BOOK CAFEそらふね『Humankind希望の歴史~人類が善き未来をつくるための18章~』
「人の本性は野蛮で利己的」「残酷で残忍な本能で他の種を駆逐して生き延びたのがホモ・サピエンス」「理性を発達させて、文明を発展させてきたおかげで私たちはどうにか集団や平和を維持している」
そんな「現実主義的な考え方」に、衝撃的パラダイムシフトを起こそうとしているのが、この本。
「太陽が地球の周りをまわってるんじゃない!地球がまわってるんだ!!」とかつて世界観がグルンとひっくり返ったように、この本は私たちニンゲンの歴史、人類史がひっくり返る転換地点の旗印になるんじゃないだろうか。
地動説の波が、来てるぜ・・・・
読みながら何度もぶるぶる武者震い。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
―― ポール・ゴーギャン
希望の歴史から、善き未来へ・・・!!
BOOK CAFEそらふね第5弾は、この1冊(上下2冊)。移動式図書館の船長とと子が心を込めて、お送りします(''◇'')ゞ!!!
人類史を見つめ直す
人類の歴史ってのは、ニンゲン像のこと。ニンゲンがニンゲンに思い抱くイメージ、アイデンティティってやつ。人類史とか歴史って言うとスケールが大きく感じるかもしれないけど、ワタシだってニンゲン。ニンゲンだもの。だからこれはワタシのアイデンティティにまつわる話でもある。
・人の本性は野蛮で利己的
・残酷で残忍な本能で他の種を駆逐して生き延びたのがホモ・サピエンス
・理性を発達させて、文明を発展させてきたおかげで
私たちはどうにか集団や平和を維持している
今私たちが「現実主義」と呼んでいるニンゲンに対するこういった評価は、「性悪説」って言われている。善く生きるためにはたゆまぬ努力と訓練が必要不可欠だって考え方。
それに対して波紋を投げかけるルトガー・ブレグマンの『Humankind』は単純に「性悪説を否定して、性善説を肯定するハナシ」だって思われるかもしれない。でもね、そうじゃない。ダイジなのはそこじゃないのよ奥さん!!
「性善説」をかなり強調している本ではあるけど、それは性悪説があまりにもこびりついて「当たり前」になっている社会に対して、そんなことないぞってデータを提示しているだけ。これでもかってくらいたくさん(笑)そうでもしないと、頭にこびりついた性悪説はぬぐえないのかもしれない。
ルトガー・ブレグマンが上下2巻に渡って「性善説」の根拠となるデータを提示しているのは、「ニンゲンの本質は、悪か?善か?どっちなんだ?」ってことが言いたいからじゃない。ダイジなのは、『善き未来をつくる』ために、私たちは「選択」することができるってこと。選択するチカラがある。性悪説のニンゲン観では辿りつけなかった未来の可能性を、性善説は見せてくれるんじゃないか?性善説を「非現実的な理想論だ」と切り捨てている限り辿りつけない新しい未来の方向性が、あるんじゃないか?
「性善説」ってのは、お互いを肯定しあう関係性。これって、生命力を高めあう「つながり」じゃあないか!!
上の記事を読んで実践してくれた人は気付いた(ショック受けた?)と思うんだけど、相手を肯定して自分も肯定する「つながり」って、なかなかタフなんだよ(笑)かなり、勇気がいる。
それでも「性善説」は現実離れした夢物語じゃない。生命力を高めあうつながりを創りだすチカラってのは、決して不自然な行為じゃなくて、ニンゲンが本来持っていたチカラなんだ、って、静かでパワフルな勇気をくれる本。
私たちにこびりついている「性悪説」
著者が「性悪説VS性善説」のテーマに向き合うきっかけになったのは、前作で述べた提案”ベーシックインカム”に対してひっきりなしに「ありえない!!」という意見が届いたからだそうだ。
「ニンゲンに自由を与えたら、ろくなことしないよ!」「どんどん堕落しちゃうに決まってる!」って。そういう意見はみんな「ニンゲンってやつぁ、根が腐ってやがるぜ!」って信念に基づいている。
うん、そう言う人の理屈もわかる。とっても「常識的」な気がする。
本書では西洋の哲学者ホッブズとルソーに「性悪説VS性善説」の起源を辿るんだけど、東洋ではもっともっと昔に思想家たちの間でこのニンゲン観バトルが始まってたんだよね。
※あれ、荀子が旬子になってる・・・
ホッブズとルソーそれぞれの信念と、社会に対してどんな影響があったのかってことが書かれてる。なんでそんなギャップが生まれたのか…とかね!このあたりの西洋の哲学の変遷って、すんごくオモシロイのよ!!
