるでカオスだ。何もないのに、そこから物が現出してくる。私はこれを "カオス "と呼ぶことにしよう」。私たちは気体と呼びますが、気体はカオスです。そして、カオスは潜在的な可能性を意味します。

動物は外から空気を取り入れ、体内に移動させる。続いて、各臓器はその内部空間を使って特定の機能を果たす気分を作りだします。私の魂は体内に空洞を作り、それは世界と対話するための内表面を与えてくれます。しかし、その内表面は私が世界と直接交流しなくてもいい空間も作り出します。どのくらい外部と関わることにするかを決める、私の小さな部分は、魂と呼ばれます。錬金術的に言えば、魂は空気の体です。私たちは、大気を共有する大いなる場の一部を取り込み、それを自分の生命組織の中で自分の場としているのだからです。あなたは外から大いなる潜在性の場を切り取り、それを内なるイメージとして形成するのです。

私たちはこの空洞を肺や腎臓と呼びますが、空気(風)と呼ぶこともできるし、光と呼ぶこともできます。空気(風)は光の骸であり、空気(風)は点(Point)ではなく、作用の場を意味しているのです。この内なる空気のしぐさは、私の魂であり、霊性ではありません。私の霊性は火であり、私の魂は霊性と肉体の間で私が ”呼吸” する場所なのです。錬金術的には、その呼吸のプロセスは空気の要素の機能であり、アストラル原理です。アストラル原理は願望に基づいていると、アルケミストは観ます。私の願望体、すなわち空気の体は、私が外側の現象と交流し、それらを内側に取り込むための器官を私の中に作り出します。そして、それは同時に私自身の内なる魂の雰囲気を確立します。私は、命の基礎を形成する魂の呼吸のプロセスとして、内界と外界を出たり入ったり、繰り返すのです。

古代のヨギは魂の要素を保持するために、特殊な方法で鼻から息を吸いました。ルドルフ・シュタイナーは、魂体の空気を扱うこの行法がどのように変化したかを描いています。新しいヨガがあるというのです。シュタイナーはそれを、目を通した光の呼吸と呼びました。これは、何かを現象学的に観察するとき、何が起こるかに注意を払うことによって達成されます。光を呼吸することは、自分の魂がその炎に耐えられるように訓練することと関係があります。あなたの霊性が、あなたの魂と出会うとき、普通の反応は "あちー!"です。もちろん、あなたの霊性は、なぜあなたが受肉することにしたのか知りたくて燃えあがっています。自分を正しく訓練すれば、なぜこの受肉を選んだのかわからないと認めて、あなたの霊にそう答えることができます。これが受肉した理由を理解し、人生における使命を発見する始まりになるのです。

魂の呼吸はリズミカルにする必要があります。瞑想の実践によって魂の呼吸がリズミカルになれば、願望の圧制から自分を解放する方法になります。心理学的に言えば、願望の圧制から自分を解放するということは、魂の機能不全を自分の存在の一部に閉じ込めておくのではなく、自分の存在全体に統合するということです。私の願望は、私の魂の光の中に影のような要素を作り出します。最初は、ただ自分の影を取り除きたいと思います。そこでこう問うのです。「なぜ私はこの影を作っている私の願望を捨ててしまおうと決められないのだろうか?」 その答えは、あなたは影は取り除くのではなく、影を理解することが求められている、ということです。あなたはそこに、霊性の光を当てなければならないのです。そうすれば、影を統合し、人生における使命を展開するための霊性の炎を得ることができます。

炎とは簡単に言うと、この地上に降りてくる前にする必要があると思っていたことをする意志があるということです。霊である私が骸の中に生きるのであれば、この地上へやりに来たことをするために、骸に取り組み対処する意志がある、ということです。だから、朝起きなければならなくて、コーヒーを飲んで一日を始めようとします。ところがその朝、コーヒーが切れていたとします。私はイラつきます。この反応は何でしょう?願望は私の霊性を理解する鍵です。願望を取り除くのではなく、それを坩堝に入れ、火をつけて、影が燃えて光の柱となるようにするのです。そうすれば、影の灰は薬になるのです。

このように、私は肉体を持ち、これは物質の影を含んでいます。私は生命体(エーテル体)を持ち、これは恵み深い高次の存在たちから与えられて、私の生命を維持します。私はアストラル体を持ち、これは世界の他の部分から切り離された私の意識です。そして私には霊性があり、これは私の行いと使命の収納場所です。私の霊性は万物の意識と繋がっていて、アカーシャ、エーテル、宇宙、意識の領域に住みます。私が私の霊性の中にいるとき、私は元素界の主であるキリストと一体です。私が地から水に向かうとき、私はアカーシャを通過します。水から空気(風)へと向かうときも、私はアカーシャを通過します。農業講義における薔薇十字の要素の鍵は、世界が展開するとおりのやり方で、自分の意識を世界に参加させるように訓練する必要があるということです。これが現象学の作業です。私は、世界の生命に奉仕する元素的存在たちの間でサーフィンしているときに、自分の中に湧いてくる表象を吟味する訓練をします。そして、私は、やる気を出すために何時も火傷をしなくてもいいように、私の炎にアクセスする方法が必要です。そのためには、影の部分の表象を如何にして睡眠に取り込むかを理解する必要があります。

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