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【無料】習い事スクール経営の始め方と極意vol.2 私の経歴と今日に至るまで 後編

前回の続き


進路

こうして、作曲家になるために、もちろん独学でアルバイトをしながらコンペに出し続けるという方法もありますし、学ぶなら、専門学校か音楽大学で専門的に学ぶ。という選択肢になるわけです。

厳格な両親に相談すると「大学を出ろ、それ以外は認めない」。

と一言。

専門的な試験もあり、ふるいにかけられる上では難解な音楽大学という選択をしました。

九州にもいくつか音楽を学べる大学(教育学科や熊本の平成音楽大学)、はありましたが、あえて東京の音楽大学に行くことで、全国の作曲家を志す人たちとより、切磋琢磨できる。という理由で東京の音楽大学に進学します。


ピアノは趣味で細々弾いてきたとはいえ、ブランクもあり、基礎知識なんてほとんど抜け落ちているので、0からの勉強になります。

ただ私は、前編でも書いた通り、学力は下の下。ましてや一般大学に行くつもりがないので、最低限赤点は取らないように(赤点4つで落第)心がけながら、クラス担任にも理解いただき、授業中はいつも教室の後ろの方で、音大受験勉強です。

音大にいくための条件

これはあくまで、私の場合です。音大も様々なコースがあり、専門項目に応じて細かく分かれますので(同じ作曲でも厳密には、指揮者コース、作曲コース、音響デザイン(DTM)コース、応用コース等...多数)一例です。

コールユーブンゲン(実は今度ある事業展開を行います)

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ドイツの合唱練習曲。クリックするとwikipedeiaに繋がるので、気になる方は読んでみてください。小難しいことは色々端折りますが、要するに、この本には、80曲以上の難易度からパターンまで様々な練習曲が収められており、その中から1曲出題される。それをドレミで歌うと言う試験。


楽典

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音楽の基礎知識が詰まった音楽書。これらは最低限の知識であり音楽の世界に足を踏み入れるならこれくらいは知ってないとねー、という本。勿論後編になると少しややこしい場面も出てきますが、実際に今でも、音楽制作の依頼を受ける時は、楽典でに書かれた用語を用いることなんて日常茶飯事。

ピアノ

もちろん暗譜です。私は、この曲を弾きました。(高校時代の恩師のおかげです)

ベートーヴェン ソナタ1楽章の1

作曲

作曲は、譜面とコードネームだけが書かれたものが用意されており、楽器を使わず想像で1曲、コードネームに合わせる形で大譜表(2段組の五線譜)からなる楽譜を完成させると言うもの。

普通に考えて楽器もない中で、頭の中だけで曲を作り、コードも長さも決まっている状態なので、ある程度制限がある中で作るわけですから、当時の私からすると難易度は高いです。

これもコツを教わって訓練を重ねてできるようになりました(高校時代の恩師のおかげです)。

面談

面談は志望動機だけでなく、作曲家の先生が5名くらい並んでおり、その前で試験で書いた作曲に関するあらゆる質問に答えるというもの。

何より、威厳たっぷりの先生たちに囲まれて緊張したなー。


とまぁ、そんな数々の決して一般大学には無い、試験をクリアし、晴れて音楽大学に入学することができました。


音大時代

音楽大学は4年間と、その後、1年間研究生という形で残りますが(途中に就職しましたけど)、当然全国からとても優秀な人たちが多くきており、同じ作曲家を志すわけです。

当然、この中でも下の下(笑)

まぁ、今度の場合は想定内ですけどね。

しかし、音楽を数ヶ月前から再開した人間と、ずっと学んできた人とでは住む世界が違うのは当然。始めのうちは、話ひとつ合わせるのも苦労しました。

例えば、フランス人のエリックサティという作曲家がいます。ジムノペディと言ったら彼の曲を聞いことある人もいるのではないでしょうか?

作曲の友人たちがサティの話で盛り上がっている中、私も早く友達を作ろうと、その輪に頑張って入ります。

友人「サティっていいよねー」

俺「...うん!めっちゃいいよねー」

その当時の私の頭の中では、...

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当時住んでいた駅前にあったスーパーSATY。食材も安く色々と豊富で、当時何度も買い物に行きました。

思わず、「鹿児島にもあったぜ!」と答えそうになりましたが話の様子見でやめておいて今となっては、良い判断でしたね。


何が言いたいかというと、なんと、入学したての私、エリックサティすら知らなかった。

というまぁこれは、よく人に話すときに使う鉄板ネタですが、そんなスタートラインから始まる四年間。この人達に追いつくためには、相当な努力が必要だというわけです。高校時代と同じ、早々にこの4年間またしても、「自分の生きる道」を模索します。


音大で自分が生きる道を模索する日々

吹奏楽上がりでもない、軽音部でもない、趣味嗜好でピアノをちょろっと触っていただけの子供時代。田舎では特殊能力の耳コピの速さや、即興演奏も、ここでは(特に作曲学科においては)ほぼ全員がこなせる必須スキル。

私の必殺技はただの宴会芸スキルだったわけです。

悩みに悩んだ末、出会ったのが、電子音響音楽というジャンルでした。

たまたま作曲先輩方の学内コンサートを聞きに行った時に、

急な暗転の中、

ビーーーーーー

シュワワワワーーーー

ガガガガガガ!!!!