ニンゲンや社会の在り方論から、宇宙論、個人の生き方論に至るまで、あーでもないこーでもないと考えて考えて考え尽くしてきたのが「哲学」の歴史。
こちら、まるでプロレス観戦のように哲学史を手に汗握って楽しめる、エンタメ要素盛沢山の哲学書。「オレ、ムズカシイハナシ好キジャナイ…」って人でも楽しめるから、ぜひ読んでみて!ニンゲン観がさらに広がること、請け合い( ´艸`*)
さてホッブズはざくっと言っちまえば、RPGのダークヒーロー的な「恐怖で全てを支配すること、それが平和の維持のために必要なのだ(ゴゴゴゴ・・・)」って考え方だったのね。ニンゲンは野放しにすれば血で血を流す争いになる。「万人の万人による闘争」もうめっちゃくちゃのグッチャグチャ。我々の社会に必要なのは、最強最悪、終末の獣・・・「リヴァイアサン」なのだ!!!!
対してルソーは「いやいや逆じゃない?都市は権力者が民を苦しめてるじゃん。田舎は惨い社会になってるどころか、助け合って平和に暮らしてるよ?」と主張したの。
ちなみにルソーは教育学の祖として有名なんだけども『史上最強の哲学入門』ではろくでなし人間ルソーの裏話を取り上げてて衝撃的だった(笑)ルソーの章は、かなり笑える。私的には、すごく好感が持てるダメなおっさん。
ホッブズとルソーが健闘したのちに、革命や資本主義といった経済システムの変化を経て・・・最終的にはトップダウン式に支配する性悪説ベースの社会の仕組みが採用されて、今に至る。
そして時代はもっと遡って東洋編。性悪説といえば荀子、そしてそのライバル性善説の孟子。
二人とも道教で神格化されている思想家「孔子」の思想を継ぐ儒教の一派になってるんだけど、孟子が孔子の「仁」という精神論を軸にしたのに対して、荀子は「礼」という規範を軸にしたの。
「仁」ってのは「徳」ですな。善き行い、気高きふるまい。トップが「オレについてこい!!」と堂々と言うためには誇り高き人徳が必要なのじゃ、と孟子は言う。だって人は本来良心があるはずですもの。その良心をうまいこと引き出せないのは、王が無能やねん!!とズバッとぶった切る。これが孟子の性善説。性善説というと朗らかで優しいイメージがあるかもしれないけど、めちゃめちゃ熱く厳しいパッションの持ち主。
でも荀子は「そんなの理想論、人は生まれつき人を憎むもんなの。善い人格はビシバシ教育してこそようようやっと築けるもんだろ」って主張した。そこから「仁」(人徳)より「法」(規則や罰則)だよねってムードが強くなっていった。
東洋も西洋も、最終的には「性悪説」を採用したってわけ。
文明のはじまりは、支配者の歴史の始まり
私ね、ルトガー・ブレグマンがルソーのハナシの中で紹介している一節がとっても好きで、印象に残ってるの。
杭や溝で、ある土地に囲いをして、「これは俺のものだ」と言うことを思いつき、人々がそれを信じるほどおめでたいことに気付いた人こそ、文明社会の真の創設者だった。
杭を引き抜き、あるいは溝を埋めながら、「こんなペテン師の言うことを聞くんじゃない。大地の恵みは誰のものでもない。それを忘れたら、あなたたちは破滅する」と同胞に向かって叫ぶ人がいたら、どれほど多くの犯罪や戦争、殺人、不幸、恐怖を避けることができただろう。
―― ルソー
叫んだ人、いたんだよ・・・。ちょうど同じか、少し後の時代だろうか。それでも、その声は届かなかった。結局、その叫びが怒りになって、犯罪や戦争、不幸、恐怖が生まれてしまった。
大地を、空を、雨や風を、「買う」ことなどできるのだろうか。
我々は地球の一部であり、地球は我々の一部だ。
アメリカアメリカ連邦政府に土地を譲渡する条約を結んだ、ネイティブ・アメリカンのシアトル酋長のスピーチは、英語に訳され、色んなバージョンで伝えられている。絵本にもなってるんだね!
