アール・ブリュット
先月、滋賀県立美術館の「アール・ブリュット」に行ってきた。これを翻訳すると「生(なま)の芸術」というらしいが、「エイブル・アート」「アウトサイダー・アート」と様々な呼び名があるようだ。私が子どもの頃に流行っていた山下清もそれに当たるのかもしれない。
日本ではこれまでかなりの蓄積があるにもかかわらず、どうも障害者福祉の慈善事業と思われているフシがある。もちろん作品の発見その他の過程で、福祉関係者の関与が必要なのだが、それはいわゆる「一般」美術にも、パトロンやキュレーターがいるのと同様だと思う。
私の近所では、豊能障害者労働センターがこれに近い企画をしてきたと思うし、関西では、たんぽぽの家、すずかけ作業所、アトリエ・インカーブと、多くの団体がこれに類する事業をやってきたが、一番リードしてきたのは、近江学園、信楽青年寮、やまなみ工房、NOMAなどを擁する、滋賀県の皆さんではないか。
アール・ブリュットとは何かというのは、一口には説明し難い。これはあくまで私の解釈だが、「芸術家ではない、精神・知的障害者などとされ、いわゆる健常者とは異なる能力をもつ人たちが、日々のなりわいの中で、意図せずできあがっていた芸術」とでも言おうか。
大胆なフォルムや構図がある一方で、どちらかというと、緻密で細かい反復作業が多く目につく。そして、その背景には当然ながら、芸術家とは全く違う人間模様がある。
例えば、聴覚障害者が福祉施設で心を落ち着かせるために始めた、粘土造形の作品。手話を身につけて退所したら全く創作しなくなったという。
そして、私が一番びっくりしたのは、単なる幾何学文様にしか見えない綴りが、実は、毎日の日付・天気・温度などが含まれる「日記」であったこと。象形文字を解読するように、それを読み解いた施設職員がいたそうだ。この功績はすごいと思う。
また、キャプションを読んでいてほっこりしたのは、障害のある人の「反復」について、「日常の中での繰り返しに落ち着きを感じる経験はないですか。梱包材のぷちぷちを潰すことに夢中になったり…」と書かれていたこと。そのとおりだ。私たちの生活の中に「アール・ブリュット」の萌芽はある。
無限にペンで線を引いた画があり、この作者は紙をはみ出ると、隅っこでカタンと、ペンが紙から落ちる感覚を楽しんでいたらしい。なるほど。これもわかる気がする。
これらの作品を紹介したり、展示の機会を増やしたりするには、ご本人の意志や気持ちの確認であるとか、いろいろセンシティブな課題があるとは思う。でも、これは福祉やまちづくりの関係者とも連携して、ぜひとも育て広げたい分野だ。自分はまだまだ不勉強だが、川井田祥子『障害者の芸術表現』(水曜社、2013年)は、この横断的なテーマをコンパクトにうまくまとめられていると思った。
ちなみに、ほぼ同時に兵庫県立美術館の「キース・ヘリング」にも行った。彼の作品は好きなのだが、こちらはアンディ・ウォーホルなどと同じく、ユニクロのTシャツのようにそこら中に複製が溢れている。だいたい予想どおりというか、商業主義のにおいが強かった。
これと比較するのも変なのだが、やはり「アール・ブリュット」は、実におもしろかった。