...と言うなんとも、抽象的な爆音を披露している作品がありました。

「なんだこの音楽のジャンルは?」と度肝を抜かれ作品プログラムを読むと、そこに師事する先生の名前が書いてありました。よし、先ずはこの先生に近づこう!

こうして電子音響音楽を指導している先生の門下につくことに成功します。(大学時代お世話になった恩師はこちら

この動画は、ピエールシェフェール先生とピエールアンリ先生というこの音楽の創始者であり、この業界の方から言わせればレジェンドの貴重な動画


さて、電子音響音楽と言われるこのジャンルは、世の中の様々な環境音(ノイズ)などを録音し、それをオーケストラを作るように、波形編集トラックに並べて、曲の構成を考えていきます。

つまり曲の構成という部分では、作曲と考え方が似ていて、例えば

Aメロ→Bメロ→サビ→Aメロ→Bメロ→サビ→ブリッジ→大サビ

というのは、ごく一般的なポピュラー音楽などのあるあるな構成ですが、

似たようにクラシックには序奏・提示部・展開部・再現部・結尾部...etc などの考え方があり、

ソナタ形式、ロンド形式..と言ったように構成のパターンもあります。

結局やっていることは、同じ作曲。考え方も似ていますし。

ですが各学年を通しても、この音楽を研究しようとする生徒が同期には誰もいない。

「これなら、スタートラインに差がない、オンリーワンの存在になれるかも。」

こうして、この音楽を学び、触れ合う中で自分の生きる道を確信しました。


やがて、コンクールや交流コンサートを通して、大学内ではなく、全国の大学単位でこの音楽を学び研究している多くの人と出会い、作品を発表しあい、酒を飲み語り合い。大学四年生の時には、本場であるフランスへ学びに行くチャンスも得ました。

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大学四年生の時にフランスへ学びに行った時の写真

多くの経験を積むことができ、今でも全国に、当時切磋琢磨した多くの知人友人がいます。

また、狭い世界のジャンルですが、国内の作曲コンクールの最優秀賞をはじめとした幾つかの結果も残すことができ、また電子音楽の研究のおかげで活動的になったこともあり、学生生活に自信もつきました。

私の選択は正しかったと今でも思っています。


音楽団体結成の話

そういえば、最初の頃は、そんな私の学ぶ音楽を陰で馬鹿にしている人がいる。という話もチラチラ耳にしました。中には直接「あーその音楽キラーイ」と面と向かって言われたこともあります(苦笑)

どこの世界にも、大して知りもせず固定概念で物事を語る人間がいます。

(現在の業種でもそう言う人に遭遇します)。特に芸術の道を志す人間が、ジャンルに拘り耳を傾けないことほど情けないことはないですよね。

自分の幅は狭いです。と公言しているのと同じですからね。

こう言う人たちが、過去も現在も嫌いです。

そんな外野の声はありましたが、一個人としては、多くの経験から自信もつき始めていた頃で、大学三年生になると、研究している電子音響音楽だけではなく、

ピアノやヴァイオリン、サックスなどを使った作品にも着手し、コンサートの企画、そして、音楽劇団を主宰し、全国の小学校で公演をさせていただくなど、多くの経験を積むことができました。

やがて、毎月数本学校や幼稚園からお話をいただけるくらいの劇団になっていきました。

ワクワクラボ経歴資料

毎月どこかの街で公演をしていた時代

同世代の仲間とチャレンジする。そこには思い出がたくさんあります。その中の何人かは(海外にいる奴もいますが)今も歳を重ねても会うことのできる、大事な仲間たちです。

何よりこの頃に、運営のノウハウと経験を蓄積できたのは大きいです。学校への営業も、資料作りは一人でこなしましたし、曲作りも、演奏も、必要に応じたスタッフの手配もこなしながらの運営でした。

と、同時に演者のマネージメントの大変さも。。。苦引笑

何かを始めるということ、そして多くの人を束ね上に立つということはどんな業種であっても大変ですよね。

代表と名乗り、ある程度の人数を動かす立場であれば、誰しもが感じている宿命だと思っていますが、この時の経験が、次のステップであるスクール経営にも役立っています。

学生時代の延長のようなところもあったのと、私自身就職して手が回らなくなったこともあり、みなとみらいの大きな公演を持って解散しましたが、

次のチャレンジとして、並行して始めたのが、大学時代の仲間を誘って二人で始めた習い事スクールの経営でした。

最初は週1〜。もちろん、起業してから今日までに大変な紆余曲折ありますが、少しずつ業務拡大を行い法人化もしながら11年、今に至ります。

ざっとそんな昔話を書かせていただきました。

その先の1つ1つのエピソードにも想いれがあり、書こうと思えば、この長さでは収まりきらないのですが、自分のことはこの辺にして、

まとめると、私とは

・鹿児島の小さな田舎町出身
・何事にもまず飛び込んでいくことが信条
・人とは違うことを選びがち
・自分の生きる道を模索しながらここまできた


そんな人間です。

さて、次回からはいよいよ本編に繋がるこのブログのコンセプトです。

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