私は縁あってラボ・パーティが出版している教材でこのスピーチを知ったんだけど、あれは心揺さぶる。市販されてないのが残念。。。声、音楽、全てが本気でつくられた作品。教材じゃねぇ、血の通った作品だ!って言われるのが分かる。
ある時代からニンゲンは土地を「所有」するようになった。「定住」するようになった。そこから文明は始まった。
【生命力を高めあう「つながり」を自分の手で創る方法】で紹介したコミュニケーションの手法NVC、これを体系立てたマーシャル・ローゼンバーグは「農耕が始まり、支配者が生まれた。支配者の言葉(暴力)が生まれた」と言う。定住化のビフォア・アフターで、リーダーシップの在り方はがらりと変わった。
狩猟採集民、日本で言えば縄文人かな。教科書の指し絵とか描写だと「野蛮で未開な生活スタイル」みたいな印象じゃない?
でも、「不潔な環境による病気」「家畜の伝染病」「飢饉」「戦争」「強制的な労働や暴力」はみんな、定住化(文明化)の副産物だったって知ったら・・・?
ちょっと待って、もっともっと遡ってみよう。
ほら、ちょっと前に話題になったあの本とか、有名なあの本!
そもそも我々ホモ・サピエンスは、他のニンゲン族を残忍に駆逐して唯一生き延びた種、なんじゃなかった?!野蛮なケモノ以上に野蛮なのがニンゲンなんじゃないの・・・?
遺伝子レベルで言っても、「利己的」なのが生物のデフォルトなんでしょ?その中で勝ち残ったニンゲンが、キング・オブ・ヤバン人!弱肉強食、適者生存の社会なんじゃないか!!
・・・と、いう最近の「常識」にこれでもかっっ!!!てくらい反論データを見せてくれるのがルトガー・ブレグマン。楽観的で非現実的な理想主義?いやいや・・・願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよってなもんで。
刮目せよ!!!!!今を生きるホモ・サピエンスども!!!!
ホモ・サピエンスはどうして生き残った?
ホモ・サピエンスと同時代を生きたと言われるネアンデルタール人。ホモ・サピエンスが生活圏を拡大していくとともに、他の人類は姿を消していったという考古学的事実がある。
ホモ・サピエンスもネアンデルタール人も同じニンゲンだけど、チワワとシェパードくらいに別の種類。ちなみにホモ・サピエンスはチワワのほう(笑)ネアンデルタール人は筋骨隆々のマッチョな種族だったようだ。
サピエンスってのは「賢い」って意味なわけで、きっとより賢いサピエンスが上手いこと出し抜いたんじゃないの?って思うよね。でも実はネアンデルタール人、脳の容量ではサピエンスよりもはるかに大きかったらしい。身体(運動能力)だけじゃなくて、細かい道具だって作っていたっぽい。
ちなみに「生まれ持っての知性」の差で言えば、チンパンジー、オランウータン、ニンゲン、どっこいどっこいらしい。これは実験で証明されている。
賢さと似た説になるんだけど、ニンゲンは「ウソをつく能力が高い」から脳(知性)が発達したって説もある。だとすると・・・どうしてニンゲンは「黒目が小さい」とか「赤面する」っていう、他の動物ではありえないような、感情を読み取られやすい独特な性質を持っているんだろう??
この画像、右がネアンデルタール人、左がホモ・サピエンスの頭蓋骨。野生のオオカミと、室内犬くらい存在感のギャップがある。可愛い室内犬・・・実はここに大きなヒントがある。
野生動物が家畜化されることで起こる変化
家畜っていうとちょっと強烈な言葉だけど、飼いならされてペット化されたフレンドリーな動物たちを思い浮かべてほしい。犬とオオカミ、ネコとライオン、ブタさんとイノシシ。比べてみると、身体のサイズ、脳と歯が小型化しているって特徴がある。あと、ブタさんとかが分かりやすいんだけど、野生から交配を繰り返して家畜化していくうちに、耳が垂れる、尾が丸まる、まだら模様がでる、って特徴が出てくる。それから、見た目の幼さが残るってこと。かわいらしくなるってことだな。
ルトガー・ブレグマンはロシアで行われたギンギツネの実験を紹介する。キツネの中でも獰猛なモフモフ野郎ども、ギンギツネを集めて交配を繰り返し、オオカミが犬となってニンゲンの友達になったように、変化が起こるかどうか?っていう実験。
希少の荒いもふもふ野郎どもは檻に指を入れようもんなら「喰いちぎってやる!!!」とばかりに襲い掛かってくるオソロシイやつらなんだけど、その中でも攻撃性の低そうなやつを選んで交配させたんだって。オドロキ桃ノ木なのは、たった数世代で変化が現れたってこと。
耳が垂れて、しっぽがくるんと丸まってくる。そしてものすごく懐っこい。つまり、可愛すぎるもふもふ野郎どもがどんどん育っていったってわけ。
この可愛い実験がニンゲンとどう関係あるの?って?
ちょっとニンゲン遠目で見てみよう。ネアンデルタール人と比べると、身体が小型化して、脳と歯が小さくなった。そして幼さを残す形質。これって・・・野生動物が家畜化されて変化したのと同じ身体特徴じゃないか?!
なんてこった。ホモ・サピエンスってやつぁ、20万年かけて幼形成熟(ネオテニー)を遂げたホモ・パピーじゃないか。※Puppy=子犬
特筆すべきは、こうしてフレンドリーになったギンギツネたちは、そうでないグループのギンギツネよりも学習能力が圧倒的に高くなったっちゅうこと。家畜化は知能低下ってイメージがあったけど、実はそうじゃない。
先にチンパンジー、オランウータンとニンゲンの生まれつきの知能レベルは一緒って言ったけど、あれは「空間把握能力」「因果関係」「計算」っていう頭の良さに関すること。ニンゲンがお猿さんたちよりもはるかに成績がいい能力が、ちゃんとあった。それが社会的学習能力。学びあうチカラ。
家畜化されてフレンドリーになったギンギツネが好成績を叩き出したのも、社会的学習能力。
「言語」能力もニンゲン特有のものだけど、これも生まれつきというよりは「学習」して身につけるものに近いよね。その仕組みは諸説あるけど、私たちは生まれ育った環境や身の回りの人たちを通して言葉を学ぶ。これも発達した社会的学習能力のなせる業なのかもしれない。
ちなみにこれを読んでて思ったのは、「日本人ってすごく幼く見える」ってこと。学生の頃イランに旅行に行って、ホームステイ先のお姉ちゃんがものすごく大人っぽく見えた。同い年なのに。欧米の人も身体大きいし、大人っぽいよね。。。アジアの極東、日本人が幼形成熟なのも、ロリコン文化が発達(?)しているのも、更に家畜化…フレンドリーな種に進化しようとしている傾向なのかもしれない・・・なんて。
ギンギツネの実験でさらにわかったのは、フレンドリーなもふもふ野郎どもはストレスホルモンが低くなること、そして幸せホルモンのセロトニン、愛情ホルモンのオキシトシンが多く分泌されるってこと。
「つながり」が繁栄のカギだったのでは?
そこでルトガー・ブレグマンは、ホモ・サピエンスは残虐性によって生き延びたんじゃなくて、フレンドリーな性質や社会的学習能力が繁殖やサバイバル能力に一役買ったんじゃないか?って考える。
1台の超ハイスペックPC(ネアンデルタール人)よりも、動作は遅いけどwi-fiで繋がっているチーム(ホモ・サピエンス)のほうが、環境の変化や困難を乗り越える可能性が高かった。結果、生き延びた。
個々の生命力、そして集団の生命力を高めあうシステム「つながり」によって、ホモ・サピエンスは繁栄した。
集団のチカラを知っているからこそ、狩猟採集の文化では「一人(または少数)の権力者」を好まなかった。ピラミッド型ではなくネットワーク型の交流が各地で見られた。この古い社会文化の意外な一面(巨大神殿の建造、人脈の大きさ、秩序を保つルール)が次々と紹介されるのも、本書のオモシロいところ!!
今、私たちの健康科学でも「人との接触が全くないことは一日にタバコ15本吸うのと同じくらい身体に悪い」ってことが明らかになってきた。私たちは(生存)本能的に「つながり」を求めるんじゃないだろうか?
さてさて・・・ここまで読んでウズウズしてる人もいるかもしれない。そんなの綺麗ごとでしょ、歴史が証明してるじゃないか・・・って。
悲劇を繰り返さないために必要なのは「希望の歴史」
思いつく限りの悲劇、多くの人に支持されている有名な心理実験や、印象的な事件・・・ルトガー・ブレグマンはひとつひとつ取り上げている。もちろん、それは無かったことに出来ない。彼が注目しているのは、「スポットライトの当たらなかった歴史」と、「どうしてそこにスポットライトが当てられなかったのか」と言うこと。
ここで思い出したのは、私の敬愛する内田樹せんせが『寝ながら学べる構造主義』の中で「良い入門書とは」というハナシの中で言っていたこと。
私たちは何を知らないのか?なぜ知らないままで今日まで済ませてこられたのか?今まで目をそらしてきたことは何なのか、そこに重要な問いがある。「無知」ってのは、怠惰の結果じゃなくて一生懸命目をそらして「無知」を維持してきた勤勉の結果なんだ。「何を知っているか」じゃなくて「何を知らないのか」そこから知的探求は始まる。良い入門書ってのは、その重要な問いに繰り返しアンダーラインを引くような本なんだ、って。
繰り返しアンダーラインを引くように、ルトガー・ブレグマンは歴史の中で繰り返されてきた悲劇と、その中でかき消されてしまった声を取り上げる。「どうして私たちはそれを知らなかったのか?」まさにそこに、性悪説と性善説で二分された世界のカギがある。
▶少年たちの残忍な本能を描いた小説「蠅の王」は、リアルな物語?実際に起こった無人島に取り残された少年たちの話。
▶イースター島は森林伐採や文明社会の崩壊モデル?島民の命を奪い文化を壊滅させたものの正体は…
▶スタンフォード大学の囚人実験は・・・茶番だった?
▶合理主義が生んだ悲劇ホロコーストと、デンマークの奇跡
上下巻に分かれるボリュームで書かれている、歴史の光と影。ルトガー・ブレグマンは決してニンゲンの負の側面を否定しているわけじゃない。性悪説と性善説の矛盾に、証言やデータを大量に集めて真摯に向き合おうとしている。
だって、おかしいでしょ?つながりのチカラを熟知して生き延びたのが我々の祖先なら、どうしてわざわざつながりを絶つような、奪い合うような社会ができてるわけ?様々な歴史的事実を、スポットライトが当たらなかった部分も含めて拾い直していくことで、性善説と性悪説その両極端なニンゲン観を生み出す「本質」はコレじゃないか、と浮かび上がったものの一つが・・・
愛情ホルモン「オキシトシン」。
オキシトシンの二面性
ギンギツネの実験で、家畜化されてフレンドリーになった個体はオキシトシンが多く分泌されることが分かった。オキシトシンってのは「愛情ホルモン」っていうように、人との交流とか触れあいによって生じる幸福感に作用するホルモンだよ。
赤ちゃんのふにふにほっぺを触ってるときとか、もふもふ野郎と戯れてるときとか、大好きなダーリンと手を繋いで夕暮れビーチを散歩してるときなんかに分泌されてるやつ。ちなみに女の人は産後、授乳の時に多く分泌されて、我が子への愛おしさとか幸せな気持ちを強く感じやすいようだ。
我が子への特別な感情、守ってあげたい!!って気持ち。これがオキシトシン。裏を返せば、「特別な感情」ってのは「他とは違う存在」っていうヨソと身内をハッキリ意識する感情、「守ってあげたい」ってことは防衛すべき対象、「敵を想定している」ってことになる。産後ガルガル期とはよく言ったもので、オキシトシンの「愛情」は「攻撃性」で裏付けられてるともいえる。
産後、夫への気持ちの変化ってのは、オキシトシンによるものも大きい。「敵か?味方か?」で振れ幅がえらい違うわけだから、一旦敵(こいつは我が子を脅かす存在だ)と認定されれば「排除/防衛/攻撃」の対象になっちゃう。知らんおばちゃんに近寄られただけでイラッモヤッとするママたちは、社会を敵とみなしているからかもしれない。
身内(味方)か、そうでないか?
ホームグラウンド、安全領域を守ることで心地いい関係を維持するために、他者、馴染みのないもの、見知らぬ存在に嫌悪感を抱かせるのがオキシトシン。ここに性善説と性悪説の分岐点があるんじゃないだろうか?
ニンゲンは「良い人」でありたいと欲する生き物
もうひとつ、ニンゲンってやつは「良い人」だって思われたい性質があるんだってこと。『嫌われる勇気』なんて本がベストセラーになるくらいだから、嫌われることに対して相当な「負担」を感じるのがワレワレ。
悪事を行わせるには、それを善行であるかのように偽装しなければならない。地獄への道は、偽りの善意で舗装されている※のだ。
※ The road to hell is paved with good intentions:英語のことわざ
多くの歴史的悲劇は、ニンゲンが持つ「善意」を刺激・コントロールすることで引き起こされた。これは良い行いなのだ、貢献しているのだ、と思い込むこと。そして思い込ませること。
性悪説の根拠として有名な心理実験に、ミルグラムの電気ショック実験とスタンフォード大学の囚人実験がある。実はこれも、取り上げられていない「事実」が多くある。その「事実」と実験結果を照らし合わせて見えてくるのは、逆説的だけども「良い人でいたいというニンゲンの欲求」が絡んでいるぞ、ってこと。
ミルグラムの電気実験は、アイヒマン実験ともいわれる。ユダヤ人大量虐殺の責任者、ナチスドイツのアイヒマンを強く意識している実験だから。歴史上最大の悲劇ともいえるホロコースト、その最大責任者はどんだけ残虐残忍で非人道的な大悪党かってなもんで、大勢の人が彼の裁判に注目した。
何よりもショッキングだったのは、アイヒマンが「普通の人」だったから。彼は「私は上の命令に従っただけ」だって主張を繰り返した。(日本人の好きなセリフだな!!)
「なんでもない普通の人でも、権力に従うことによってどこまでも残虐になれる」これを検証(というか、証明)するためにミルグラムが行った実験が、電気ショック実験。人は目の前で苦しんでいる人がいたとしても、それが命に関わる重大な決断だとしても、「押しなさい」と言われれば押すのか?
そして実験の結果、彼が導き出した答えが…ご存知の通り。人は命令に従うのだ。例えそれが他人の命に関わることであっても。
もうひとつ、ニンゲンと権力と暴力の関係を問題提起した有名な実験に、スタンフォード大学の囚人実験ってのがある。大学生を囚人役と看守役にランダムに振り分けて、その結果どうなったか?看守役はサディスティックに、どんどん非人道的な振る舞いをしだした。普通の人でも、肩書や与えられた地位によって行動が変わるってことをショッキングに知らしめた実験。
ここで、ルトガー・ブレグマンは「スポットライトが当てられなかった部分」に気付き、それを掘り下げてできたのがこの本。暴露本に近いかもしれない。実験の裏側、そして実験結果が示していたのは、ニンゲンの「良い人でいたいというニンゲンの欲求」が引き起こす同調性だった。
同調と服従は似てるようで違う。ニンゲンは権威的なふるまいには反射的に嫌悪感・反発心を示す。「宿題やりなさい!」といわれたらやる気をなくすアレ。でも、それが「役に立てること」「良いことをしてるんだ」と思わせることができたら・・・
これは単純に、性悪説(ニンゲンは腐ってて残虐な本性を持つ)って言えるのかな?
そう、ルトガー・ブレグマンはニンゲンが愚かで残酷な行動もとってしまうことを認めている。同時に、その裏には単純に「本質が悪だから」とは言えない事実があることを指摘している。
人間は善を装う悪に惹かれる
―― ハンナ・アーレント
アイヒマンの裁判を傍聴して「悪の陳腐さ」を見抜き「ホロコーストっていうおぞましい歴史をつくったのは、悪のトップにあたる人物じゃなくて、ワレワレ大衆だ」という主張を発表して大炎上したユダヤ人哲学者のハンナ・アーレントは性悪説論者ではなかった。彼女はむしろニンゲンの善性にニンゲンらしさを見出す哲学者だった。
心の中に住む二匹のオオカミ
おじいさんは孫に語って聞かせました。
お前の心の中には2匹のオオカミがいる。私の心の中にも。一匹は良いオオカミだ。喜び、愛、平和、思いやり、慈しむ。もう一匹は悪いオオカミで、そいつは怒り、恐れ、妬み、嘘や劣等感、敵意を持つ。二匹は心の中でいつも闘っているんだよ。
どっちのオオカミが勝つの?
孫が尋ねました。おじいさんはにっこりと微笑んで、こう答えました。
お前がエサを与えるほうだよ。
これをプラシーボ効果とノセボ効果で説明してもいい。そうだと思ったらそういう現実になるってこと。ピグマリオン効果とゴーレム効果というのもある。引き寄せの法則って言葉が好きならそれを思い浮かべてみて。心理学好きならネガティビティ・バイアスとアベイラビリティ・バイアスで説明できるよね。社会学者はこれを「自己成就予言」と呼ぶ。
人は、教えられたとおりの人になるってこと。性悪説をベースにした社会は、性悪説の思い浮かべるニンゲンを育てる。それは本性というより、積極的な努力の結果と言えるかもしれない。
経済学は性悪説のホッブズからアダム・スミスを経て「利己的な性質」に注目してそれを肯定することで発展してきた。経済学を学んだ学生は、より「利己的な」性格になるらしい(笑)
そしてマスメディアは、より刺激的で話題性のある方を選択する。性悪説ベースの社会は、マスメディアがつくりあげたと言ってもいいくらい。ジャーナリストは煽情的な話を売るために簡単に世論を操作する。
繰り返すけど、本書はニンゲンの美徳を説くものじゃない。問題は、どちらを選択するか。私たちには、選択肢がある。選択するチカラがある。もう一つの可能性を信じられないのなら、この本を読んでほしい。そして改めて、どっちを選択する?と自分に問いかけてほしい。
もちろんルトガー・ブレグマンはもうひとつの可能性に「希望」を見出しているわけで、そっち目線でハナシを進めているわけだけど。それも勘定に入れたうえで、読んでみてほしい。どっちのオオカミにエサをやる?
そんなこと言ったって、世界がそうなってるんだもん。どうしようもないよ。。。と思う人ももしかしたらいるかもしれない。私たちは絶望的で圧倒的な世界のシステムに、従うしかないんじゃないか?
ないなら、つくろうよ!!
鬼の食料になる「運命」から、自由の「世界」に。ないなら、つくろうよ!そんでもって、「悪」を切り離して「退治」するんじゃなくて、「みんなを救う」んだって主人公。大流行した鬼滅の刃もそうだ。
話題作ってのは、同じ時代を共有する「無意識」のうねりを反映してる。無意識は深い深い部分で繋がってるからね。
私たちは今、新しい世界、敵と味方を切り分けて倒してトップを目指すんじゃなくて、弱さを受け入れて共存できる道をさぐる「新しい強さ」「新しい未来」を求めているのかもしれない。
これまで目をそらしてきた「課題」
私たちは何を知らないのか?なぜ知らないままで今日まで済ませてこられたのか?今まで目をそらしてきたことは何なのか、そこに重要な問いがある。「無知」ってのは、怠惰の結果じゃなくて一生懸命目をそらして「無知」を維持してきた勤勉の結果なんだ。
性悪説と線前節の分岐点に、フレンドリーで「つながり」のチカラを手に入れたホモ・パピーの欠点、「身内への愛情VS他者への嫌悪感」「影響されやすさ(同調)」がある。
戦争を過激に進めるのは、正義感や正当性(思想、イデオロギー)だけじゃなく、愛情でもある。大切な人、大切なもの、場所を守りたいという気持ちが敵を生む。ルトガー・ブレグマンは「共感は私たちの寛大さを損なう」と言う。犠牲者に共感するほど、敵をひとまとめに「敵」とみなすからだ。
ちなみにここでいう「共感」は、私が前回紹介したNVC(共感コミュニケーション)の「共感」とは全く違う心の働きを指してる。危険なのは、同じ気持ちを味わって、同じ目線で世界を見ようとする「共感」。これは身体にも悪い。その共感が、「影響されやすさ(同調)」になって、偽りの善意で舗装された悪の道に突き進む全体主義のワナに陥る。
だからこそ・・・だからこそ、NVC的な「つながり」への態度はこの課題を乗り越えるために必要だと思うんだ。相手はこういうやつだ、こう考えてるはずだ、って「分かってる」と思い込んでいるからコミュニケーションは座礁する。それは相手の声を奪う「暴力」だ。
私たちは相手が何を望んでいるのか分からない。分からないからこそ、歩み寄る必要が生まれる。歩み寄ることで、交流が生まれる。交流はお互いを「見知らぬ危険な存在」から、お互いの存在を肯定しあう「生命力を高めあう相手」になる。
心理学者ゴードン・オールポートは生涯を通じた研究を通して「人種差別や憎しみ、偏見は『交流の欠如』が原因だ」と発見した。
多様性と交流が生むのは摩擦?寛容性?
移民の問題とか文化の摩擦ってのはあちこちにある。移民が急増した地域は偏見を強める可能性もある。これはすごくムズカシイ課題。
でもね、多様性が寛容さを生むという事実もたくさんあるんだよ。2018年シンガポール大学の国際的チームは多様な人種が住むコミュニティのニンゲンは見知らぬ人に対してより親切にする傾向がある、と発表した。2013年のボストンマラソン爆破テロのとき、多様な隣人を持つ人々ほど人助けに熱心だった。
そして明らかになったのは、交流を通して多様性に慣れるには時間がかかるっていう、単純だけどムズカシイこと。
それから、偏見を排除するためにはまず自分のアイデンティティがしっかりと確立していることが必要だってこと。私は私というニンゲンで、あなたはあなたというニンゲンである。違っていてもいい。大丈夫。
聖徳太子の「和を以て貴しとなす」の精神が役に立つんじゃないかな。これ、同調や同意の精神と勘違いされてるけど、そうじゃないんだよ。
「和」には「龢」という古い漢字があるんだけど、これは植物(竹筒?)を束ねて音を出す楽器を表しててね、和楽器の笙みたいなイメージかな?何本もの音がそれぞれの音を出して、全体として調和している様子を描いてるんだって。
日本の伝統芸能、能楽で扱う楽器にはね、共通の音程が無いんだって。上中下って音階で演奏するらしいんだけど、奏者はそれぞれに「自分の中」を持っていて、それを元に高低をつける。ひとつの共通の「基準=正解」に合わせるんじゃなくて、まずは自分の音をちゃんと持っていて、それを堂々と表現する。それぞれの音がそれぞれの音のままに生む調和、ハーモニーが「和」なのだ。
そして時間をかけて交流の機会を持つ勇気をくれるのは、どんな「物語」だと思う?
世界を善悪に分けて、一方を攻撃することは簡単なこと。乗り越えるべき課題から目をそらせるからね。ルトガー・ブレグマンは「現実主義(冷笑主義)」を怠惰にすぎない、と一蹴する。それは責任をとらないための言い訳だ、って。
一方で積極的行動主義(アクティビスト)たちの「慈善派」にも厳しいコメントをする。彼らの関心は「善いことをしている私たちという自己イメージ」であって、自分たちは分かっていて他の人は分かっていない、という態度で偉そうにアドバイスする。私、環境保全系の活動に参加していたことがあるんだけど、活動的な人ほどこの視点が強いなってすっごく感じた。彼らにとって「悪いニュース」は自分たちの活動を正当化する「良いニュース」になる。
新しい物語「善き未来」をつくる
本書では政治、教育、経済、宗教、いろんな視点で「これからの(選択できる)可能性」を提示してくれている。悲観主義でも楽観主義でもなく、可能主義だ、とルトガー・ブレグマンは言う。
今の時代は、自分の内面にばかり目を向け、外に目を向けることが少なすぎるようだ。よりよい世界の構築は自分一人でではなく、皆で始めるものであり、主な仕事は、今までとは異なる制度を創ることだ。
まずは、アイデンティティを「更新」しよう。自分自身のアイデンティティ、そして我々ニンゲンのアイデンティティを。
私らしさってのは、更新し続ける物語なんだって思うの。私はこれを占星術を通して感じるようになった。【生命力を高めあう「つながり」を自分の手で創る方法】の中でも、自分ならではの「生命力のカタチ=アイデンティティ」について書いたんだけど。
点と点を結ぶ見えない線、もともとなにも「ない」ところに浮かび上がるカタチが、自分らしさ。最初からそこにあったわけじゃなくて、照準を合わせながら調整しながら引いていく線の重なり合いに、「今」がある。
その照準を合わせる揺れ動きを決めるのが、自分と他者(世界)との関係性、どんなふうに「つながり」をつくるか。
「つながり」の先に見えてくるカタチ、質感、色合いや風味…そういったものを全部まとめて、自分が自分に語りきかせた物語の登場人物(主人公)が「私らしさ」の正体だと、そう思ってる。
光をつないで描く星座に、絵を見出して、そこに神話が重ね合わされたように、点と点をつないで、線と線をむすんで、大きな意味を見つけ出すのが生きていくてことなんじゃないかな。私たちはみんな、自分の神話を生きてる。そしてそのストーリーは、自分で決められる。
今、更新のタイミングがきてるんじゃないかな。私もあなたも含む、ニンゲンっていう主人公の物語を「語りなおす」大きな転換地点。天動説から、地動説へ。
哲学者の鷲田清一せんせは、人は自分の物語の「語りなおし」を繰り返して成長するんだっていう。語りなおしを通して、これまでの経験、人生を縫い直して、新しい模様(デザイン)に仕立てなおす。ひと針ひと針縫い直すことは、当然痛みを伴う。でもそれを誰かに変わってもらうことはできない。自分たちで、自分たちの物語を語りなおさないといけない。
何も「今から活動するぞ!囚人を解放しろ!古臭い学校は閉鎖だ!」って言ってるんじゃないのよ。
わたしたちが抱く信念は、真実であっても想像であっても、同様に命が吹き込まれ、世界に変化をもたらす。
どんなふうに世界を見る?目の前の相手と接する?何を信じる?自分はどうふるまう?って、それだけでもえらい違うと思うんだ。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
―― ポール・ゴーギャン
Humankind、我々ニンゲンの希望の歴史。どんな世界で生きたい?その世界の住人である自分は、そこでどんな風に生きてると思う?善き未来は、もう始まっていると思うんだ、私は。
どうだい、一緒に?乗らないかい?ってなもんで。移動式図書館そらふね船長とと子がこの度ご紹介したのは、ルトガー・ブレグマンの『Humankind 希望の歴史 人類が善き未来をつくるための18章』でした(''◇'')ゞ